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第二次世界大戦で日本敗戦のときの裁判について

日本が敗戦したときに国際連合軍のなかで、日本と同じ仏教国のスリランカ代表が「憎しみは憎しみによって終わることは無い」という仏教の言葉を引用して、日本の責任追求を積極的にするべきではないというエピソードは。本当でしょうか?できれば具体的に1)いつ2)誰が 3)何処で4)どういう経緯で そういう発言をしたのかが知りたいです。よろしくお願いします。

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noname#201556
noname#201556
回答No.4

No.1さんへ。 >「東京裁判」(極東軍事裁判)当時まだ国連はありませんでしたよ。 1946年(昭和21年)1月10日にロンドンで第1回国際連合の総会が51ヶ国の参加で行われています。 勝者を裁判長として敗者を裁いた悪名高き「東京裁判」の開廷は、その国際連合の総会から約4ヵ月後の1946年(昭和21年)5月3日からです。 従いまして、「東京裁判」時、国際連合は存在しています。 NO.3さんの補足です。 対日講和条約締結過程に於ける1951年(昭和26年)9月6日、講和会議3日目での発言のようです。 セイロン(現在のスリランカ)のJ・R・ジャヤワルダナ蔵相の言葉 「セイロンは賠償を日本に求める権利はあるが請求するつもりは無い。 偉大なる仏陀の言ったように、憎悪は憎悪によって取り除かれない。愛によって取り除かれるからだ。 ソビエト連邦は南西諸島を日本に返還せよと言うが、それならば南樺太、千島列島を日本に返還したらどうなのか。 この条約は敗れた敵に対し寛大であり、それゆえ正しいものである。日本に友情の手を差し伸べる。 平和と繁栄のうちに人間生命の尊さを享受すべく手をたずさえて進もう。」 (出所:再現ドキュメント「日本の戦後」下 P.289 S53年3月20日第1版発行日本放送協会)

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  • gompa
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回答No.3

サンフランシスコ講和条約会議でのスリランカ代表、J・R・ジャヤワルダナ蔵相の言葉です。 「欧米の支配下から開放されることを望んで、日本の考え方に同調し協力した人もいる」と、暗に欧米の植民地支配を批判し、「我々は仏教徒であり、憎しみは憎しみによって終わることは無いという、仏陀の考えを遂行する。したがって、一切の賠償を日本に要求する事は無い」と発言しました。 ちなみに、サンフランシスコ講和条約とは、日本との戦争を終わらせる為の条約で、1951年(昭和26年)9月8日吉田茂首相が48国の連合国とサンフランシスコで調印を結んびました。

  • acacia7
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回答No.2

ちょっと否定的な情報をすこし。 日本が交戦していたのは「国際連合(United Nations)」ではありません。 「連合国(the Allies)」です。 まぁ、あんまり区別しても意味ないのではないかとも思いますが・・ 一応違う組織です。 また、当時の連合国には「スリランカ」は入っていません。 そのため、連合国サイドで「スリランカ代表」が発言することもないと思います。 無論、その様なスリランカの人による発言が絶対無いという意味ではありません。 ちなみに、連合国として極東国際軍事裁判に判事を出していたのは以下の国です。 アメリカ:フランス:ソ連:中華民国:イギリス:オランダ:カナダ: ニュージーランド:オーストラリア:フィリピン:インド >フィリピン、インドは独立主権国家ではありませんでした。 似たようなエピソードが起きそうなのは 「インド代表」のパール判事ではないかと思います。 といいますのも、パール判事は判決草案において 「被告全員を無罪」としているためです。 またこの裁判に対し 「こんな儀式化された復讐は、瞬時の満足感を得るだけのものであって、 究極的には後悔をともなうことは必然である」 としているのです。 出展:「パール判事の日本無罪論」:田中正明

回答No.1

> 国際連合軍 これはなんですか?「東京裁判」(極東軍事裁判)当時まだ国連はありませんでしたよ。 連合軍または連合国でしょ? まあそれはおいといて・・・・。 おっしゃっているのはたぶんインド代表のパール博士のことだと思います。 「日本無罪論」またはパール(パル)博士(判事)「極東軍事裁判」などの言葉で検索してみましょう。 たくさん出てきますよ。では。

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