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人が 人のあやまちを赦すことができますか

 赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  このところ このような主題が 出ており 考えてきたのですが 上の結論に至りました。さらに検証し検討していきますが みなさんからも おしえていただきたいと思いました。  哲学の質問は こういう議論のような性格を帯び そのような経過をたどることは 避けられないことだと思います。つまり 自己の意見も ある場合には 提出するものと考えます。そういう出で立ちですが よろしくご回答をお寄せください。

noname#80116
noname#80116

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回答No.21

そろそろ、ハエ取りツボから脱出する道を示す機が熟しました。 >赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。 能力・権利・資格を問う必要はないのです。 「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で、そもそも個々人の能力・権利・資格を問う必要はなかったのです。個人的な発言のように見ていたことによる勘違いです。西洋の個人主義的な発想を感じます。遺族が「赦さない」というのは、独り言ではありません。「社会的に制裁を下してほしい」という対社会向けの表出発言です。 能力とか資格とかを手がかりに、袋小路(ハエ取りツボ)に入っていたのです。現代日本において、制裁や更正は、社会的に決めるのです。個々人の能力・権利・資格で決めません。ここは、質問者様と共通認識でしょう。だとすると、能力・権利・資格は関係ないと発言し、「赦す」も「赦さない」も、有効な言語使用方法だと認めるべきです。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  質疑応答として表わされた文章だけを読むと 存外しっかりした歩みをたどってきたと思いますが たしかに 全体観としての安定性がなかったことも実際です。  今回のご指摘は いったい どうなりましょうか。  まづ分かっていることは   ★ 能力・権利・資格を問う必要はないのです。  ☆ になります。そして このあと  ★ 「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で〔ある〕。  ☆ という思想は 筋として 共感したのですが 少し次のように修正を加えて 賛同しました。     (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。   (2) 《赦す・赦さない》は それを 自由において 口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まる。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。   (3) この(1)(2)は 加害行為に関して その処理を 社会的な制裁と更生処置にすべて ゆだねる前に 定まっている。   (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから ないと見なされている。   (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関して あてはめると 分かりやすい。   (4-b) ということは 結論から言って 社会は すでに 初めから その成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁・その更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  では    ★  「赦す」「赦さない」という表出は、〔それぞれその順序で〕「社会的制裁を免除する、免除しない」〔に対応する〕。  ☆ と捉えると どうして いけないと考えるのか。  これは まづ 直接の対応がないという意味であって 間接的に といいますか そもそも 社会を構成する人間としては 基礎における形での間接的には つながっているとも言わなければならないと思います。  けれども 直接につながった形で対応するとなると 被害者が そもそも あたかもその制裁の権利を持って そのあと わづかに それを社会の制度にゆだねるという解釈になってしまうと思われるからです。  そうだと どうして いけないと考えるのか。そうだと 別様の道をとおって 結局 私刑という選択もありうるということになりはしないでしょうか。つまり このほうの選択があるとなれば やはり 復讐の連鎖が 起きて それが あとを断たないことになってしまう。・・・  ううーん。少し時間がかかってしまいました。まとまりが悪いかも知れませんが ここで 一たん お応えとしたいと思います。いかがでしょうか。

