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人間にとって物語って何なのでしょう?

『レヴィ=ストロース入門』(小田亮著(ちくま新書))というのを読んでいると言葉になっていない観念Aが完結した言葉の体系の中で穴ぼことして認識されることにより、本当はAが割り当てられるべきだけれども、Aは言葉に対応ずけられていないので、Aではなく、なんでもありという観念Xにより補われる。そして、なんでもありの観念Xは神話というちぐはぐな体系の中で(有限の関係しか示せていないので普遍的概念としてではなく)有限の事柄との結びつきにより表現され、世の中の成り立ち(完結した言語体系)を人は理解した気持ちになる。とかかれていました(誤解しているかもしれませんが)。(C言語のポインターとvoidのポインタの関係みたいだなぁと思いました。)  そこで、この観念Aとして、個々人の未来という本質的に不確定な事柄を当てはめると、実は人はそのための観念Xを必要としており、その観念Xを含んだ体系が実は物語であり、そのために私たちは物語を必要としているのではないかと思いました(物語ではなくそりゃ宗教だろ!という人もいるかもしれません)。なぜ人間は夢を見るのかという話に近いのかもしれません。 話がうまく伝えられず発散していますが、要は人間にとって物語は本質的に必要なものなのでしょうか? ドキドキしたり楽しいから小説を読むと私なら答えるのですが、逆にそれは上の解釈でいくと人間のどういう観念とつながっているのでしょうか? (それを説明できないから、物語とい手法が必要なんだ!という話なのですがあえて、観念を言葉にするとどうなるかということです)

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回答No.10

 えー、「お礼」等を宿題のようにお考えでしたら恐縮だなぁ~って、ちょっと黙ってたんですが、もう一点だけ。  別のところのベンヤミンについての質問に回答書くために色々調べてて「はっ」と思ったのです。ネタ元は『複製技術時代の芸術』なんですが。anet.  それ、何かと言いますと、「物語」が「小説」という近代的形態を取るにつれて、「語り手」は「作家」になって書斎に閉じ込められ、同時に「語る相手」を失ったってことです。併せて、「語る」というパフォーマンスに随伴する「アウラ」も失われてしまう…。ne.  どうも、motsuanさんの「後半宛てお礼」を拝読しますと、motsuanさんという「個」が強く出ている感がいたします。でも、本来「物語る」という行為は個に完結するものではなく、目の前に具体的に存在している相手に向かって、自分の経験と意識を発端と結末に分節して投げ、投げ返される過程ではないか、と。「社会に向かって」というのとも少しちがう、この肉体を持った自分と、ちゃんと名前を持った「誰か」との間の。「開かれた物語」とでも呼べばよいもの。jp  考えてみれば、私はこの場でmotsuanさんのことだけを考えて言葉を編んできました。その名を持つ一人の人を相手に。その意味で、例えばこの場が一つの「物語」だったのかな、とも思います。またその意味で、お話できてよかったです。  分割されたノイズは解釈学の門に通じ、motsuanさんを待っています。一人一人との出会いと語り合いが「物語」なのだと思います。自と他の間の、底知れぬ暗い深淵を架橋するために人が生み出した一つの試みなのでしょう。それは解釈を要求する。解釈学を。  その点において、ガダマーの言う能産的な循環は「生きた物語」「開かれた物語」にも通じているように感じます。

motsuan
質問者

お礼

serpent-owlさん、こんにちは そして、どうもありがとうございました。  人間の生を個人のものとした時点で「開かれた物語」を私たちは紡いでいかなければならないと、本当に思います。ちょっとずれますが、私の「病気になると感受性は鋭くなるのでしょうか?」という質問に対して、皆さんから特にlittlekissさんから非常に誠実な言葉を寄せていただいて、そこで感じたのはやっぱり人間のもっている「開かれた生」といいますか、時間の中での人のありようといいますか、感受性とはすなわち「開かれた物語」の中に自分を置いて、世界とともにあることにほかならないということでありました。その意味で誠実さってとっても大切なものだということも思い知らされました。  ぐるぐるまとまらない話で大変お手数をおかけしましたが、この辺で「お開き」にしたいと思います。どうもありがとうございました。

