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人が 人のあやまちを赦すことができますか

 赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  このところ このような主題が 出ており 考えてきたのですが 上の結論に至りました。さらに検証し検討していきますが みなさんからも おしえていただきたいと思いました。  哲学の質問は こういう議論のような性格を帯び そのような経過をたどることは 避けられないことだと思います。つまり 自己の意見も ある場合には 提出するものと考えます。そういう出で立ちですが よろしくご回答をお寄せください。

noname#80116
noname#80116

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回答No.21

そろそろ、ハエ取りツボから脱出する道を示す機が熟しました。 >赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。 能力・権利・資格を問う必要はないのです。 「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で、そもそも個々人の能力・権利・資格を問う必要はなかったのです。個人的な発言のように見ていたことによる勘違いです。西洋の個人主義的な発想を感じます。遺族が「赦さない」というのは、独り言ではありません。「社会的に制裁を下してほしい」という対社会向けの表出発言です。 能力とか資格とかを手がかりに、袋小路(ハエ取りツボ)に入っていたのです。現代日本において、制裁や更正は、社会的に決めるのです。個々人の能力・権利・資格で決めません。ここは、質問者様と共通認識でしょう。だとすると、能力・権利・資格は関係ないと発言し、「赦す」も「赦さない」も、有効な言語使用方法だと認めるべきです。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  質疑応答として表わされた文章だけを読むと 存外しっかりした歩みをたどってきたと思いますが たしかに 全体観としての安定性がなかったことも実際です。  今回のご指摘は いったい どうなりましょうか。  まづ分かっていることは   ★ 能力・権利・資格を問う必要はないのです。  ☆ になります。そして このあと  ★ 「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で〔ある〕。  ☆ という思想は 筋として 共感したのですが 少し次のように修正を加えて 賛同しました。     (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。   (2) 《赦す・赦さない》は それを 自由において 口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まる。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。   (3) この(1)(2)は 加害行為に関して その処理を 社会的な制裁と更生処置にすべて ゆだねる前に 定まっている。   (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから ないと見なされている。   (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関して あてはめると 分かりやすい。   (4-b) ということは 結論から言って 社会は すでに 初めから その成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁・その更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  では    ★  「赦す」「赦さない」という表出は、〔それぞれその順序で〕「社会的制裁を免除する、免除しない」〔に対応する〕。  ☆ と捉えると どうして いけないと考えるのか。  これは まづ 直接の対応がないという意味であって 間接的に といいますか そもそも 社会を構成する人間としては 基礎における形での間接的には つながっているとも言わなければならないと思います。  けれども 直接につながった形で対応するとなると 被害者が そもそも あたかもその制裁の権利を持って そのあと わづかに それを社会の制度にゆだねるという解釈になってしまうと思われるからです。  そうだと どうして いけないと考えるのか。そうだと 別様の道をとおって 結局 私刑という選択もありうるということになりはしないでしょうか。つまり このほうの選択があるとなれば やはり 復讐の連鎖が 起きて それが あとを断たないことになってしまう。・・・  ううーん。少し時間がかかってしまいました。まとまりが悪いかも知れませんが ここで 一たん お応えとしたいと思います。いかがでしょうか。

その他の回答 (50)

回答No.10

こんばんは、brageloneさん。 『人が 人のあやまちを赦すことができますか』 タイトル眺めてみてるんだけれど、「人」っあるけれども 「どんな人」とかは特段限定してはいませんよね? 漠然と「人」と書いてあるだけですよね? 「赦す権利も資格も ない」+「人」…つらつらつら考えてみる… 赦すってのを許すに置き換えてみると 「許可する」+「人」、指導的立場の人で権利も資格もない。 パート? 正社員と同等、若しくはそれ以上の働きをしていても権限がない ないにもかかわらず、自身で判断を下さざるを得ない場面に遭遇する 統括責任者の不在 【QNo.3647182 水子思想と無明と覚り】 ANo.6 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3647182.html 『誰も知らない』 http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/Taro10-503.pdf 【わかち書き】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E3%81%8B%E3%81%A1%E6%9B%B8%E3%81%8D

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ここまでのお礼欄で補足していますので そこを読んでいただければよいと思うのですが。  たしかに わかりにくいようです。わたしも いったい どこへ向かっているのか どこへ行こうとしているのか 分からなくなってきました。  ともあれ この質問を抱いた時点での問題意識を どこまでも追究してまいります。  ★ 『誰も知らない』  ☆ 子どもが 親から捨てられる。でも育っていく。  ううん。いま なんとも この質問に沿って 応対できませんが 赦すという行為 わたしたちは 手放すことになるのではないか こう思ってのことです。  分かち書きについてまで ご配慮いただきました。ありがとうございます。読点のない文章は 読みづらいでしょうか?