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回答No.41

>心が冷たいままでもよいから  このあたりが温度差なのか、はたまた共感部分の様ですね。 自然法の存在の真偽は兎も角も、アウシュビッツのガス室担当官は、妻子ある良き夫であり父親であるという事実は、 ある体制での善行もある体制で極悪である証明であって、それは現在においても、 911に祝杯をあげる多くの人がいて、それに対して大量破壊兵器の存在をでっち上げて 事実上大量虐殺する体制があるという現実に直面していた訳ですね。 ガス室に毒ガス流すのも正義、ツインタワーに航空機で突っ込むも正義、それを口実?に他国で 人殺しするも正義。どの正義にも少なくとも理由はあった。 しかし、理由がどうあれ、これが本性なんですね。ふつうの人だって、凄惨な事件や悲惨なニュースに爽快感を覚え、 疑似バイオレンスに興奮し、人を陥れてざまぁみろと思うし、麻薬や盗みや横領のスリルにドキドキする。 そう、チャンスがあればやってしまう。条件がそろえばやってしまう。歴史が物語ってますよね。 どんな立派な人でも状況により堕落するってわけです。 世話好きでボランティア活動に熱心なおばさんが障害者施設に火を放つ。 それが前提なんだと思うんですね。聖人を理想に持ってきても本人にはそのギャップを埋めようが ないのが現実。だからこそ、本人の努力に頼らない、仕組み作りが重要なんですね。 たとえ前提条件がそろっても、おきてほしくない事象は発生させない仕掛けですね。 犯罪はほとんどがヒューマンエラーですから非常に難しい分野ですけど、予めロックしておくとかフェイルセーフにして おくことですね。 考え方として、最近ではたばこ自販機での大人証明カードが良い例です。 アルコールセンサーが安くなっているので車に搭載したらいい。全車とは言わないまでも、酔っぱらいで捕まったら搭載車以外 運転不可を免許条件にする。 振り込め詐欺など実に簡単に見える。(不正口座に振り込ませるのだから、口座名義人本人以外の受け取りを 解除条件として振り込むというシステムを作ってしまえば良い。銀行の責任が重くなりますけどね。) そして、究極的に「禁欲」(脳内ロック、脳内フェイルセーフ)ですね。 盗みたいと思ってかまわないが盗まない。 殺したいと思ってかまわないが殺さない。 盗みたいと思ってはいけないとか、殺したいと思ってはいけない・・これは原理的に無理な話。 そして禁欲のストレスを如何に取り除くかと「禁欲」自体は同義なので、ここに技が必要になるわけです。 脳科学と心理学の十分な発達を待つまでもなく本格的に社会システムに積極的に取り込んだ方が良い思うんですね。 MRIを応用した嘘発見器は、100%(もちろん錯誤は見抜けません)だし、 犯罪を実行してしまう精神を病として捉えれば、治療し完治させる有効なプログラムが出来るわけですね。 動機側ではなくて抑制側を積極的に治療する。つまり、いわば禁欲力の強化あるいはガス抜き方法の伝授ですね。 裁判員制度なんかよりもっとやることがあるだろう。というのが率直な意見です。 というわけで、雑駁な話になりましたが、私の中で赦す、赦せないの情動は、再発防止の流れを推し進める原動力という位置づけですね。

noname#80116
質問者

補足

 親愛なる poet-philosopher さん いや ちがった(いや 違わない) bananasand さん――それにしても  かえって似合っているとも思えますが 《ありきたりな》お名前にされたものですねぇ(失礼!) georgesand あたりが いいかも知れませんね(・・・ほっとけ ですよね)―― ご回答をありがとうございます。  ちょうど前回でしたか そのさらに前でしたかに melonsand さん いえ すみません bananasandさん(もう 以下では 間違いません)が ご投稿されたあたりから 第二部に入りました。しかも この今回のご投稿を機に さらに新たな第三部に入ると思いました。  第一部 思いっきり飛躍してみようの理論編  第二部 足を地につけて歩こうの実証編  第三部 実現の仕組みをも合わせて考えつつ進もうの実践応用編  ・ちなみに 標語は 《赦さん。赦せん。死刑じゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  (なお この標語についても さらにいいものを募集したいと思いま   す。みなさん 奮ってご応募ください。賞品は 名誉です)。  むろん第一部にまで つねに さかのぼって 吟味はするわけですが つまりは やはり理論は基礎であるわけですが この第三部という新しい視点をも取り入れて――ここまで 大々的になるとも思いませんでしたが―― みなさんも 知恵をしぼって ご投稿してください。(もう わたし個人の問題だけではないような気がしてきました)。  語弊があるかとは思いますが 前半の《BGM》は じーんと来ます。心の地平を拡げ はるか遠くまで続く空を見させ そのまだ暗い空の向こうに 少しは 薄いオレンジ色の帯が見えたきたかに感じます。  さて 被害の予防や加害者の更生のための実現の仕組み これを備えることに重点を移すとして ここで わたしは きわめて臆病になります。このような施策を考えることからは禁欲したいというふうに述べましたが その思索能力があるのに控えるのではなく 単純に苦手であるからです。ですが それでも   ★ 私の中で赦す、赦せないの情動は、再発防止の流れを推し進める原動力という位置づけですね。  ☆ を共有しますから――つまり 標語と同じ道・同じ行き先だと思いますから―― しっかりと勉強して みなさんについてまいります。    1.予めロックしておくとかフェイルセーフ  2.たばこ自販機での大人証明カード  3.アルコールセンサー  4.不正口座利用撃退システム  5.MRIを応用した嘘発見器  考え方として  a. 「禁欲」(脳内ロック、脳内フェイルセーフ)ですね。     盗みたいと思ってかまわないが盗まない。     殺したいと思ってかまわないが殺さない。  b. 禁欲のストレスを如何に取り除くかと「禁欲」自体は同義なの   で、ここに技が必要になるわけです。  c. 犯罪を実行してしまう精神を病として捉えれば、治療し完治させ   る有効なプログラムが出来るわけですね。  d. 動機側ではなくて抑制側を積極的に治療する。つまり、いわば禁   欲力の強化あるいはガス抜き方法の伝授ですね。  ちなみに こういう考え方もあるということで 試考してみます。  ブッディスムでは 聖道門と浄土門との二つがあって――と言っても ただ たとえに持ち出すだけですが―― 前者を いわゆる無神論にして自力の思想形態だとしますと 《禁欲力の涵養》は この聖道門にあたると思います。  しかるに それこそ 赦す権限も能力もないと捉え みづからの努力だけでは とても無理だという場合の易行が 浄土門だと思いますが この場合は けっきょく 身も心も すべて 何ものかにゆだねるということだと考えます。単純に 絶対他力です。  乱暴に言ってしまえば 《禁欲から自由になる》ことでしょうし もっと早い話として言えば 要するに 内面の世界にあっては《禁欲しない》という立ち場です。(社会の約束事を守るというふつうの努力は むろん するわけですが)。  という二つの道のことも 思いました。  まとまりのない文章ですが あしからず。  新しい出発ですね。