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回答No.9

 前半宛「お礼」拝見しました。おっしゃる通り、「子どもの発見」は論理的に言って同時に「大人の発見」でもあります。成熟していること、理性的であること、文化的に洗練されていること等々、社会・文化によって異なる意味と価値が、「大人」のカテゴリーに付与されます。すると発達心理学もまた「二律背反」に引き裂かれているのかもしれません。一方では子どもを「対象」として区別しつつ、一方では大人との連続線上で捉えようとしている、という。子どもをそれ自体として見ようとしつつ、「大人の価値観」という軸足をどうしても外すことができない。そこに発達心理学の困難があるように思います。  そして、大人として担わされる部分が近代以前よりも大きくなったという点も言われる通りだと思います。これは「心理学」カテゴリーの「人の心に鬼は棲んでいますか」という質問のところで私が書いていることですが、近代以前は「係族」「三世代家族」など、大きな家族単位で子育てをしていたものが、核家族化が進んで子育ての負担が母親に集中し、「母性愛」が母親必須の徳目として急浮上します。その反動として虐待や育児放棄の問題も起こってくる。これと同じ構図で、近代の大人には近代以前よりも多くのものが押し付けられているのは事実だと思います。「完結した社会と自分の中の矛盾を各人の責任の範囲として解決しなくてはならなくなった」ということです。  そして、このような大人というものも、「子どもというカテゴリー」の対ですから、やはり実体ではなく仮構と見られることになるでしょう。したがって、「大人の当然あるべき姿以外の部分の記述は、発見された「子供」を記述するための方法論とあまり変わらない」ことになると思います。少なくとも、ふだん無自覚・無反省に考えられている「大人」像には問い直される余地があります。  このように、大人もまた仮構としてしか見えなくなっているとすると、こういう可能性はないでしょうか。すなわち、「世界と自分の矛盾を埋めるための物語」「自己了解のための物語」以外にも、「自分に押し付けられた物語」がある、という可能性です。母親なら母親の、父親なら父親の、課長なら課長の、部長なら部長の、意味と価値と役割が持たされます。これは一つの物語を与えられて、遂行を迫られているとも言えないでしょうか。むろん、「ミュトス」ではなく、合理的にしつらえられた社会に由来する「ロゴス」という形で。  だからこそ、「自分のための物語」がミュトスとして生起しなければならないのかな、などと思いました。そしてそれが再び共同体へ帰ることができるのか…まだ少しわかりません。考える時間をください。