  • ten777
  • ベストアンサー率13% (23/167)
回答No.9

俺の解釈不足ならスイマセン。つまり、不完全な人が不完全な人を裁く(赦すとは意味が違いますが、大袈裟に表現すると)事は己も罪人の為、無理があるのではないか?と解釈しました。哲学的な回答ではないのですが俺個人としては答えは出ないと思いますが無理矢理答えを出すとするなら、質問者様の結論だと変な話、神様?でなければ人の罪を問う事が出来ません。今の世の中、不完全な人が作ったルールの中での罪なので不完全な人が人の罪を問う事も可能ではないでしょうか?そうしなければ世の中成り立ってませんしね。

noname#80116
質問者

お礼

 ten777さん ご回答をありがとうございます。  そういうことだと考えます。《あやまたない者のみが 赦す あるいは 赦さない という行ないを為すことができる》というのは おっしゃるように 《裁く》という場合と 同じようだと まづ思います。  けっきょく 赦すにしろ 裁くにしろ 三段階があると思います。  人と人(倫理) 人と社会(国法) そして 人と絶対者(真理)です。  ちがいは 《裁く》場合は 国法としては はっきりとした取り決めがあって そのとおりに行なわれることではないでしょうか。そこでは あまり《赦す》は 法律としては かかわらないようです。  では 赦すは 個人どうしの間で 大いに関係してくるかと言いますと その気持ちとしては そうですし 思想としても哲学としても 一見 そのとおりに思えます。ただ 気持ちは なんとも 言えないのですが 哲学としては そのかかわりというのは むしろ きちんと思考しておくなら もう かかわりがないという結論に到達するという意味で そうなのではないか こう考えました。  たとえば 自分は けっきょく 自分を赦します。誰もが そうです。だとすれば 人に対しては どうか。自分と同じ存在であるのではないか。つまり 人が人を赦すという考えそのものが あまり 社会的な効果のある概念としては 成り立っていないのではないか。こう思うようになったのです。いかがでしょう?

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.8

一言居士が一言二言三言だけ吐いて去ります。 「赦す権利も資格もない」なら、「赦さない権利も資格もない」のですよ。 赦すことができないのと同じくらい、赦さないでいることというのもできないのではなくて? まあ、逆に赦す赦さないには権利や資格など要らないって話もありますが・・・

noname#80116
質問者

お礼

 nabayoshさん ご回答をありがとうございます。  いや そうですよ。おっしゃるとおりですよ。人は 人つまり けっきょく自己も含まれますよね その人やそのあやまちについて 赦すという概念が 不要になるという意味です。あたかも《罪》という言葉が不要になるのと同じようにです。  ★ まあ、逆に赦す赦さないには権利や資格など要らないって話もありますが・・・  ☆ そうですが これは いわゆる私刑 リンチですね そのような振る舞いに及ぶときの考え方ではないですか。  自分を赦すというのが あまり意味がないのと同じように または 自分は けっきょくつねに自分を赦しているように 人に対しても 振る舞うようになる。つまりは 赦す・赦さないという概念をもって その概念を転がしつつ 相い対するというのは もう旧い考え方になるのではないか こう飛躍してきています。  交通規則は 取り決め合っておいて それに沿って 事後処理はおこなわれるわけですが。

