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自暴自棄→生の肯定

私の母はキリスト教徒です。よって私は生まれてから、思春期に至るまで、キリスト教の神を無意識に信仰してきました。 その無意識の信仰に違和感を感じたのは小学5年の時です。私は根っからの松井秀喜ファンで小学生時代は自他共に認める野球少年でした。しかし、その野球を捨てねばならない状況になってしまったんです。それに加え、一般的な恋愛さえも否定されていました。 私の青春を完膚なきまでに破壊され(ex1:恋愛→生の不道徳という考え、また異教徒や無宗教との繋がりは極力避けるようにという教えから。ex2:部活道→週に宗教の集まりに3回出席しなければならず、それに加えて宗教を広く伝えるという奉仕活動にも参加しなくてはならなかった)、この世に自分の生きていくことを肯定できるものが一切なくなってしまいました。 また、キリスト教の教えは私を二重に苦しめました。キリスト教の教え(愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、親切、温和、自制などを身に着けること、暴力、性の不道徳などを否定すること)が私にはどうしてもできず、ペシミスティックになってしまうのです。 小学生の時にもう宗教を辞めたいと母に直訴しましたが、泣きつかれてどうしようもありませんでした。 それから、ぐだぐだと高校時代まで続けましたが、もちろん生の肯定できるものは何も生まれませんでした。 高校の途中でこのままでは死ぬしかなくなると思い、宗教から脱退しました。しかし、そこに見えたものは絶望でした。 この世界は私が教えられていた善悪の判断をほぼ否定した世界であり、その社会のルールは表向きは道徳を基本として形成されていますが、誰も道徳を守っていないという矛盾の世界でした。(社会が認める道徳的であることは利己心・虚栄心・狂信・私利私欲に使われているので結局は道徳的ではない) 私の心の中にはきれいごとが住みついていて、世の中の一切を無意識に否定します。その否定してしまった自分を否定してしまいます。 宗教に戻ればいいではないかと思われるかもしれませんが、憎しみがあるので無理です。 私はどのようにしたら生の肯定をできるでしょうか??

みんなの回答

noname#79654
noname#79654
回答No.3

こんにちは。 私は無宗教なので、キリスト・仏教も新興宗教も同じと考えてます。 なので、教えってのが理解出来ません。 質問者さんは、難しく考え過ぎなんだと思いますよ。 世界に矛盾が溢れているのは、当然だと思います。 それこそ、宗教信者の方や、無宗教が入り乱れていて、それぞれの考えや信念を持って生きているんですからね。 私が考える道徳は、凄くシンプルです。 法律を守る(犯罪をしない、税金を納める 等)これだけです。 ルールを守る事が道徳だと思っていますので、後は各々が好きに行動すれば良いと思います。 生きる意味を見つけるって、難しいですね。 生きたい、死にたい、逃げたい、立ち向かいたい・・・ 私自身も質問者さんとは違いますが、繰り返しながら生きています。 自身の弱さを知ることが、肯定の第1歩だと思いますよ。 頑張って下さいね。

noname#132489
質問者

お礼

回答ありがとうございました。補足欄に新たなカキコミをしまし た。よかったらよろしくお願いします。

noname#132489
質問者

補足

回答ありがとうございます。 >>私は無宗教なので、キリスト・仏教も新興宗教も同じと考えてます。なので、教えってのが理解出来ません。 まぁそうですよね。 でも、aka2008さんも神社で御神籤とか墓参りとかいきますよね!? そんな感じで小さい時から当然と思っていたことが、自我の確立ともに違ってみえてくるって感じです。 >>質問者さんは、難しく考え過ぎなんだと思いますよ。世界に矛盾が溢れているのは、当然だと思います。それこそ、宗教信者の方や、無宗教が入り乱れていて、それぞれの考えや信念を持って生きているんですからね。 そう思えたらいいのですが、多分僕は考え続けないと死ぬしか道がなくなると思っていますから、考えるしかないんです。 色んな情報が溢れていて、現在の一般的な軸が見えてこない。僕の教えられてきたことは合う人もいるし合わない人もいて、それでいいんだと思う。神がいるってこともいないってことは誰も証明できない。それを信じて救われる人がいるならそれでいいと思う。でも、僕には合わない。だから、違う思考(精神)の軸を持ちたいのですが、その軸がなんだかわからない。 >>法律を守る(犯罪をしない、税金を納める 等)これだけです。 シンプルですね。 僕は何を守ればいいのかよくわからないです。 人間は理性というものがある特別な動物です。しかし、その分同種を殺し、また自分自身を殺すということもある。また、動物を殺しまくり、核爆弾を開発し、自然を壊している・・・。 >>生きる意味を見つけるって、難しいですね。 生きる意味はないって思っているのですが、でも生きたいんだっていう何かが僕には全くないんですよ・・・。 >>頑張って下さいね。 ありがとうございます。