回答No.40

こんばんは、brageloneさん。 ●《〈余計なお世話〉ではなかった》という主張ですよね? はい、お世話やかもしれんけど、余計ではないと言う意味です。 それはなぜか? 「こんな回答をする者をあなたは赦せますか?」と事例を自らの身を呈して示しみせているのでしょう。 タイトル「人が 人のあやまちを赦すことができますか」にぶっつけ本番で答えている。 と、見れば読めなくはないじゃないですか。 回答で、憎まれ役をかってでることもないのに、自らの身を呈してる。 戦争の事例は、そこから、戦争を連想したんです。 戦争の総括「「人が 人のあやまちを赦すことができますか」これ重い問いだと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん こんばんは。  微妙に方向・角度・道筋がちがっていると思います。  戦争のほうは 裁判と《赦し》の問題とは 別だと考えます。赦す・赦さないにかかわりなく 一応 法律にもとづいて 裁くのだと考えます。そこに 個人個人が それぞれの気持ちや心づもりを添えてもよいはづです。そのとき 人によっては 《赦す・赦さない》という思惟の結果をも 含めている場合もあるのだと思います。  そもそも 挑発に乗って 戦争を始めたことが もし そういうのであれば 《相手のやり方を赦さない。赦せない》と思ったからということになります。お互いさまです。  この質問のほうは 回答と応答との問題です。それだけです。少し 馴染みになれば その投稿の文章に プラスアルファがついて来ますが ここでの問題は 問いと答えとそれへの返答が 基軸です。そして この基軸のみです。  わたしは 怒っていますが それは 問題になりません。質問を出しているということについてくるおまけです。  もし それでも たとえば仮りに こういう場合を考えてみれば どうかという反論があるかもしれません。それはつまり 不当な回答を出してくるという加害行為があって わたしが被害を受けたという場合の仮定です。  その筋に沿ってなら わたしは その加害者の更生を願うということになります。  問題は 去っていった人を 以前と同じ態度で受け容れるかどうかです。  (1) 様子を見る。  (2) ふつうの挨拶をし 口のきき方もふつうであると受け留めれば 機会を開放する。  (3) ただし ちっとも変っていなかったなら どうぞ去って行ってくださいと言う。  (4) なぜなら 同じ愚を繰り返すことになり 二度目は 被害者の所為だからです。わたしが 悪者になるからです。  このように処理するだけです。けれども 今回 そこまでにも到っていませんでした。一歩 自分のほうへ踏み込んでくれと言っているだけであって けっきょく 肝心のことは何も言っていないという情況です。自分が 一歩 踏み入るということは しなかった。したくなかった。しようとしても できなかった。といったところなのでしょう。    けれども これだけ ぶっちゃけて しゃべっているのなら なんらかの反応もあることでしょう。  わたしは 怒っていますが。 