  • ap10
  • ベストアンサー率33% (453/1356)
回答No.7

>赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。 人には他人の罪を赦す能力(判断力というべきかな)があります ただし状況次第で赦せる時と赦せない時がある 尚且つ、その判断がいつも正しいとは言えない これが一番簡単で判り易い考えだと思います >赦す権利も資格も ないのではない これも状況次第 「赦す権利や資格」とは、人が生まれた瞬間に発生するのではなく、何らかのトラブルがおきた際に発生する物だからです つまりトラブルの部外者は、そんな権利や資格は持ってないけど、当事者(被害者)は持っている まあこれも状況によっては引っくり返るかもしれません もし、元々そのような権利や資格がないのであれば、「赦す」という言葉自体意味を成さないので存在しなかったはずです 個人的にはご質問者様がなんでそのような考えに至ったのだろうと気になりますが・・・ あと哲学を考えるのであれば、基本はケースバイケース 「答えはこれだ」と一つに絞ろうとせず、状況によって判断せざるを得ないと思って柔軟になって下さい 理論と現実は異なります いや、流石にこの辺りはご理解されてますよね 失礼しました PS.ご質問の内容とは全く関係有りませんが、読み手の事をもう少々考えて文章の書き方を選んで貰えると幸いです 「句点」の代わりに「空白(スペース)」を使っているのでしょうか? また少しでもオリジナリティを出したいだけ?

noname#80116
質問者

お礼

 ap10さん ご回答をありがとうございます。  まづ読点(、)の除去については 《オリジナリティを出したい》気持ちがありますね。もともとは 手書きで原稿用紙に書いていたとき 一枡あけるだけのかたちにしたところからです。先駆者がいるので オリジナルではないですが。読みにくいですか。たぶん 読みづらいというよりは めづらしいので 気が散るかも知れないとは思うのですが。  でも ap10さんは 句点(。)を省いておられますよ。  ★ 人には他人の罪を赦す能力(判断力というべきかな)があります。 / ただし状況次第で赦せる時と赦せない時がある / 尚且つ、その判断がいつも正しいとは言えない。 / これが一番簡単で判り易い考えだと思います。  ☆ これまでのご回答へのお礼欄にも 何度か書いていますように 《赦す》というおこないに 人は 直面することは必要がない こういう命題を提出したというのが 今回の質問です。  内面主観において どれだけ そういう行為をおこなってもいいわけですが そして 口に出しても なんら構わないわけですが そもそも 《赦す》という行為は 《あやまちを犯さない者》だけが為すものではないか これが 根拠です。  むろん トラブルや違法行為について 社会的な取り決めにもとづいて処理されるのですが 個人として 人やそのあやまちを――つまりは 自己のあやまちについても 同じことになるわけなので――赦すという行ないを ほんとうには(つまり 社会的な効果を伴なったかたちでは) 為すことはできないし 為す必要はない。こうなりました。この飛躍について それはこうだ / いや これこれだというふうに おしえて欲しいという質問です。  むろん 現行の思想や制度と違っていることは 承知の上でなわけです。いかがでしょう?