回答No.8

 続きまして、「自己了解の方法としての物語」です。基礎編として故・丸山圭三郎を、発展編としてH-G・ガダマー(今年で101歳・現役)を援用しようと思います。  まず丸山圭三郎。これは「言語体系」そのものの話になります。  彼は、『文化のフェティシズム』や『欲望のウロボロス』の中で、「人間は、世界を分節化すると同時に、自分自身をも分節化する」と論じています。どういうことか。『欲望の…』の方で、かわいらしい女の子が例に挙げられていますので、紹介しましょう。  二、三歳くらいの女の子が電車に乗っています。初めて電車に乗りました。「電車」という言葉も初めてです。だからこの子は「デンシャ、デンシャ」と嬉しそうにつぶやきながら外を眺めています。ところが、突然妙なことを言い出しました。 「ママ、デンシャってにんげん? そえとも、おにんぎょう?」  ……  うおおぉぉぉ!きゃわゆいぃぃぃ!と、私は泣いてしまいましたが、丸山圭三郎先生は泣かないで冷静に分析しています。  この子の内面では、それまで以下のような「世界の分節化」(世界の整理棚)があり、それで何ら不都合なく生きていられたのです。すなわち、    「柔らかくて、暖かくて、動くもの=人間」    「固くて、冷たくて、動かないもの=人形」 です。  ところがこの日、初めて電車に乗った。「固くて、冷たいけど、動くもの」に遭遇したのです。それで「どっち?」ということになったわけです。  ちなみに、この時お母さんは「電車は電車よ」と答えたそうです。是非とも「さあ、どっちでしょうね?」と攻めてほしかったところではあります。  さてしかし、この女の子が上記二項からなる整理棚に拘泥しつづけるかぎり、「電車」は未知のものでありつづけます。実際にはそうではないでしょう。いずれ、彼女なりの「物語」を経て、    「固くて、冷たいけど、動くもの=機械」 という第三の棚を「析出」させることでしょう。彼女に与えられた世界そのものには何の変化もありませんが、彼女の中で、この世界を整理する仕切りが一歩、細かくなるのです。すると…「電車」なるものは彼女の言語体系の中に「安らかに収まる」ことになります。  ここで言えることは、彼女は世界に新しい区切りを投げかけている(分節化している)と同時に、自分自身の内的言語体系の中にも、新たな区切りを刻んでいる(分節化している)、ということです。世界の分節と言語体系の分節は同時的なのです。そしてこれは、motsuanさんの言われる「二つの物語」のうち、一つ目の物語を介してなされることと言ってよいと思います。  では「二つ目の物語」です。これは、生の世界との出会いにおける「物語」というよりも、「別の物語との出会い」という、やや二次的な出会いにおいて実現されるもののように思われます。H-G・ガダマーに御登場願いましょう。(上にも書きましたように、西暦1900年生まれで、今なお御健勝です。)  ガダマーと言えば解釈学Hermeneutikです。解釈学自体は聖書の解釈を目的として展開したものですが、ガダマーはディルタイ解釈学を乗り越える形でまったく独自の領域を切り開いています。まずはその主著『真理と方法 Wahrheit und Methode』を簡単にご紹介します。 『真理と方法』は3部構成のかなり大きな本です。第1部のみ法政大学出版会から翻訳が出ています。が、あんまり役に立ちません。というのは、この著書のうち「白眉」とされる部分、ガダマー解釈学のもっとも中心的な構造が提示される部分は第2部に含まれているからです。信じがたいことに、まだここが訳されていないのです(翻訳の作業は行われているはずですが)。  まずもって、「真理と方法」という表題からして意味深です。「真理」と「方法」とは単純に並置されているのではありません。互いに対立するものという意味合いを込めて付けられた表題です。どちらにウェイトが置かれているかというと、「真理」の方です。つまり「方法」なるものによっては「真理」は見えない、ということです。  「方法 method」という言葉は、語源を遡るとギリシャ語の「meta hodos」になります。「道(hodos) に沿って(meta)」ということです。ここで「道」なるものの概念を考えますと、それは常に「どこかへの道」であって、到達すべき目的地を持たない「道」などは概念上撞着します。逆に言えば、「道」と言表した瞬間、それは同時に「客観的に存在している目的地」を前提しています。  