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ランガージュ(言語活動)について教えてください。
国語学について勉強しています。 スイスのフェルディナン・ド・ソシュールがラング(言語)とパロール(言語行為)について唱えましたが、分かりにくくて・・。 何かその説明を日常生活からできないかと・・・。 ラング・・社会規範、有限の言語単位 パロール・・現実に行われている無限の言語行為 教えてください。
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- jo-zen
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以下のURLを参考にしてみてください。 http://members.at.infoseek.co.jp/serpent_owl/arch-text/saussure.htm サイト内のキーワードへのリンクも有用かと思います。
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デカルトの思想を批判します。当否を問います。 ▽ (ヰキぺ:ルネ・デカルト) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88 §3 思想 §3.1.2 方法 ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。 1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証) 2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析) 3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合) 4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (4)については 《すべてを見直した》あと なお《何も見落とさなかったか》を確認するのが ふつうである。《気をつけて事例の枚挙やその吟味をしましょう》というのと変わりない。つまり 何ら特別なことではない。 (3) 《単純なもの》か《複雑なもの》かを判定するには その判定の能力について判定しその結果を自覚しなければいけない。つまり 判定能力次第である。つまり 何か意味のあることを言ったとは思えない。 (2) 《考える問題》を《小さい部分に分ける》と言うけれど 《小さい》というのは 量の問題だけではないはずだ。ということは その大きい小さいの判断そのことが 《考える問題》になっている。何をか言わんや。 (1) 《明証的に真であると認めた》と言っても すべては主観である。明証性も 本人の主観次第である。何をか言わんや。 もういっちょう行きましょう。 ▽ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~ §3.2 形而上学 §3.2.3 神の存在証明 欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。 第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明) 悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▽ 第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性) ☆ というのは その《観念が われわれ人間の想像力の翼が飛び行くところまでは伸びて行く》と言っているに過ぎない。 《表現的実在性》とは どこまで行っても 《観念》のことである。 その神なる観念は ▽ 対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。 ☆ だろうか? 阿呆なことを。 《神》が どうしてこの経験世界における現実的実在性と対応すると言えるのか? それはせいぜい《観念》が 対応するだけである。《神》が《上》や《髪》や《守》や《紙》と――観念のあそびの上では――対応するに過ぎない。 われわれ人間の知について ▽ この「有限」であるということを知るためには ☆ て言ったって すでに《有限》だと言ってるぢゃん。朽ちざるべからざる存在であるなら その知も有限である。 考える葦であろうがなかろうが 死ぬべき身と心なら それゆえにこそ《永生なる無限》を想定してみるということである。《無限》を知ってから わが身の限りあるを知ったというのは 生活歴史的な順序ではないだろう。 ▽ 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。 ☆ その神が 無でもありうる。と言わねば議論にならない。 ▽ 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明) ☆ 観念の中にまた観念を放り込んだだけ。観念があれば 《存在》を言えるのか? そういうことは休み休み言って欲しい。 ▽ 悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。 ☆ おままごとにあっては そう言えるのだろうか? 観念のお花畑には そういう花が咲いたと見えたのだろうか? バカらしくて話にならない。のではないだろうか? (もし観念が現実的実在性と対応する(第一証明)なら 《悪い霊》なる観念も ただの仮定ではなく 現実であると言わねばならない)。 (もし《神》をまじめに想定したならば その神のもとには 人間の善悪が繰り広げられている。それを神は 何もしないかたちで見守っているとでも言うしかない)。 なんでこんなおとぎ話に われわれは振り回されているのか?
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日本語を勉強中の中国人です。最近中国のあるニュースについて日本の皆さんにご意見をお伺いします。 元「中学生日常行動規範」の40箇条目は「見義勇為。戦う勇気を持つこと。社会の公衆道徳に違反する行為を忠告して止めさせること」になっており、その意見を求める修正案に「見義勇為」はこっそり削除され、そのかわりに、「自分で自分を守ることができ、助けを求めることがわかること」が強調されました。社会で熱い論争が起こっています。 日本では、未成年の子どもに「見義勇為」を教育しますか。中学生に「見義勇為」を止めさせたことはどのようにお考えでしょうか。ご意見をお待ちしております。 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
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所謂「大塚史学」は批判的近代主義の立場に立っている。つまり問題関心は日本の近代化の「特殊日本的」とされる在り方である。 従って日本の近代化の特殊性を科学的に認識するために、比較ということを考え出した。歴史は実験できないからである。 それ故「大塚史学」は比較社会経済史学とも呼ばれる(ここでも以降そう呼ぶ)。 比較の対象としては「自生的」に産業革命に到達したとされるイギリスが選ばれた。さらに世界史的位置としてはイギリスの近代 工業の側圧を受けたフランス・ドイツ・アメリカ・(あまり研究はされなかったが)イタリア・ロシアなどが随時比較の対象として 用いられた。また資本主義的発展に適合する経済制度を生み出したものとして、ブルジョワ変革が取り上げられた。すなわち、市 民革命を経験したイギリス・フランス・アメリカ、とブルジョワ的改革に留まったドイツ・イタリア・日本である。 マックス・ウェーバーは現実の無限の多様性を社会科学として認識するための方法論として、理念形を唱えている。無限の多様性 の中で一定部分の有限個の意味あるものを取り出して辻褄の合うように再構成するということである。比較社会経済史に当てはめ ると理念形がイギリスということである。従って日本の近代化の特殊性を科学的に認識するには、イギリスは現実に比べて抽象化 されることになる。まとめて言えば、日本経済史を社会科学的に認識するためにイギリスを抽象化して比較する、ということであ る。 この文章をもっとわかりやすい言葉で説明してください(´・ω・lll)
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