回答No.6

具体例がないと考えにくいのですが、 たとえば、殺人鬼がいて、見知らぬ通行人を刺し殺しました。 被害者の親族の一人は、「とても赦せることではない」と発言し、 別の親族は、「悲しいことではあり、行為は赦せないが、 狂人同様の人は、赦すしかない。ただし、行為に対する罰は 社会的制裁としてそれ相応に実行してもらいたい。」と 発言したとします。この場合、罪と人を分けて考えています。 罪は赦せないが、人は赦すと言っているようです。 >赦す能力も権利も資格もない のならば、「別の親族」の発言で、人を赦せるとは決して言ってはいけないとなりませんか。「罪を憎んで人を憎まず」なんて不可能で、戯言だと。誰一人、人を赦す発言はできないものだと。よくも赦すなんて言えたもんだという方向でその「別の親族」を非難することでよろしいでしょうか。逆質問になってしまいますが、補足をお願いします。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  わたしも こんがらがって来ました。まづNo.2へのお礼欄から 次の説明を掲げます。(少し修正しました)。  ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それでは なぜ《赦す能力も権利も資格もない》と考えるか これを述べて補足とします。  あやまちを赦すというのは あやまたない者がおこなうのではないでしょうか。(たぶん これが 一番の根拠です)。  あやまち合う者どうしとしては 仮りに 何らかのあやまちが起きたとき 起こした者もその被害を受けた者も 同時に同等に赦し合うというのであれば 《人にも赦す力がある》と考えられます。  つまり あやまちを起こした者が ごめんなさいと詫びたとき それと同時に 同等の内容(心づもり)で 被害者も同じく 《分かりました こちらこそ ごめんなさい》と詫びたという場合です。  このような場合が つねに おこなわれるとは限りません。だとすれば むしろ もともと 人には 人のあやまちを赦すという能力がないと考えたほうが 分かりやすいのではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  お尋ねの件は こうです。すなわち 赦すという言葉を口に出しても 一向に構わないのですが 《思考の上で・哲学の理論として そもそも 人は 人を赦すというおこないに直面する必要はない》という考え方を 提出しています。方向が 微妙に違うと分かっていただけると思うのですが。    ★ 殺人鬼の通り魔  ☆ この事例じたいについては いまのところ 《話し合い》を わたしとしては 用意しています。しかも 大きくは 加害者とも《話し合い / 和解》の方向へ行くというものです。  法治社会としての社会的制裁については 《別の親族》の発言どおりに 《それ相応に実行される》ことを予定しますし そのように執り行われるものと考えます。  まとめとして。  赦すとか 赦せないとか 口に出して言っても なんら問題ありません。  問題は その赦すあるいは赦さないという行為が 言うならば まったく個人の内面主観の中でのみ 持たれるに過ぎないということが 現実になるのではないか これです。  ですから 社会的に効果を伴なって行われることは たとえば その不法行為についての理論的な批判であるとか あるいは 逆に その加害者の 更生・のちのちの社会復帰を 応援する(妨げない)であるとかになると思うのです。

  • rongo-dog
  • ベストアンサー率4% (13/295)
回答No.5

例えば、2本鉛筆を持ってたとします。 一本は、人にあげれます。 例えば、親類の肩身の鉛筆があり、いじめで、とられたとします。 質問者さんは、どう思いますか? 一生、うらみます。

noname#80116
質問者

お礼

 rongo-dogさん ご回答をありがとうございます。  えっとですね。《赦せる》か赦せないかの問題とも 微妙に違うのです。たとえば その場合は わたしは《赦す》のは 非常に むつかしいです。という答えです。  《〈赦す〉のは 非常にむつかしい》と言っておきながら では なんで こんな質問をするのか。そうではなく わたしたちが 人を《赦す》という課題を頂く必要は ないのではないか こういう問いなのです。  上に掲げた質疑応答でのわたしの書き込みにも 《おこないの欠陥を憎み批判し 人を受け容れつづける》と表現したのですが 《赦す》主題には 正面からは 向かって行っていないのです。  それも そこから さらに進んで 《赦す》という能力も権限も 人にはないのではないか / だから 《赦す》という行為をするかしないかは かかづらわなくてもよいのではないか こう思うようになったというところなのです。  ★ 例えば、2本鉛筆を持ってたとします。 / 一本は、人にあげれます。 / 例えば、親類の肩身の鉛筆があり、いじめで、とられたとします。 / 質問者さんは、どう思いますか? / 一生、うらみます。   ☆ この事態そのものについてでしたら こう思います。二つの場合に分かれます。  人じたいが 傷つけられた場合 この場合には 先ほどから述べていますように 赦すことは わたしにとって 非常にむつかしいです。その気持ちの上での整理がつかないと思います。  そして 鉛筆などの物でしたら たとえ高価な宝石であれ何であれ 比較的簡単にあきらめがつきます。と思います。  果たして 人には 赦す能力と権限があると言えるでしょうか。いかがでしょう?