同様に「方法」もまた常に「何かのための方法」であり、「真理に到達するための方法」と言った瞬間、「真理とは客観的に存在するものである」という形の「真理の在り方の枠組み」が前提されてしまいます。  「真理と方法」という表題には、「真理とは方法的に到達できるような客観的な存在ではない」というガダマーの主張が込められています。  それではガダマーにとって真理とはどんなものかというと、結論的に言ってしまえば「テクストと解釈者との両者を巻き込んだ相互媒介的な運動の全体こそが真理である」ということになります。  まず、ガダマーは「テクストそのものが内包している客観的意味」を前提する態度を退けます。第2部第1章では先行する色々な立場の解釈学の歴史が批判的に検証されますが、その過程で、「先入観を排除すればテクストの客観的意味が汲み取れる」という立場が空理空論として退けられます。具体的に言えば、理性を歴史的諸状況に制約されないものと考える啓蒙主義、および「わたくし」を去ってテクストへの内在・没入を勧めるロマン主義の立場です。  これに対し、ガダマーは、あらゆる個人は歴史的状況に制約されたものであり、そのような本性上、過去の(ないし異文化の、または異なる個人の)テクストに対峙する際、自分の「先入観」を排除することはできない、と考えます。むしろ、この先入観は、テクスト理解に必要な「解釈者自身の持つ意味連関」として積極的に評価されます。「なければならないものである」ということです。  このような「先入観」を携えて、解釈者はテクストに参与していくわけですが、しかし、テクストそのものは元々解釈者のそれとは異なる意味連関(歴史的背景)に支えられて成立しているわけですから、当然、解釈者が自分の意味連関に、言い換えれば「先入観」に閉じこもるかぎりは理解に限界が生じます。この限界は「テクストの側から」解釈者に投げつけられます。「わからない」という事態です。「意味が通じない」「一貫しない、矛盾する」などなどです。この事態に立ち至り、解釈者は「問」を立て、その答をテクストの中に模索し、答を見出すという形で、自分の先入観から歩み出すことを余儀なくされます。これが「問と答の弁証法 Dialektik der Frage und Antwort」という運動ということになります。(「解釈の際に作用している歴史性」というような意味合いで、Wirkungs-geschihiteという言い方もしています。)  この運動の中で、解釈者の理解の「地平」は拡大されていくことになります。元々あった「解釈者の意味連関」が拡張されていくわけです。また、この運動を介して「テクストの持つ意味世界の地平」と「解釈者が持つ意味世界の地平」とは、互いに接近し、接触し、やがて境目を取り払っていきます。こういう状態を「地平融合 Horizontsverschmelzung 」と、ガダマーは呼んでいます。  どうでしょうか。ここでは「先入観」という言い方をしていますが、これは「自分の持っている言語体系」と同じものと考えて差し支えないでしょう。すると、ここでは「別の物語」との出会いの中で「自身の言語体系を乗り越える作業」が進行すると同時に、「自身の言語体系を自覚化する作業」もまた、行われていることになると言えます。  また、ガダマーは「古典テクストと解釈者」という関係を軸に論じていますが、私は個人的には、彼の言う「地平融合」はもっと一般化できると感じています。要するに、異なった言語体系同士が接触し、ぶつかりあうところに「問いと答えの弁証法」は生じうるわけですから、同じことは異文化理解の場面でも起こるでしょうし、あるいは一人の人間と他者との出会いの中でも起こりうることでしょう。別の育ち方をし、別の価値観を持ち、別の言語体系を持つ者同士が触れ合えば、そこには必ず互いにとって未知のものが見出されるはずです。それは両者を「それまでの言語体系」から超脱させていく契機になるでしょうし、いわばそれを鏡として、自身のもつ「それまでの言語体系」を自覚化できるでしょう。手短に言えば、他人との関わりを通じて他者を媒介として自己を認識する、ということです。  さて、もはやこれ以上の贅言は無用でしょうが、最後に、「他者とは、ある発端を持ち、ある過程を経て目の前に存在する、一つの物語である」と言えば、人間にとっていかに「物語」が不可欠なものであるかということは、明らかだろうと思います。 eut

