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「教えて」やってわかった知識自慢(自己顕示欲)が思いやりを上回る法則
一般論として、人っていうのは、 「人への思いやりよりも、自己顕示あるいは自己表現欲求のほうが勝るものである」 ということが当てはまるようだと思いました。 もちろん少数の例外(それこそ真の人格者)はあると思いますが、一般法則として感じます。 それは「教えて」をやって感じたことです(これを一般化するのはどうかと思われますが、どうも日常であう光景を考えても妥当なような気がします) ある質問で、 「すごく周りにいざこざが合って心が苦しい時代があった時に、なにか超自然的な現象が起こった、これを説明できないか?」 「近親相姦をしてしまっているのだが、なぜいけないことなのか教えてほしい」 という例があって、 これに対して、「同情」というようなものが感じられる回答がない。私は可能な限り、「知識にひけらかせ」ともちろん「嫌がらせ嫌味」は問題外だと思っているのですが、はじめのほうの質問には「そういう大変な時期なのですから超常現象のほうは付随的なんでしょ?」というニュアンスで回答できたのですが、あとのほうは「近親相姦してしまって悩んでおられますね心中お察しします」という風にはなれずに、「知識論」で通してしまったのです。あとのは「嫌味」やら「嫌がらせ」やらそこらの子供の戯言と同じでしたが、私としたことが、「同情」「共感」を持って回答できなかったのです。 ああ、これは限界だと思いました! いくら私が自分で行儀いいやつだ、情けが深いやつだとうぬぼれてみても、所詮はレヴェルの問題で、本質的な人格者寛容者ではないわけです。 人は結局、なにか忌避したいものとか蔑みたいもの、そういうものを作ってあるいは感じて、それに対して自分の優位性のようなものを抱いて生きているものなんでしょうかね?
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まず、 「人への思いやりよりも、自己顕示あるいは自己表現欲求のほうが勝るものである」 とおっしゃる点について。 私は「人への思いやり」も「自己表現欲求」なのではないか、と思います。 ですから、「(一方的な善として)人を思いやっている」と自ら公言する人を私は信用しません。 人格者どころか、偽善者と呼ぶほうがふさわしいのではないか、というのが私の見解です。 「思いやり」というのは、高みに立って一方的に相手に与えるものではなく、相手の立場を【ある程度】慮るということでしょう。 【ある程度】というのは、個人のキャパシティの範囲内で、という意味です。 自己犠牲を伴なう思いやりは真の思いやりとは言えません。 なぜならば、それは、ある人の犠牲の元に自分は思いやりを受けているのだ、という罪悪感を相手に付与することに他ならないからです。 つまり、思いやりというものはエゴと裏表の要素を持っているわけです。 これが個人のキャパシティの範囲で行なうべき根本的な理由です。 ですから、(確かに、陥りがちな陥穽ではあるのですが)無意識的にせよ「~してやった」という感覚が兆すうちは本物ではない、というのが私の考え方です。 本当の思いやりというのは、真理(と自分が信じること)について語り、一時的ではない心の安定を目指そうとするベクトルに相手を誘おうとする姿勢ではないでしょうか。 そのこと自体が取りも直さず自分自身の向上にも直結するわけですから、たとえばここでの質問者と回答者が対等であるというのは、そういう意味でもあるわけです。 仮にそれが、拙いものであったとしても、その姿勢は相手に勇気を与えるのではないか。 そう感じます。 >私としたことが、「同情」「共感」を持って回答できなかったのです。 :ともおっしゃっていますが、それを持って回答すべきときとそうでない時があるように思います。 近親相姦のほうはあれでよかったと思います。 「>人は結局、なにか忌避したいものとか蔑みたいもの、そういうものを作ってあるいは感じて、それに対して自分の優位性のようなものを抱いて生きているものなんでしょうかね?」 とのことですが、あの質問に対して同情的に回答しようとする姿勢がすでに「優位性」を意識していることになります。 何事につけ「同情」の本質は自己満足にすぎず、相手をスポイルする要素は非常に大きいのではないでしょうか。 >いくら私が自分で行儀いいやつだ、情けが深いやつだとうぬぼれてみても、所詮はレヴェルの問題で、本質的な人格者寛容者ではないわけです。 :むしろ、これが自然で健全ではないですか。 レベルの問題というのは2点にわけて考えることができます。 ひとつは先に述べましたがキャパシティの問題です。 本人の度量以上のことをするのは好ましくありません。 自分にも相手にも無理がかかり、無理はストレスとなり、生体に不利益に作用せざるを得ないからです。 もうひとつは不合理な思い込みに関する問題です。 不合理な思い込みというのは大体が自己防衛のために発せられるものと考えてよいでしょう。 つまり、臆病な者ほど自己を(安易に)守るために、不合理であろうがなんだろうが思いこんでしまいがちだ、ということです。 しかし、これはその人間を責めているわけではありません。 それなりに一生懸命なのだ、という視点です。 そういった視点に立ってあらゆる事柄に対処しようとすることで、人間というものに対して今までとは違った感懐を持つことも可能になるのではないか。 そんな気もします。
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「人格者」の定義がよくわからないのですが、「教えて」をやることで利益を得たら人格者ではない、ということでしょうか。 ここでいう利益とは、自分の回答が役に立ったとか、良回答になってうれしいというような快感を得るとか、認知を得るという意味です。 というのは、私はこちらでは新参ですが、役に立てばいいなと思ったり、回答することによって自分の考えも整理できたりするんじゃないかと思ったりしているので、それはどちらかというと自分の利益のためです。 人格者を目指しているわけではないので私はこれでいいのですが。 また同情や共感は、あれば回答はより質問の意図を汲んだものになる可能性が大きくなるというもので、あくまでも可能性でしかないように思います。 質問には背景や質問者自身の情報が少ない場合も多いですから。 ただ、自分が共感できない、わからないからといって、それをただ否定したり、けなしたりするのような態度には、その人が自分の優位性を抱いていて、それを保とうとするための回答をしてるんじゃないかなと感じることはあります。 的はずれな回答だったらすみません。
お礼
そのとおりだと思います。限界点を見極めて、無理せず謙虚に良心を持って行うのが一番ですね。
>人は結局、なにか忌避したいものとか蔑みたいもの、そういうものを作ってあるいは感じて、それに対して自分の優位性のようなものを抱いて生きているものなんでしょうかね?> まあそういう人もいますね、ただ回答者によるとは思いますが、知識論で語るのは基本的に問題ないと思いますが、あなた自身相手の感情を受け止めて答える事が高次的な人であり知識論をひけらかすだけなのは抵次的な存在だと心理が変わったんですね(多分前回の質問を締め切った後そう思ったんだと思われますが)、前回は逆的なニアンスで質問されておりましたね、これはですね単純にあなた自身の心理的価値観に捉われている証拠です。 逆に言えば自分の価値観や感情などの心理状態をokwaveに投映(投影)しているとも言えると思います。 まあ変動があるというのは悪い話でもないですけどね、まあそれは僕の問題ではないのですっ飛ばします。 ここではあなたがどのような心理状態でここに質問されそれはどういうものなのか説明したいと思います。 まず物事の価値というのは実はなく全ては現象です。その現象に対してあなたがこれが価値があるとかこれは価値が無いとか勝手に決めているだけであり、それはあなたの勝手な基準であることを理解していただきたい。その上であなたは感情的部分を捉えた上で質問に答えれればなおさら凄いと感じているみたいですね、まあ相手の感情まで察して答えられるというのは世間一般的に見ても凄いとは思いますがね、(ただ読み間違いというのも多々あることでその場合は質問者に対して失礼ではないかと個人的には思っていますが・・・)ただここは質問という形態であることを忘れて欲しくないです。質問という形態自体に対して別に知識のひけらかしでも良いわけです、どこに悪い要素があるんでしょうか?あるとしたらそれを悪いと捉えている価値そのもではないでしょうか?