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大和の沖縄特攻時の米軍の選択

eroero1919の回答

  • eroero1919
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回答No.3

ミもフタもない回答が出ていますが、ちょいと真面目に考えてみました。 まず大和、武蔵といえば【あの】46センチ砲です。日本男児なら一度はアメリカの戦艦の届かない遠距離から一方的に叩く様子を妄想したことがあるでしょうし、巷のいわゆる仮想戦記もそういう展開がほとんどです。 しかーし、現実は厳しいです。46センチ砲が生かされる3万キロオーバーの射程距離では「航空機による観測がないと当てることは不可能」ということは他ならぬ日本海軍が認めています。沖縄戦のときには制空権は完全に米軍のものなので日本軍が観測機を飛ばすのは100%無理。つまり一方的に米軍を叩くのは不可能だということです。 そ、れ、な、ら、ば。日本軍伝統の夜戦ならどうかと。夜戦なら航空機も飛んできません。しかぁし、現実はとても厳しい。それに先立つ44年のスリガオ海戦で、日本の戦艦隊は米軍の戦艦隊と夜戦を行い、一方的に叩かれて全滅しています。すでに44年時期になると米軍のレーダー技術は日本の水兵の技術をはるかに凌駕していたのです。すでに夜戦でも日本海軍は米海軍に純粋に勝てないのです。 実際に起こる可能性は極めて低いですが、もし米軍の航空機の支援がない状態で艦隊決戦が行われたとします。この状況の場合、どうシミュレートしても艦隊の艦船数は米軍が上であることは避けられません。 この場合、米軍の駆逐艦隊が突撃して積極的な魚雷攻撃をしてくることが予想されます。あのサマール沖海戦のとき、米軍の駆逐艦隊は積極果敢な魚雷攻撃を仕掛けており、そのため栗田艦隊は回避運動で思うような攻撃ができませんでした。あの大和、武蔵が護衛空母と駆逐艦しかいない艦隊に食い止められたのが現実です。 駆逐艦隊の魚雷攻撃のために思うような作戦行動がほとんど取れないと思われます。そのため、戦艦同士の撃ち合いで優位が保てる可能性は極めて低いでしょう。互角か、あるいは下回る可能性もあります。 もし、魚雷もしくは命中弾によって速力が低下すればアウトでしょう。集中攻撃を喰らって海の藻屑となってしまうと思われます。 すでに44年時点で日本軍には熟練した水兵や士官がほとんど失われており、一方米軍は経験を積んでいます。スリガオ海戦やサマール沖海戦の結果が現実を物語っています。 ですので、もし米軍が艦隊決戦を選んだとしたら「大和が日本人が願うほど強くなかった」ということを思い知らされた可能性が高いのではないかと思われます。現実はとことん厳しいですねぇ。

yasuskim
質問者

お礼

もしものお話に付き合っていただきありがとうございます。

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