motsuan
質問者

お礼

serpent-owlさん やっと後半のお礼です。 というかほとんどserpent-owlさんへのなんでも質問コーナーになってしまってるみたいで、ちょっと恐縮しています。  ずいぶんと間があいてしまいました。昨日部屋を片付けていて、偶然、丸山圭三郎さんの本(といっても、河合ブックレットで講演をまとめたものです)が出てきて、読み返してしまいました。内容はおろか本を買ったことさえ忘れ、丸山圭三郎さんの名前もなんか聞いたことあるなくらいで、すっかり忘れていたのでした。serpent-owlさんに回答してもらわなかったら、右から左へとそのブックレットを移しただけでしょう。ありがとうございます。  読み返してみると、ここでの話題にとても近いことが書いてあって面白かったです。私としては、そんなに昔にこんなことに興味あったかな?という感じで、当時はおそらく全く理解できなかったと思うので、それに影響されてしまっている(?)というのがちょっとショックです。  内容はserpent-owlさんご指摘のように言語による分節化(表層の意識)と分節化されない言語(深層意識。といっても、表層の意識下でロゴスがカオスになっているような意識を考えていらっしゃるようでした。しかも、下意識と潜意識というように個人と社会のなかの意識(?)という形で分節化していました。)に関するもので、それをフロイトがいうような欲動としての無意識と表層の意識の間に位置付けてなんとかしようとしているようでした(木村敏の「あいだ」のおはなしのように)。そっから先はどうなるの?と知りたかったのですが、お話はそこで終わりでした。  分節化されるなかでこぼれ落ち、表層の言語体系に抑圧された「深層意識」のいき場は、ここでの議論では(神話的=矛盾した/ちぐはぐな)物語なのか?だとするとそれは何の意味を持つのか?という形の問いになっているのかなと思いました。(ちなみにその本では、人は酔うと歌い出すということで、カラオケになっていました。なるほど!)・・・それとも、ロゴスのカオスの大きなうねりが、揺らぎをもったちぐはぐな物語だとすれば物語は純粋な欲動としての無意識ではなくて、意識の大きなうねりとしてアトラクタのように作用するのかななどと妄想が膨らんでしまいました。  serpent-owlさんのおっしゃる「世界に新しい区切りを投げかけている(分節化している)と同時に、自分自身の内的言語体系の中にも、新たな区切りを刻んでいる(分節化している)」という図式と「「別の物語」との出会いの中で「自身の言語体系を乗り越える作業」が進行すると同時に、「自身の言語体系を自覚化する作業」もまた、行われていることになる」という図式は共通点として、どちらも、「新たな区切りを刻んでいる/自身の言語体系を自覚化する作業」というロゴスの中にやすらかに納める内装工事と同時に「世界に新しい区切りを投げかけている/自身の言語体系を乗り越える作業」という拡張工事が付随していることが特徴なのかなと思います。そして、単なる思いこみなのかもしれませんが、現代は際限ない自己の世界の拡張によって、ちぐはぐな物語なしに自己をとらえている(捉えうる)感覚を生み出しているのかなと思いました。手にいれることによって自己を保つのと、自己の神話を作って自己を保つことの差なのだと思います。・・・ごめんなさい。やっぱり私の中ではもやもやしてしまうのです。  「他者とは、ある発端を持ち、ある過程を経て目の前に存在する、一つの物語である」というのはそのとおりなのだと思います。私としてもそういうたくさんの物語に出会いたいです。でも、人と神話の関係は表層と深層の意識のずれとしてあって・・・というさんざんみなさんに書いていただいたようなありきたりのところにあって、それは、外の世界と自分の中の世界を切り分けたいという私の願望みたいなところから生じる偏見なのかもしれません(中と外の分節化という言語による呪縛なのでしょうか)。偏見によって議論をねじ曲げようねじ曲げようという性向が出てしまって(というより、serpent-owlさんの回答に対して十分理解できず)お見苦しいところをお見せしているようですね。 そろそろ締め時ですね(もう一つお礼をかかねば、ねば。)  それにしてもserpent-owlさんには豊富な例と細やかな説明を書いていただき、「自身の言語体系を乗り越える作業」とわたしの見ている「世界に新しい区切りを投げかける」作業が大変急ピッチで進んでいます。どうもありがとうございます。  他の質問への書き込みも楽しく拝見させていただいております。分割方式は成功したのでしょうか。まだでしたら成功をお祈り申し上げます。