そういう意味では前回の質問の方が妥当だと思います。要は物事の現象に対してそれがAB論であれば基本的にAB論に対して高次低次論を組み合わせそれが妥当だと勝手に判断するのは逆に相手を蔑んでいるのではないかと個人的には思っております。 長々と書きましたが最後に >人は結局、なにか忌避したいものとか蔑みたいもの、そういうものを作ってあるいは感じて、それに対して自分の優位性のようなものを抱いて生きているものなんでしょうかね?> について・・・・ これは善し悪し論で答えれば『質』でしょうね、もし相手が医者だと考えてみると、患者は自分の医学レベルよりも劣った患者が来て医学レベル的に相手を蔑んでみていて知識をひけらかして優位性なようなものをどことなく感じて診察してるという医者などは別に悪くはないでしょう。そう考えれば善し悪し論で言えば『質』によるでしょう。 まあそれも踏まえて答えますと 蔑んで優位性を得ている状態 そうでない状態 大まかに分けてこの2パターンでしょう。 まあ発揮言ってその答えに対しては個人的にはこれが限界です。 細かいことは他の人に任せます。
お礼
わたしが今回感じたのは、人が傷ついているのに、それに気づかず(あるいは多少は気づいてもそっちには無関心で)、さぁここぞとばかり、知識欲自慢欲を発揮させるという傾向のことです。なので、本質的には、ここを利用して嫌味をはきまくる、感情の捨て場にするという姿勢と変わらない。そういう、いわば愛のない姿勢ですね。これが容認するわけには行かない。という思いからです。 なので、全く誠実に、謙虚に質問に素直に余計な詮索をせずにというのは、全く持ってオーケーですね。ただ、そこに上記のような冷たい独尊的なものが入り込んでいるのを時々感じるのです。
- kigurumi
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>「すごく周りにいざこざが合って心が苦しい時代があった時に、なにか超自然的な現象が起こった、これを説明できないか?」 ↑ え? 同様とかどういうのを求めているとは思えませんが。 「超自然的な現象が起こりましたが、私はこれもつきつめれば万物の法則ののっとって起こったことだと思います。が、その法則がわからないので、知っている方 教えてください」 って読めますが。 >「近親相姦をしてしまっているのだが、なぜいけないことなのか教えてほしい」 これは「してしまった」と表現していることから、その人は悪いことだと知っている。 例えば盗みは悪いことだと知っているのにやってしまった。 殺人は悪いことだと知っているのにやってしまった。 「どうして私は悪いことだと知っていることをやってしまったのでしょー」という質問じゃないですよね。 「そもそも盗みはどうして悪いことだと社会通念でなってしまったのでしょうか」 「そのそも殺人はどうして悪いことだと社会通念でなってしまったのでしょうか」 と同じように、「どうして「近親相姦は悪いことだと社会通念でなっつぃまったのでしょうか?」って質問なわけですよね? それに対して、「まあ 完璧な人はいないから」と同情したところで、質問に答えていないので、その人は納得しない。 確かに、人それぞれ、言葉の取り方は違うんですね。 質問者は質問しているのではなく、慰めて欲しがっていると捉える人もいれば、文章通り説明を求めていると捉える人もいる。 で、ここは、情報交換の場です。 相談サイトではない。 質問者に対するお約束事、 <質問ではないものを書かない。> <自分の意見に賛同してもうために質問と称して書かない> <自己主張を質問欄に書かない> などなど。 もし、質問ではなく同情・なぐさめ・賛同を求めているのであれば、「あのー ここ質問サイトですので、悩み事相談は別のサイトでお願いします」と質問自体が削除になるんですね。 で、あなたがあったまきたのは、説明を求めているのに、誰も説明をしていなかったからでしょうか? はなっから「悪いことをして」と批判しているだけだったので、あったまきたんでしょうか? そういうときは、自分が説明をすればいいんですよ。 どうして いけないと社会通念になっているか、どうして自然現象の一部だとなりえるのか と。 あなたが、回答者は自分の知識を顕示したがっている と思い込んでいるのも、やはりズレにより そう感じるのではないか と。 give and tageって言葉 ご存知でしょうか? 