  • precog
  • ベストアンサー率22% (966/4314)
回答No.2

>私はどのようにしたら生の肯定をできるでしょうか?? うーん、こういうのは自分で見つけるしかないんですけどね、、、 矛盾を発見してしまうのは、今の世の中が真実を沢山伝えてくるからです。 つまり、あなたは誰かが「こう思わせておけば世の中がよくなる」と感じたことを習ってきたわけですよね。で、それが当然 (ゼロ点) なんだと思うほどその教義は成功していた (あなたの周囲では)。 しかし、現実の世の中は野生が原点であり、道徳は絶対の力を持たず、作り上げられた理想を見せられていただけだったと。 しかし、一方で道徳はある程度機能しており、全くの野生ではない。これをどう解釈したらいいのかわからないと。 知った順番と逆に考えれば良くわかる話だと思うんですが、、、 人間だって野生の生物ですからね。他人の都合だけで生きてるわけじゃないのが本当の姿です。 以下、持論、、、まぁ、一つの考え方ということで参考にされてください。 根本の話をすると、生物が生きている意味なんてないんです。生物は生きて、生き残っているから生物なんであって、生きること、生き残ることそのものに意味があるんです。(ダーウィンの進化論ですな) 従って、生物どうしには厳しい生存競争があります。進化の過程を勉強すればこれがいくつかのステージに分かれていることがわかると思います。 恐竜は肉体的には哺乳類より優れた特性 (薄い酸素の中でも活動できる) を持っていましたが滅びました。いろいろ説はありますが、恐竜は群れで狩をする初期の哺乳類に滅ぼされたという説があり、わたしもそう思います。 あなたも度々体験していると思いますが、「数は力」というところが往々にしてあります。「個体のエゴ」を最優先する行動パターンだと団結は出来ませんし、単に群がっているだけだとイワシの群れのように、他の動物の餌になりつつ生き残るという戦略しか取れません。 しかし、直接的な支配で戦略的行動を取れる数には限界があり、50人などと言われてます。 そして、ネアンデルタール人と人類の差は、論理的思考が出来る脳を持ったことにあります。それによって知恵の蓄積が可能になったわけですね。これが宗教やら道徳です。 生物の進歩は過去の資産を捨てません。動物にはエゴがあり個体を守っています。しかし、個別最適化は全体最適を産みません。従ってそこにルールやら道徳やらそういったものが拮抗することで生物学的バランスを取っているのです。 宗教や道徳はいずれも生き残り戦略のひとつの姿に過ぎませんので、対外的には敵対します。これは国家も同じ。国内の殺人は許されませんが戦争で人を殺すのはOKです。 今の世界は宗教による支配は過去のものとなり、イデオロギーや経済による支配が主流ですので、宗教を先においた考えをしていると矛盾にしか行き当たらないですよね。 繰り返しますが、進化は階層化されており、過去の資産は無意味ではありません。個体を守るための本能は無駄ではなく、拮抗しバランスすることでより高度なコントロールが出来ているのです。完全に本能を殺してしまうことが出来たとして、美徳である犠牲になることのみ望む人たちばかりになったとしましょう。外敵が来たときに全滅しか望まない集団に未来があるでしょうか? イデオロギーは敵がいなければ機能しませんが、経済は、すべてを数字に置き換えることで、あらゆる人が少しずつ満足を得やすいように機能します。(政治が下手糞だとダメですが) 経済のグローバル化が進んでるのはそういう訳です。

noname#132489
質問者

お礼

回答ありがとうございました。補足欄に新たなカキコミをしまし た。よかったらよろしくお願いします。

noname#132489
質問者

補足

回答ありがとうございます。 >>つまり、あなたは誰かが「こう思わせておけば世の中がよくなる」と感じたことを習ってきたわけですよね。で、それが当然 (ゼロ点) なんだと思うほどその教義は成功していた (あなたの周囲では)。 世の中がよくなるとかではなく滅びの日に救われるってことだったと思います。(確か・・・) >>知った順番と逆に考えれば良くわかる話だと思うんですが、、、 う~ん・・・。わかっているのですが、精神が受けつかないんです。なんででしょうね~。生を肯定できないからまたは青春時代にできなかった抑圧が投射されているのでしょうか・・・。 資本主義という人間を商品のように扱って、人間と人間との間の関係を悪化させるイデオロギーの世界に、野生が原点という考えとは別の違和感があるのかもしれません。 >>根本の話をすると、生物が生きている意味なんてないんです。 僕は、人間には意味があるとかないとか世界を俯瞰できないと思っています。 >>従って、生物どうしには厳しい生存競争があります。進化の過程を勉強すればこれがいくつかのステージに分かれていることがわかると思います。 進化論は遺伝子から進化の時期がわかりますが、根本的になぜ進化したのかはわかってませんよね!?(間違ってたらすいません) >>ネアンデルタール人と人類の差は、論理的思考が出来る脳を持ったことにあります。それによって知恵の蓄積が可能になったわけですね。これが宗教やら道徳です。 それで人殺しして、自ら死を選び、世界を破壊するようになったとは皮肉ですね・・・。