回答No.7

 補足を拝見しました。私の眼から見て、語るべき論点が二つほどあるように感じました。  一つには「近代《子ども》論」と発達心理学の関係。  もう一つは「自己了解の方法としての物語」という論点。  一つずつ見ていきます。  まず「子ども論」です。  これは比較的最近提起されてきた問題です。フランスの歴史学者フィリップ・アリエスの論考『子供の誕生』(みすず書房に邦訳あり)での、「子どもは近代になって初めて《発見》された」という、ちょっと驚くような指摘が出発点になっています。国内では元・御茶ノ水大学教授の本田和子(「まつこ」とお読みするようです)さんが代表的な論者で、中村雄二郎さんも時々これについて論じています。  アリエスの指摘は、「近代以前には子どもが存在しなかった」ということを言っているのではありません。子どもという「新たなカテゴリー」が、「近代家族」の成立と連動して析出し、文化的現象として明確に浮上してきたのが近代に入ってからなのだ、という主張です。  もう少し詳しく述べましょう。近代以前には、子どもは存在していましたが、明確に意識される存在ではなかったのです。そこでの子どもの捉えられ方には二つあります。一つは、単に「幼いもの」として、共同体の中で特に意味を持たない存在、つまり「共同体の外部にある存在」とでもいうべきものです。もう一つは「小さな大人」としての捉え方。これは村落社会での子どもの役割をイメージするとわかりやすいと思います。農村では、子どもだって労働力なのです。大人と子どもにできる仕事には、むろん違いがありますが、その違いの元は「腕力」だけです。つまり、量的な差異でしかない。質的には区別がない。すなわち、子どもと大人は連続的に捉えられています。これが「小さな大人」。こちらはというと、やはり特別な意識の対象としてではなく、「共同体の中で」大人と同列に置かれています。(もっとも、「米俵一つを持ち上げられたら大人」とか、そういう通過儀礼・イニシエーションはあります。これが大人と子どもの「区別」を意味するのはたしかですが、やはり「腕力の量的変化」のある時点に便宜上の区切りをつけているだけのことですから、「恣意的」なものでしかありません。どのようにもズラすことのできる区切りなのです。)  このように、近代以前は、子どもは特に意味を持たない「幼いもの」として「共同体の外」に置かれ、あるいは「小さな大人」として「共同体の中に」大人と同列に置かれて、いずれにせよ明確に意識される対象ではなかったわけです。  ところが、近代産業が勃興し、「系族」「大家族」から「近代的家族」が分離・析出してくるのと連動して、「その幼さ、未熟さを愛し慈しみ、可愛がる対象」であり、同時に「その幼さ、未熟さを、教育することを通じて排除すべき対象」でもある存在として「子ども」という新たなカテゴリー(分類の箱)が生まれてきた。ここが大事なポイントです。つまり、近代的文化事象としての「子ども」とは、《実体》なのではなく、    「幼さを愛の対象として共同体の中へ引き込む力」と、    「幼さを排除の対象として共同体の外へ押し出す力」とが、    同時に作用している対象として《定義されるもの》 なのです。  具体的に言うと、12歳くらいで大学を卒業してしまうような天才児は、家の中では子どもかもしれませんが、大学ないし社会は「大人」として扱います。上記の「定義」から外れるからです(未熟ではないから)。  逆に、いかに精神的に幼く、あるいはどれほど腕力が乏しかろうと、チン毛はおろかスネ毛までがボーボーに生えていたら、やはり社会は彼を「大人」として扱います。可愛がりの対象たる「幼さ」がないため、上記の「定義」から外れるからです。  「二つの力が同時に作用するもの」として「定義」されるのが近代における「子ども」です。  本田和子さんは、このような子ども、および近代家族は、「二律背反に引き裂かれている」と指摘しています。  というのは、まず子どもから見ると、一方では「おまえの幼さ・未熟さがかわいい(だからいつまでもそのままで)」と言われ、しかし他方では「おまえの幼さ・未熟さは乗り越えていかなければならない(早く大人になろうね)」と言われる、というように、相矛盾して両立しえないはずの態度が同時に向けられているからです。反対に家族の方から見ると、「子どもの幼さ・未熟さを愛し慈しめ」という命令と、「その幼さ・未熟さを排除せよ」という命令とが、これまた同時に与えられているのです。  さて、ここまでが「近代子ども論」のサマライズです。これに照らして「発達心理学」を見ます。  実は問題があるのです。発達心理学には。  まず一つには、「発達心理学」と一言で言ってもさまざまで、ヴェルナーやクリューガーやヴントなど、鮮明に立場を異にする人たちがそれぞれに「発達心理学」を名乗り、その全体を統括する作業がいまだに終わっていないことがあります。これにも理由があります。いずれについても、「心が低い段階から高い段階へ発達していく過程を時系列に沿って整理し、その法則性を発見・記述する」という目的は同じです。