noname#91067
noname#91067
回答No.4

平常時では極度の疲労や面倒臭いという境地に達すると簡単に許してしまうんじゃないでしょうか。 或いは何かの使命感や満足に至れることがあった場合ですね。 諦念とか判断の停止といいます。

noname#80116
質問者

お礼

 miko-desiさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。何も七面倒なこととして 命題を出そうとしているわけではないので おっしゃっているような日常生活の中の振る舞いは ごくふつうに見られると まづ思います。  そして 思惟の経歴としては 七面倒な過程をとおってでも しっかりした推論をしておきたいと思うのですが どうなんですかねぇ。  ★ 或いは何かの使命感や満足に至れることがあった場合ですね。  ☆ という場合には 目指すべき境地として 《赦す / 赦し得る》地点を出してこられるのかと思ったのですが さにあらず。  ★ 諦念とか判断の停止といいます。  ☆ という結論なので 肩すかしなのですが まづ  ★ 判断の停止  ☆ が エポケーとしての判断中止であるなら むしろ さらに判断を究めるための処置だと思うのですが そうでもなく けっきょく  ★ 諦念  ☆ に入るということでしょうか。だとしますと これは けっきょく  ★ 平常時では極度の疲労や面倒臭いという境地に達すると簡単に許してしまうんじゃないでしょうか。  ☆ と同じ結果ですね。途中で 思惟のあとがあったかなかったか 多いか少ないか の違いでしょうから。    そうですね。この質問としては 諦めるという場合には 《赦す》か《赦さない》かを決めるという思考形式の上にあると見ているのです。そうではなく 人にそういう《赦す》権限のようなものが 果たしてあるのか これを問うています。  ないのではないかと問うています。互いに あやまつ存在どうしであるから そのあやまちを 赦すかどうかは ほんとうには問題にならず たとえばあたかもエチケットのごとく 《分かりました》と言って もうその過ちを咎めないこととする。そうなるのではないか と問うています。  《忘れる》ことと同じように見えますが 一区切りを打つかのごとく あるいは いわゆるけじめをつけるかの如く 過ちのあとに 挨拶があるわけです。その挨拶を受け そして こちらも 挨拶を返して それで あとは とがめも問題も無しというふうに もっていくのが よいのではないか こんなところまで 飛躍しました。  ですので これについて みなさんから おしえて欲しいという趣旨になります。いかがでしょうか。

noname#140971
noname#140971
回答No.3

>人には人のあやまちを赦すという能力がないと考えたほうが >分かりやすいのではないでしょうか? その方が判りやすけりゃ、そのように考えたらいいです。

noname#80116
質問者

お礼

 Husky2007さん ご回答をありがとうございます。  ★ その方が判りやすけりゃ、そのように考えたらいいです。  ☆ なぜ分かりやすいか / ほんとうに分かりやすくなったのか を問うているのが この質問です。    もし わたしにとって分かりやすいということが 人にとって そうではないとなれば それは 一般に 哲学の質問ではないでしょうし 哲学でもないでしょう。  《人にとって そうではない》とも言わない / 明らかにしないというのは 哲学の態度ではないと思います。  そこのあたりを 検討してまいりたいと思います。

noname#140971
noname#140971
回答No.2

哲学とはギリシャ語でフィロソフィア、学問一般のこと。 が、独自に(1)世界観、(2)認識論が主たるテーマに。 ところで、人のあやまちを赦すかどうかは、単なる個々人の判断の問題。 赦せる場合もあるでしょうし、そうでない場合も。 赦せる人もいるでしょうし、そうでない人も。 (1)世界観、(2)認識論を持ち出すテーマじゃないでしょうね。

noname#80116
質問者

お礼

 Husky2007さん ご回答をありがとうございます。  アドバイスについては すべてが 《世界観 / 認識論》だと思いますが いかがでしょう?  それでは なぜ《赦す能力も権利も資格もない》と考えるか これを述べて補足とします。  あやまちを赦すというのは あやまたない者がおこなうのではないでしょうか。  あやまち合う者どうしとしては 仮りに 何らかのあやまちが起きたとき 起こした者もその被害を受けた者も 同時に同等に赦し合うというのであれば 《人にも赦す力がある》と考えられます。  つまり あやまちを起こした者が ごめんなさいと詫びたとき それと同時に 同等の内容(心づもり)で 被害者も同じく こちらこそ ごめんなさいと詫びたという場合です。  このような場合が つねに おこなわれるとは限りません。だとすれば むしろ もともと 人には 人のあやまちを赦すという能力がないと考えたほうが 分かりやすいのではないでしょうか?  すなわち   ★ 単なる個々人の判断の問題。  ☆ を超えているというのが 哲学の解答になるのではないでしょうか? 分かりませんが 検討に値すると思われるのですが いかがでしょう?  仮りに 哲学の解が出たとして 出たからと言って その解に人が 強制的にしばられるということがないのは 言うまでもありません。