回答No.39

ANo.36さん、余計お世話とかなんとか言ってるけど、余計なお世話かな? うん、“判じ物”の言葉に反応したよ。 【ラダ・ビノード・パール】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB 【ベルト・レーリンク】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF (一部抜粋) 1958年にニューヨークから帰国する途中、西ニューギニアの独立を認めるべきとした論文を発表した事が、植民地の全面的な維持を主張していた当時の外務大臣を激怒させ、国連のオランダ代表リストから名前を削除される事となった。 【パプア州】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%97%E3%82%A2%E5%B7%9E 【ガダルカナル島の戦い】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 【ソロモン諸島―ガダルカナル島】 http://www.pic.or.jp/tourism/solomon/2.htm この島に石油、天然ガス、銅、金など豊かな天然資源がねむっていることすら当時の日本はおそらく知らなかったんじゃないのかな、知らずにその地に降り立ち腰を据えたことがある意味地雷を踏んだんじゃないかな?この地に豊かな天然資源がねむっていることをすでに知っている国からしたら居座られては困るわけだ。その後に極東軍事裁判がおこなわ戦犯25人に有罪判決が出され、東条英機ら7人が死刑、16人が終身禁固刑/A級戦犯への絞首刑執行。http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1948.html#politics

noname#80116
質問者

お礼

 《補足要求》と言っても 次の言葉と あとは 戦争のこと。いったい どういう趣旨なのか これも 判じ物のようですね。  ★ ANo.36さん、余計お世話とかなんとか言ってるけど、余計なお世話かな? // うん、“判じ物”の言葉に反応したよ。  ☆ うーん。《〈余計なお世話〉ではなかった》という主張ですよね?  その中身は どうなのでしょう? どこが どのようであって どうして そう主張しうるのか。こういう形で おしえて欲しいところです。

noname#117439
noname#117439
回答No.38

primeapeです。 私の愛すべきメチャンコ悪魔君の発した鬼神らしい格言に「悪意とは感情に分類されない」との言葉がありました。 感情で無ければ衝動に還元しようが無く、したがって想像上のみに封印できます。そしてそれが出来たことで正しいと確かめております。 >赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。 この言葉にはそんな感情不在=悪を予感させる印象があり、頭でっかち扱いなどの舌足らずな言葉でも、とにもかくにも改めてもらいたい意見が集まるのでしょう。感情的な理由で反論したくなる現象の由来です。 私自身はこの見解に一旦は負けを宣言しましたが、犯罪者をどうにか許そうとする行いや衝動は改めるつもりはありません。敗北宣言を理性による足場固めの肥やしにしようともくろんでいます。

noname#80116
質問者

お礼

 やはり《罪》の側から出発なさるのですね。を直前の欄から継ぎます。  こっそり秘密をおおしえしましょうか。  人それぞれのくせがあると思います。  わたしは そのエートスに そのまま 反応しているだけなのです。突っぱねる場合もあって それが いちばん 関係性(ことだま関係)をしっかりと つなぎ止めるということもあるようです。  (つまり 経験則と勘によって 行動しているのですが もちろん 勘違いで あやまつ場合もあります)。  ・《罪 / 赦す》といった言葉を葬り去ろうというのですから 聖書の文章にも逆らおうかということになります。こちらは です。

noname#117439
noname#117439
回答No.37

primeapeです。 「罪」自体は予想通りつかみ所が無いのですが、A33の補足は判り易かったです。 罪は罰を受けるのを恐れなくなって欲しいとの思索を今日一日していました。 「罪」をどうしても判りたくて罰を受ける心境を知ったなら、なんとなくですがイエス様の心境に思いをはせました。 さすがにこれは判りきることは無いでしょうが。 brageloneさんの言う善の損傷が悪。ここにあらかじめ「善」を設定しないのが私の流儀です。そこに見えるものは、私の言葉では「魂の欠損」であり、仏教的な「業」の正体です。この魂の欠損の観察結果の成り行きでは、悪ではなく罪の発祥する原点でした。間違いなく同じ事象を表現しながらも、ちょっとした表現の違いでこうも感じるものが違います。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  次のご回答を合わせて読んだ結果ですが むつかしくなって来ましたね。  今回の《むつかしい》の意味は なにやら いわば観念の放射線が 人から発していて この問題が 延々と つづくかのように見えるところです。  《善の損傷が悪》のその《善》には 《魂》でもいいかと思います。要するに 存在の全体を言うかたちです。その意味で 《魂》を用いれば 同じだと考えます。  あるいは 《意志・そしてその自由選択》に代表させてもよいと思われます。これを 自分の心の傾きで 曲げてしまったなら 損傷を受けます。いわゆる《うそ》です。  やはり《罪》の側から 出発なさるのですね。次のご回答に継ぎます。  