見返りを求めないで、知っている情報を無償で提供する。 その代わり、自分も情報が欲しいときはもらう。 回答者は「教えてやった」と思っていると思うのは、あなたがそう思って回答をしているからかもしれないですよぉ。 だから他人もきっとそうだと他人と自分を同一視してしまったのかも。 私は今まで「自身あり」を選択したことは1度か2度くらいしかないんですね。 <参考意見>をいつも選んでいる。 どうしてかというと、「気に入ったらどうぞ」という気持ちで自分が知っている情報を提供しているにすぎないから。 私は自分の持っている情報が絶対に正しいとは思っていない。 情報の1つとして私が有力だと感じるものを選んでここに提出しているだけ。 その情報も調べれば、どっかに欠陥があるかもしれない という気持ちがあるので、参考意見を選ぶわけです。 そんな自信が無い意見を書くな? だから 情報の1つとして 気に入ったらどうぞ と見せて、質問者は気に入らないなら、お持ち帰りしなくていいんです。 質問者は 持ち帰る いらないと拒否する自由がある。 で、最後に、、、、 私 一時期相談サイトにはまっていて、回答者側でせっせとアドバイスを書いていたんですね。 はまっていたので、毎日 相談内容を読むわけです。 で、ある時 あら? と気づいた。 同じ人が別の人の相談を、自分の身に起こったこととして、次々書いている。 もちろん 質問者は全員違いますが、IPアドレスが一緒。 「なに この人やっているだろう。人の相談を読んでいて、自分の身に起こったことだと記憶を塗り替えているのだろうか?」と思いました。 で、ずっと観察していて「弱者利得」を得ようとしていると思えた。 「大変だったですね。」「本当にそんな目あっても耐えているなんて すごいですね」と同情して欲しくて、人の相談内容を、パクって相談文章を偽装しているとしか思えなかった。 もっとすごいのありました。 レイプされて、その時の写真を取られ、それから脅され、呼び出されては犯され続けている という相談でした。 みんな 必死になって、学校の先生に言うべき 親に話すべき とかアドバイスしていました。 私 じーーーっと見て、「それ何時頃の話しですか」とポーンと質問したんです。 「解決策を考えるために、もう少し詳しく知りたいので、大変でしょうけど、お聞かせください。 今回解決しないともっと大きなことになりますよ。」と丁寧な言葉を使いつつ、つっこみを入れました。 他のアドバイスをする人たちは私に、「こんなひどい目にあっている人に、悪夢を思い出せってひどいじゃないか!」「この人を疑っているのか!」とくってかかってきました。 人でなし、冷血漢! と他の参加者にボロクソ言われました。笑 でもひるまない。 「ねえ あなた、前の相談では男として相談していますよね。 これです。 今回とは全く関係無いおちゃらけの相談内容ですね。 お兄さんとかいて、同じパソコン使っているんですか? お兄さんにはそのこと話したんですか?」と突っ込んだ。 「茶封筒って どこでその語彙覚えました? 高校生にしては、いろいろ語彙が豊富ですね」 とか。 それまで「みんな慰めてくれてありがとう」と返事を書いていた相談者、ピタっと書き込みやめました。 さて、こんなあたしは人で無しでしょうか? みなさん、その相談の人ばかりに書きこみをして、他の相談者に全く回答していなかった。 一日で他の相談が裏ページにまわってしまった。 回答が出るたび、1ページ目のトップに順位がなるので、他の相談が消えてしまっていた。 その状態が長く続いたので、本腰を挙げてじーーっと文章を見て、それでガセじゃないか とピンときたんです。 一番最初に怪しいと思ったのが茶封筒という語彙。 悲惨な強姦体験のはずなのに、赤裸々な性描写。 絶望で自殺を考えている人が、そんなエロ小説もどきの相談を書くか? そして、本物の女なら使わないヘンな女言葉。(性転換して女性になった人が使う あるいは 男が女の言葉を真似するとき使う言葉。) ちょっと常識働かせれば、怪しさ全開ってピンとくる。 みんな盲目になって、慰めたい いい人と思われないってことにやっきになって、あげくにそのために偽相談と私を利用して快楽を得た。 面白かったですよ。 さんざん私を叩いて善い人をやった人たちが、いっきに実は真性のお馬鹿さんという馬脚を現したのですから。 今まで「ほーー」と思えるようなアドバイスをしていた人すら、お馬鹿さんの仲間入りしちゃった騒動。 そういうのを何度か体験して、相談サイトに幻滅して「限界だ」と感じてやめたわけです。 普段偉そうにアドバイスしている人すら、何にも本当はわかる能力が無い でも お手本のようなアドバイスし、すごいと他の回答者に褒めちぎられていた。 こういう状態に限界というか、茶番だと感じてやめちゃったわけです。 あなたがこれと同じような体験をしたのなら、わかりますよ。 馬鹿ばっかのところを、宝石だと思っていた私も馬鹿 って。