  • umemomi
  • ベストアンサー率23% (190/805)
回答No.1

事と人によりけりです。 哲学などと学問にするほどの事もありません。

noname#80116
質問者

お礼

 umemomiさん ご回答をありがとうございます。  ☆ 人が 人のあやまちを赦すことができますか。  ★ 事と人によりけりです。  ☆ というご回答ですよね? ということは 《赦す》ことが できる場合とできない場合が 《事によって また 人に応じて》起こるという意味になりますか?  もしよろしければ その《臨機応変》のあり方 その赦し得るかどうかの判断基準 これについて さらに明らかにしていただけると ありがたいです。  これが 明らかにならない / それを 明らかにする必要はない / 明らかにすることが 人には できない などなどの事情でしたら そのように詳しく おしえてください。つまり  ★ 哲学などと学問にするほどの事もありません。  ☆ の根拠というほどの意味を 問いたいと思いますが いかがでしょう?

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     この問いをなお問います。  1.   まづ前身の質問の趣旨説明をかかげます。    ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。  ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  こういう問いです。  この主題はその内実として まだ分からないところがあるかも知れません。それが明らかにされて行くことをものぞみます。ふるってご回答をお寄せください。  * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  どうでしょう?      _________    2.  さらに趣旨説明を継ぎます。  早い遅いはあるでしょうが 誰もが自分の与えてしまった迷惑や危害については いかにオモテ向きは低姿勢であやまり続けていたとしても 内心では《取り返しがつかない。けれども 詫びようがない。どうしようもない》というところに落ち着いて自分を赦していると思われます。  もっと言うならば たとえばそのあやまちを犯してしまったそのあとの人生をすべてその害をこうむった相手のためにささげて生きるのみだと考え じっさいにそう生き切ったとした場合 そうだとしても オモテ向きは自分を赦していないけれども そのようなつぐない人生を送るというかたちで自分との和解は成り立たせていると思われるからです。  つまり たいへんな負い目を負いそれをすべて払いきるというきびしい人生ではあるのですが たとえばそのようなかたちで けっきょく自分を赦している。こう思われます。  そしてちなみに 昔は 死んでおわびしますという言い方(および実行?)がありましたが 死んだからと言って 自分を赦さなかったということにはならないように考えられるのではありませんか?  そのように 自分を赦すかどうかについて考えるなら たいていは赦すのであり おそらく赦さない能力は 人間にはないのではないでしょうか?  でも 被害者やその近しい人たちから見れば その加害者については とうぜんのごとく《おのれを赦す能力も資格もないに決まっているではないか》というふうに扱うはずです。  そうして もしこの被害者やその身内の人びとが 仮りに自分たちがそれぞれ加害者になったとした場合を考えるなら どうなりましょうか。  つまり 世間の相場から行けば 加害者である自分については遅かれ早かれ赦すでしょうし かつて自分が被害者であったときにはその加害者に対しては こんなことを言っていた。(あるいは思っていた)。と思い出す。つまり 《どんな面をさげて おまえは自分を赦せたのか? 自分を赦したなどと言えるのか。オモテにはその気配も出さないからと言って その内面でいったいどんなことを思っているのか? わたしは知っているのだ あんたは内心ですでに自分を赦してしまっているということを》と。  だったら――つまりそんな内心の探りっこをしているくらいなら―― けっきょく人間には《赦す資格も能力もなく 同時に赦さない能力も資格もない》 こう考えをあらためるなら きわめて人間的な共生のための方程式が得られるのではないか?  3.  さて このように趣旨説明をさらに伸ばしてみたのですが なお言い方を変えて説明します。  すなわちぎゃくに言えば 《赦すことができず赦さないことも出来ない》という能力を人間は 持っている。のではないか?   《赦す・赦さない》にはかかわりを持たないという能力が 生まれつき人間にはそなわっている。のではないか?  わたしは人間として 能力によって人を赦すことも赦さないことも出来ない。のだと。  つまり 或る人 A が或る人 B を死なせてしまった場合などを例として考えるとき それでも A は・つまりわれわれの おそらく 誰もが 自分を赦すようになると思われます。  これは いかにつぐないを続け 残りの人生がすべて償いの時間であったとしても その内心は自分を赦しているものと思われます。  むしろ そうであるゆえに(つまり やがて時とともに自分を赦してしまったと或る日悔いたことがあった ゆえに) つぐないをして 自分の不甲斐無さのつぐないをしようと思うものなのでしょう。  自分を赦していないという姿勢を採り その心を持ち続け つぐないの人生を送るという外形と 片や内心とは 果たして同じでしょうか? 舌を出して笑っているわけではないとしても 心はと言えば もうとっくに自分を赦しているのではないでしょうか?  もし自分が加害者であって 想うにそのような外面と内面とを合わせ持つポスト加害の人生を送らざるを得ないのだと決めた場合 果たして《つぐない》ということは もしそうすべきだとして どうすればよいのか?   おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?  赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか?  4.  この質問が問うこととしては あやまりの言葉 おわびの言葉を申し述べること これは問題ないと思うのですが 問題は そこに《赦す・赦さない》が入ると ことは人間存在の一大事にかかわっているのではないかということにあります。  きわめてぶしつけで挑戦的な言い方をすれば 《ごめんなさい》のひと言で ことは全部終わったということ これが 人間たちのあり方なのではないか?   あとは 法律上の――あるいは法律に準じた考え方の上での――かたちあるモノによるつぐない これは それとしてしかるべく伴なわれるだろうとは思います。心身のあるいは生活上の損傷を埋めるだけとしてでも 助け合いは必要でしょうから。  5.  いかがでしょう?   そして 問いの出し方や問題点の切り口がずれていたり間違っていたりしていましょうか? 主題そのものの認識がつたないでしょうか?