  • tomban
  • ベストアンサー率26% (2616/9771)
回答No.1

道徳は大変大事なことで、生活の基本の一つです。 日常の中で「道徳的」と言われることを実践するのは 「誰に言われるでもなく」当然の事といって良いでしょうね。 「誰に言われるでもなく」…これが肝心なのです。 何も道徳を実践するのに「キリスト教」が必要なわけじゃありませんよね?。 私がいわゆる「宗教の熱心な入信者」をみて困ったなぁ、とおもうのは 「不道徳を敵とする」方が多いという事です。 道徳は「善の心の発露」に過ぎず、それを人に対して教えて行くことは、とりもなおさず「自身の善の発見」に過ぎません。 誰でもが出来るし、誰でもがしている事です。 不道徳を否定し、言及するのが真の「道徳心」とは思えないのです。 >社会が認める道徳的であることは利己心・虚栄心・狂信・私利私欲に使われているので結局は道徳的ではない …では「あなたが言う道徳」とは、いかなるものなのでしょう?。 そして、それは「全知全能」…神様の様に…あなたが「否定しようとしている」宗教の考え方とどこが違うんでしょう?。 「木を見て森を見ない」と言います。 本来の使い方は違いますが、あなたが見ているのは「木」に過ぎません。 本当に見ていかないと行けないのは「森そのもの」であり、その森を育む環境そのものです。 もっとずっと「当たり前の事実」を、正面から見る勇気を持つべきです。 そのうえでの「否定」なら、人の心も打つのでしょうが、今のままではダメです。 人の心に響くような「言葉」を、出せる自分になってください。

noname#132489
質問者

お礼

回答ありがとうございました。補足欄に新たなカキコミをしまし た。よかったらよろしくお願いします。

noname#132489
質問者

補足

早速の回答ありがとうございます。 一般的な道徳って西欧の場合はキリスト教・日本の場合は儒教または仏教が決めたのだと思います。近代になって日本はごちゃごちゃになりましたが・・・。また、法律からくる道徳ってのもありますね。 >>「誰に言われるでもなく」…これが肝心なのです。 tombanさんの言われる道徳とは何でしょうか??自分自身で決めた道徳ということでしょうか?? >>何も道徳を実践するのに「キリスト教」が必要なわけじゃありませんよね? tombanさんの言われる道徳が何かよくわからないです。 >>私がいわゆる「宗教の熱心な入信者」をみて困ったなぁ、とおもうのは「不道徳を敵とする」方が多いという事です。 そうですよね。不道徳と相手に道徳を強要することが個人的には不道徳ですよね。 >>道徳は「善の心の発露」に過ぎず、それを人に対して教えて行くことは、とりもなおさず「自身の善の発見」に過ぎません。 tombanさんのいわれる道徳とは個人的なものということでしょうか?その個人的な道徳から見て善悪を認識しておられるのでしょうか? >>…では「あなたが言う道徳」とは、いかなるものなのでしょう? 現時点では、私は道徳というものは社会のルールそのものなのではないかと考えています(確信はしていません・・・)。社会的に生きていくために作ったものという意味だけであって、個人的にはいいこともあり悪いこともそれぞれあるのではないか・・・。(ただの憶測です) そして世の中はその矛盾に目を背けて、社会的道徳を示したほうがお得だから、利己心・虚栄心・狂信・私利私欲・いい人だと思われたいなどの気持ちから道徳という社会のルールに従うのではないか・・・。それ自体は社会にとってはいいけれど、個人的には不道徳ではないかと思ってしまいます。 >>そして、それは「全知全能」…神様の様に…あなたが「否定しようとしている」宗教の考え方とどこが違うんでしょう? 難しいですね・・・。僕は全知全能の神を信じていません。世界が人間の及ばない世界で認識できないなにかカオスのようなものって意味の神は信じているというか、神っぽいと思っています。 全知全能の神を信じるキリスト教道徳は神が言われたことが道徳です。だから道徳は絶対です。 今の僕は個人的な道徳ってものはないのではないかと道徳を疑っています。でも、道徳っていうものも僕は愛したい。でも、道徳を行うには不道徳と感じてしまう・・・。 それは僕が生を肯定できないからではないかとつい最近思うようになりました(これも憶測です)。 >>「木を見て森を見ない」と言います。 何が木で何が森かよくわからないです・・・。完全に周りが見えていません・・・。 文章が下手で申し訳ありませんが多めにみてください。

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