回答No.36

煩悩は いとしい‥‥以下の‘議論’について。 私が悪魔なら、また悪魔の使者であるならば、当然のことであります。 煩悩はかわいくて仕方がない。煩悩こそが尊いものである。無明こそが人の命をはぐくむ。そこから暗黒の光が現れる。 煩悩を持っていないものは処刑されて当然である。煩悩の多さによって人の価値決まるのだ。煩悩を持っていない者?そんなものは人間のくずだ。哀れむべき価値もない。

noname#80116
質問者

お礼

 yy8yy8azさん こんばんは。  まづ 重大な表現の違いを指摘します。  ★ そこ(=無明)から暗黒の光が現れる。  ☆ 無明より 命の光が 現われる。  ★ 煩悩を持っていないものは処刑されて当然である。  ☆ 煩悩を持っていないものは 罪人だ。  ★ 煩悩を持っていない者?そんなものは人間のくずだ。哀れむべき価値もない。  ☆ 煩悩を持っていない者は あわれむべき人たちだ。  さて これらの議論の中身についてです。  ★ 私が悪魔なら、また悪魔の使者であるならば、当然のことであります。  ☆ (1)悪魔を表現に用いるときは わたしにもありますが ここで 悪魔を持ち出すということは どういう意味なのだろうか?と考えるのですが。  (2) いくつかの解釈があるでしょうし いくつかの対応がありうるでしょうが こうお応えします。つまり 悪魔なら みづからを 光の天使に見せるはづです。つまり 煩悩を捨て 無明から明知へと移りなさいと説くでしょう。わたしに従って 覚りの境地にたどり着きなさいと。  ☆ 無明も明知も 相対的なものだと言いたいのです。人それぞれ どんぐりの背比べだと言いたいのです。

noname#117439
noname#117439
回答No.35

primeapeです。 A33についてですが(思索の末)反対語として「祝福」を思い浮かべることが出来たのですが、どうもおかしいんですよ。 誰が祝福するかと言うと神様が思い浮かびますよね、その反対語に「罪」、ところが罪には神の言葉は(承認)存在しないかに思える。 こんないびつな反対語では救いの手を差し伸べることは困難な気がします。

noname#80116
質問者

お礼

 No.33に ひととおり書き込みました。    すぐには 吟味がむつかしいです。  いかがでしょうか。  (やはり 極論ですし 初めて考えてみたものですので この質問の初めのときと同じ状態です)。    * 《祝福》は 一応 人びとがおこなうという形にしています。

  • shift-2007
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回答No.34

こんばんは、 >故意による舌足らずで わたしや みなさんを 試しているということになりますよ それは無いのです、恐らくそう感じるのはbrageloneさんだけで ほかの方はありきたりな意見を言っていると思うはずです。 私はすごく簡単な言葉で普通のことを言っています。 ただ、brageloneさんはこの言葉、表現方法がとても苦手なのです。 > 《赦す》という言葉によって 自分の対処の仕方を ここが普通の(普通を連呼してすいませんが)人と違うところです。 普通は気持ちが先で言葉は後です。 つまり、自分の対処があってそれを赦すと表現するのです。 >よって 理論です ゆえに普通は理論はいらないのです。 >《心理》とは 外から来て これは他人の、という意味でしょうか。 私はbrageloneさん自身の心理をいったのです。 brageloneさんにとって心理とは匂い、香りのようなものですね。 花の香り、カレーの匂い、女性の髪の匂い・・・・ 物体があれば匂いなど要らぬといっているように感じます。 私は心理をわざわざ切り捨てる必要などさらさらないと思います。 それがそこにあるならそれを含めて理解しなければ片手落ちになると思います。 言葉には感情や思惑が乗っています。それを乗せずに人は言葉を使うことは出来ないと思います。 人の使う言葉はプログラム言語とは違います。 言葉を追いかけすぎるから逆に定義や基準が必要になるのではないでしょうか。 >秘義・奥義の用意がおありなのですね? 私はもう質問に対する回答は書いていますので出すものはありません。