  • 人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

     次の質問の続編です。  【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html  ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。  ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。  (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。  (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。  (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

  • 人は他人や自己やそのあやまちを赦す能力があるか

     次の命題についてその当否を問います。  ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~  (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。  (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。       (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。  (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。      (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。  (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?  (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  別の言い方で問います。  (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  (こ) その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。    (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

  • 大人と未成年のセックスはなぜいけない?

    「なぜ大人が、未成年(18歳未満、あるいは12歳未満)とセックスしたらいけないのでしょうか」 法律や条例で決まっているから、というのはもちろんわかります^-^; 未成年の判断能力を考慮してのことなのだと思っていますが、私自身がうまく言葉で説明できません。 どなたかご教示ください。 (よく「人を殺すのはなぜいけないのか」といった哲学的(?)な議論を見聞きしますが、 そのような議論と同じような観点からの書き込みもありましたら是非お願いします。)

  • 好きな人のことを思うと自分がちっぽけに感じる

    いま好きな人がいます。 告白したい、付き合いたいと思うほどに、その人のことを考えると、自分が人としてちっぽけに思えてきます。(能力、容姿、その他色々に関して) 良さそうなタイミングがあっても、自身がなくいざというときの踏み込みができません。 相手は年上で恋愛経験も自分より多く、誰とでも仲良くなれるような明るい性格です。 この自己嫌悪のような感情を乗り越えるには勇気と自己研鑽の努力が必要だと思うのですが、こんなとき、元気が出る言葉を教えてください。 言葉に限らず、こんな状態を経験したエピソードなどがあればお聴かせください。

  • 哲学の現在について

    哲学の現在について。 ヒュームに代表される、「現象主義」って、認識論の到達点、真理?をめぐる哲学の最終的な結論だとぼくは思うのですがどうでしょうか? それ以降の哲学は、なんだか あんまり意味のないトートロジーに思えてなりません。 現象の域を脱し得ないという「理性」の限界を無視して、語り得ない、答えの出ないものについてあーだこーだと終わりのない堂々巡りの議論を続けているだけのような気がします…。 つまり、現象主義的な結論によって認識論は既に一つの決着を迎えていて、哲学の一つの大きな流れはもう終わっちゃってるのかなーと思うのです。そんで、あとは解釈や可能性を細々と提出するだけ、みたいな。 哲学に限らずあらゆる学問は、大前提として、「仮の真理」にしか到達できない擬似問題じゃないのかなと。 以上、哲学初心者のぼくが哲学(というか、認識論?)の現在についてなんとなく思うことなんですが、哲学に造詣の深い皆さんはどう思われますか? 勉強不足で、かなりトンチンカンなことを言ってるかもしれませんが、その辺は大目に見て貰って、バカでも分かるよう優しめにご教授頂ければ幸いです。 長文失礼しました。 タグ:不可知論 懐疑主義 懐疑論 カント 独我論 心の哲学