お礼
たいへん貴重なお話、ありがとうございます。 面白い!というと不謹慎ですが、たいへん糧になりましたよ。 つまり、安易な雰囲気に流されていることのいかに馬鹿なことかということです。 この、怪しげな質問者の文章を「ジーっ」と見たというところ、重要ですね。つまり、他の皮相的自己満足回答者が、雰囲気ナルシズムだけだったのに、回答者さんは「精神」を働かせました。これ重要です! 心で見るというと大げさなんですが、でも、それをしないことがあまりにも多い。こんなことでは、社会が滅びるだけです(現にこの相談サイトも相談サイト足り得ないという、悪貨が駆逐しきった状況になっちまってる) 馬鹿ばっかのところを宝石と思う!ああなんと悲しく情けなく腹が立つことだろうか! ありがとうございます。
- dongri5656
- ベストアンサー率8% (8/100)
それは2つの理由があるでしょう。 1. あなたは質問板と人生相談を勘違いしています。 親身になってこれからの人生を相談したいのなら、 人生相談所へ行きましょう。 「質問」があって「回答」がある。それがここです。 しかも回答は解答ではありません。 2. あなたは自分だけが真剣に質問者に対応しているのに 他の人は自分とはちがう。他の人はまちがっている、 という妄想にとらわれています。 自分だけが正しいという観念をすっぱりと捨てましょう。 おそらくリアルでもあなたは自分だけが誠実で正しく 他の人はみんなバカばかりと思っているはずです。 それがこういうところに表れてくるのです。
お礼
どんぐり拾って食べますか。 1は妥当ですね。2は否定妄想というやつです。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
>人は結局、なにか忌避したいものとか蔑みたいもの、そういうものを作ってあるいは感じて、それに対して自分の優位性のようなものを抱いて生きているものなんでしょうかね? 一般論はね。 近親相姦をしたことがない人が、近親相姦をする人に対して「同情」というのは容易なことじゃないでしょう。体験していないのに。 で、そもそもなんですが、同情や共感ってすべきものなんですかね。 同情や共感をするのが人格者だというのはどうだろう。 おそらくは「同情や共感をする人間は美しい」という風に<前提>して、それを実行すれば私も美しい、という<論理>のもと、人は同情や共感を行う(<結論>)のですが、これって自己愛のために捏造された前提じゃないですかね。 こういう時って、前提から疑った方がいいと思うのですよ。 近親相姦はいけない、それをしない人間は美しい、私もそれをしないから美しい、みたいな欺瞞のある前提は疑う価値がありそうです。 それを一度も疑ったことがない人が回答すると、知識論でさえも欺瞞的になってしまうのだと思います。 時としてこのサイトでは同情や共感をしないで答えるのも薬になります。悩んでおられますね、なんて薄っぺらい同情など相手は求めていないかもしれないと思うと、私ならそれを控えます。
お礼
ありがとうございます。 後日、皆様にお礼を書きます。 同情共感は容易でないですね。わからない実感がないところにどうやってそれをするのか。しかし、なにか上から人を蔑むような態度とは別の問題で、「そうですか、それは私にはわからないなぁ~」というところでとまればいいのに、「そうか、そんなことは蔑みに値するな」という威張った態度を人は取りやすい。これが問題ですね。 もちろん、同情は自己愛の一形態だと思います。
お礼
たいへんなっとくしました。 不可分ない、理性的なアドヴァイスです。 無理はいけませんからね。おのおののキャパシティに従って、そして「良心」は残しておきたい。それがあれば、ほとんど問題ないんです。ほとんどは、そいつの不足から来ています。