noname#80116
質問者

補足

 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >故意による舌足らずで わたしや みなさんを 試しているということになりますよ それは無いのです、恐らくそう感じるのはbrageloneさんだけで ほかの方はありきたりな意見を言っていると思うはずです。 私はすごく簡単な言葉で普通のことを言っています。 ただ、brageloneさんはこの言葉、表現方法がとても苦手なのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ここで問題は 《すごく簡単な言葉で言ってい》ることが 《普通のこと》であるかどうかです。《ありきたりな》かどうかは分かりません。問題は それが《意見》であるかどうかです。あれば どんな《意見》なのかです。  ★ 私はもう質問に対する回答は書いていますので出すものはありません。  ☆ という判じ物であれば 対話が長引くだけです。  ★ 心理  ☆ の話は もう十分でしょう。また 直前のNo.33の返答にも書いています。  同じく問題は わたしの言葉についての見方あるいは広くコミュニケーション観を誤解しておられることです。  ★ 私は心理をわざわざ切り捨てる必要などさらさらないと思います。 / それがそこにあるならそれを含めて理解しなければ 〔だめ〕になると思います。  ☆ まづは 《ことだま》といった古くさい主題まで取り上げていることを理解してください。→《Q:4065008 言霊の思想についてうかがいます。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4065008.html 》  そこでは ことだまには 第一次(初源)と第二次(応用・悪用)とがあると想定します。  第一次は 現象としての《事》に 霊的な力が宿るという見方に発しているとします。《雷⇒神鳴り / 稲妻 / 稲光 / 稲つるび》といった例。ということは 《ことだま=事霊》が そのまま《ことだま=言霊》として認識された。  そこから 《事の端⇒言の葉⇒言葉》がさらに生まれます。この《ありきたりな》言葉から 逆にさかのぼって 霊的な力に行きつこうとするとき 別様のことだまが作られていきます。  すなわち第二次は 第一次の《事霊=言霊》なる現象を 普段使っている言葉によって 再現させたいという欲求から起こるのではないか。すなわち 《のろい・まじない》のたぐいです。雨乞いの祈りも 丑の刻参りのしわざも 初源のことだまを逆推した応用であって 人間の願いもしくは欲望からくるただの《言葉霊》であると捉えたものです。  この第二次の《言葉霊》には およそ 《心理》の現象が入ります。    わたしは 心理をなくせとは言っていません。もともと 必要のないものだと言うのみです。理論=テオーリア=観想=ことだま(事霊=言霊)観にとって 切り捨ててもよいという見方です。  ★ 普通は気持ちが先で言葉は後です。  ☆ そのとおり。ですから 気持ちあるいは 感覚としての  ★ 花の香り、カレーの匂い、女性の髪の匂い・・・・  ☆ これらは 事霊=言霊のほうに近く 言葉霊に対応するところの心理の問題ではありません。つまり 《要らぬ》と言う部類には入っておらず 切り捨ててよいものとは 別様のものです。  * この一つの質問だけに対するあなたの回答を見れば みなさんは なぜ わたしが 挨拶をせずお礼も述べないでいるかといぶかしがられることと思います。  このような判じ物あるいは はぐらかしの対応が 続いているのです。たぶん その魂胆は 相手が 独り相撲を取るように仕向ける ここにあるでしょう。  すべての人を納得させることは出来ません。相手が 去るなら もう追いませんという意味です。わたしに構ってくれと言ってのように 追いかけさせようとしているだけです。以前から この応対の繰り返しが続いています。  ですから 質問に対するご回答であれば 回答本体についてだけは取り上げ これに応答するという心でいます。と言っても この質問での二度目の回答のときには 受け容れたのですが この三度目では やはり 変わっていなかった。

noname#117439
noname#117439
回答No.33

primeapeです。 閑話休題。 「罪」にあえて反対語を設けるとなるとどのような言葉になりますか。 信仰に免疫のある方の意見を聞きたくてご質問です。 私自身は二元論には飽き飽きしていますが。