  • 自己アピール文

    現在就職活動中の大学3年生です。 自己アピール文の提出を求められている企業があるのですが、 就職課にどのように書けばよいか聞いたところ、 まず結論を最初にはっきりとさせておくことが大事だと言われました。 自己アピール文においての結論とは、自分はこのような人間です、 ということですよね。 つまり全体の構成としては、 1.私はこういう人間です。 2.1ということを理由付ける具体的な経験。 3.その1という人間性、能力を会社でどのように 生かしていけるか。 という感じでいいのでしょうか。 また、履歴書と一緒に提出する場合、 履歴書の自分の性格・長所・課外活動の欄に記入した 内容とかなりかぶる、というか、言い回しは多少違っても 同じになってしまうと思うのですが、問題はないのでしょうか。 出来上がったら、来週就職課に見てもらうつもりではいるのですが、 今日就職課に行った時、ここの部分を質問するのを忘れていたので、 取り急ぎ、ここでお訊きした次第です。 ご回答よろしくお願いします。

  • 私(男)にはどのような恋人が合っているでしょうか?

    私(男)にはどのような人が合っているでしょうか? 私自身、自分の性格はしっかりと自己主張をし自分の意志が強くこだわりも強い性格です。 おかしいと思ったことはおかしいと伝えますし、そのためには議論も厭わない性格です。 そして私が彼女に毎回選びがちなのが、わりと自分に似たような性格の人を選んでしまいます。 芯があり、女性の権利意識が強く、自己主張やそれによって起きる喧嘩も厭わないような人を選びがちです。 正直そのような人をいつも好きになってしまうのですが、毎回馴れ合ってくるとお互いの主張がぶつかり合い喧嘩喧嘩の日々になってお互いが全く譲らないような状況になってしまいます。 私の好む人と合ってる人が一致しないのではととても悩んでいます。 私の性格を踏まえてどのような人が合っていると思いますでしょうか?? ご意見お願いします。

  • やはり宗教カテは残すべきであった

      かつて宗教カテは存在していました。 しかしある時期(2000年12月21日とされる)をもって宗教カテは消えたのであった。 その理由については、以下を見れば分かります。 http://okwave.jp/qa/q6616400.html 簡単に結論すると宗教に関する質問、議論、問題提起は口論になりやすく、管理上収拾がつかないので消されたということです。 つまり宗教一般には自浄能力が欠けているってことなのです。 神や仏を語る者に限って、自らを清める能力を欠いているって証拠なのです。 ではあるが宗教カテはやはり残すべきであったのではないか。 その理由は、宗教と哲学は厳然として異なるからです。 宗教は信じるものであって、神や仏を論じるもの、天国や地獄などあの世について信じ語るもの、その他これらに関連する奇跡とか終末とか末法とか戒名とか葬式事とかの儀式的なものの類です。 一方哲学は純粋に真理の探求であってその中心は人間と宇宙の正しい理解です。 宗教カテが存在しない現状においては、宗教は哲学とは無縁のものであるにも関わらず、あたかも哲学であるかのように錯覚して、神学やら仏教やらを哲学カテの中で論じているのですが、この状況は哲学にとっては甚だ迷惑なことなのです。 神や仏、天国や地獄、また奇跡や終末や末法や戒名や葬式事について語りたいのであれば、その共通世界の中で思う存分、徹底的に語ればよいのではないでしょうか。 その結果地獄絵のような議論が巻き起こるかもしれない。 しかしそれが宗教の本質を物語るのであれば、それはそれでよいのではありませんか。 それ故やはり宗教カテは残しておくべきであったと思うのですがどうでしょう。