noname#80116
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  二分法・二項対立・双対などと言えば 二元論とは 明らかに違います。  存在(また生命)が善だという想定に立てば その損傷が その損傷の部分で 善の欠如として悪だという認識になります。悪という現象は現実に起きていますので 善と悪とは 対立する二項ということになります。  勘違い・思い違い・善意(つまり 知らなかったということ)によっても 悪なる現象は起きます。そしてあるいは 善意ではなく考え違いをして存在のあり方を――つまりは 生活態度を―― ゆえもなく変えてみるといったこと / そしてこれが 今までのコミュニケーションにおいて 周りの人びとに対して接してきた態度とは異なっていた というとき このようなときには 何らかの悪が起きています。悪意があったという言い方もします。  おそらく 人の行為としては ふつうの善として生命尊重および存在の維持にもとづくもののほかには 上のような悪・悪意・悪いおこないがあるのみと言えるのかも知れません。  つまりは 罪は もともと ないという意味です。  悪いおこないにしても 少し乱暴な見方をすれば たとえば いぢわるをして 相手の迷いをほんの少し揺さぶるという場合もあります。いいか悪いか にわかに断じられない行為だと思うのですが その相手は この野郎と思っても そのあと ふとしたことで 自分を取り戻すかも知れません。もし あのいぢわるが 気づかせてくれたと気づいたなら いぢわるした人に対しても ああ やさしい人なんだなぁと思うかも知れません。   そうして その反対もありえます。善意のおこないが まぁ 最低な人だわと受け取られてしまうこともあるでしょう。  ここまでを整理しますと 社会的行為として起こるのは 善なる行為と そして善が部分的に欠けた悪なる行為の二種です。(もしくは 善の一種で その完成度合いが まちまちだという形です)。  あとは 人びとそれぞれに この善悪の行為に対する感覚的な受容の仕方がついてくるということ ここにまで還元しうるかも知れません。 善悪の行為は 精神=身体の動きだとわたしは思っております。あとの感覚的な受け留めは 心理なのだという規定です。    ですから もし  ★ 《罪》の反対語は?  ☆ と訊かれるなら それは まづ 心理の領域で名づけたものであり 同じくそこで 反対語を探すことになります。《天晴れ・誉れ・名誉》かもしれません。それに対して 人びとは《祝福》を与えるということになるでしょうか。  試行です。

回答No.32

>( a )( b )( c )( d )  およそ、そういうことでしょう。 前回の通りなんですが、加害者が深く反省し、罰を受け、その事件については被害者が心情的にも赦し、神さえ赦しを与えたとしても、出所後に再犯したのでは意味がありません。何のための反省だったか、何のための罰だったか、何のための赦しだったのかということですね。罰を介在して加害者と被害者が心情として救われるというのは儀式であり、精神衛生上のケジメにすぎません。それはそれで終わりです。 加害者が赦しを請う前提は「二度としませんから」が当たり前だし、 先日の通り魔など加害者に精神上の問題がなければ極刑となり、同一人物による同様の犯行は二度と起こらない点でこれほど確実なことは無いという面はあるわけです。(死刑容認発言ではありません。) よく被害者が口にする「こんなことは二度とおきてほしくない」が全てであって、赦すも赦さないもそのために使う手段の一つだと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  分かりました。細かいところでのすり合わせですね。  bananasandさんは  ★ よく被害者が口にする「こんなことは二度とおきてほしくない」が全てであって、赦すも赦さないもそのために使う手段の一つだと思います。  ☆ と結んでおられるので そうではないと(つまり 細かいところでのすり合わせではないと)おっしゃるかも知れませんが どうも そういうように感じられます。  ★ 加害者が深く反省し、罰を受け、その事件については被害者が心情的にも赦し、神さえ赦しを与えたとしても、出所後に再犯したのでは意味がありません。何のための反省だったか、何のための罰だったか、何のための赦しだったのかということですね。  ☆ あえて 長く引用させてもらいました。たぶん ほかのお礼欄にも書きましたように bananasandさんのご回答あたりから この質問も 《第二部 実証編――足を地につけて歩もう――》に入っていて 具体的に細かいところを検証していかなければならないのかも分かりません。  一点 こういう視点も提出したいと思います。  再犯・再々犯の問題にかんしてです。むつかしいですが 出所したなら 全面的に社会復帰を応援する。心が冷たいままでもよいから 復帰を妨げない。助ける。  再犯したら ふたたび拘束するわけですが いやと言うほど 話し合いを 迫る。どこまでも話し合いをつづける。一生でもよいから その務めをおこなう者が 話し合いを進めていく。絶対 止めない。  再出所したら 今度は 《再犯しても それを見越したうえで共存する》と申し出た人びとが 多く住んでいる町に 住まわせるなど。  こういう施策(ただし 思いつきです)については 禁欲しますとすでに言いましたが そのような施策の志向するところ(視点)から 実現性・現実性を検討していきたいと考えるのですが。

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