が、問題は「何を以って発達と見なすか」です。当然、「発達」には価値判断が伴うわけです。そして、その価値判断は時代により、地域により、つまり文化によって左右されてきます。言い換えれば、「人間」という種のレベルで客観的・科学的には扱えないのです。この「文化的要素」をどう捉え、整理するかによって、さまざまな発達心理学が分化してしまっています。  これは、この心理学が「発達」という課題を背負ってしまったがために、必然的に価値判断の問題に足を絡め取られることとなり、文化も考慮せざるをえず、したがって自然科学的方法だけでは完結し得ない結果になった、ということです。ブレイクスルー…あるかもしれませんが、そうなると発達心理学は、もはや「客観的自然科学の一分野」とは言えなくなっているでしょう。ご指摘のとおり、「人間を自然科学的に捉えようとする場合、必ず問題になる部分」に関わっているからです。  それからもう一点。前述の「子ども論」に照らせばこちらの方が重要です。それは「発達心理学は教育心理学である」という点です。さっき述べましたように、発達心理学にはさまざまなものがあります。しかし、やはりもっとも一般的なのは「児童心理学」ないし「教育心理学」としての発達心理学です。…これは、大学の教員養成課程では必ず設置されている講座です。つまり「教育を目的とした」心理学ということです。  すると、この心理学は「子どもと定義されるもの」に対して働く力の一つ、「幼さ・未熟さを排除する力」を代表するものにほかならないことが見て取れるでしょう。ですから、こういうことが言えます。すなわち、「発達心理学は、《子ども》というものの全体像を捉えるための窓としては小さすぎる」と。先の「文化的要素を抱え込まざるをえなかった」という点とも連動して、「物語を自然科学的に検証する」のが苦しくなるのは当然のことです。  そしてまた同時に言えることは、発達心理学が前提にしているのが「生身の子ども」ではなくて「近代に成立したカテゴリーとしての子ども」である、ということです。発達心理学自体がそのカテゴリーを定義する力の一つなのですから、これも当然のことです。循環するトートロジーがここに生じます。自らがその力の一つとなって定義されるカテゴリーを、前提となる「子ども像」に据えているという…。これは、「文化的に定義される《大人なるもの》へ向かって発達・成長していく子ども」という課題を持つがゆえに必然的に背負わざるをえない困難です。  ブレイクスルー…難しいと思います。どうしても自然科学的手法の枠内で完結できるものとは思えません。  「近代的文化事象としての子ども」とは、「二つの力が作る渦巻きとして生じる、実体のないもの」です。ここでの「子ども」は、それ自体として自立的に「ある」と言えるものではなく、二つの力によって「あらしめられている」ものです。実体ではなく、仮構です。でも、子どもって「います」よね。近代以前は「発見」されていなかったとしても、そして近代以降は「仮構」としてしか見えなくなってしまっているとしても。  これは中村雄二郎が述べていることですが、子どもを「独自の存在」と認め(つまり大人へと発達していくものとしてではなく)、その全体像から眺める方が適切であるように思います。「純真無垢であると同時に、荒ぶる神として善悪の彼岸に立つ存在」として。  そして子どもの内的「物語」もまた、そうした子どもが「生の世界」とぶつかり合う中で自分の言語体系を耕し、組織化していく主体的な営みと考えたく思います。「子どもから大人へ」という一本の線を引いてしまうと見えなくなる「物語」があるはずです。そうした物語をこそ、見なければならないのではないでしょうか。『絵本の心理学』も、そうした物語を掬い取ろうとする努力なのだろうと思います。が、やはり発達心理学の枠組みを保つかぎりは、限界を持つもののように感じられます。  さて、少々長くなりました。(「少々」か?>おれ)  「自己了解のための物語」は稿を改めます。 men

motsuan
質問者

お礼

serpent-owlさんこんにちは、そして、どうもありがとうございます。 いろいろ教えていただいて、それに追いつけないのが申し訳ないのですが、皆さんからの示唆を杖によちよちと進んでいこうと思ってます。  serpent-owlさんのおっしゃるように近代になって共同体の枠の外の存在であった子供が、「発見」されたというのは、私にはある意味、共同体の中での大人(人間)が当然あるべき姿以外の部分を持つものとして共同体の中で充分に認識されるようになったことの裏返しのように見えます(それまで、共同体の中に埋め込まれてきた人間の内面にある「荒ぶる神」が、カーペットの下に掃き寄せられたごみのように、(すべての文化の最大公約数としての)矛盾のない完結した社会と引き換えに個人の所有物として認識されるようになったということなのでしょうか)。そして、大人の当然あるべき姿以外の部分の記述は、発見された「子供」を記述するための方法論とあまり変わらないのではないかと思うのです。私たちは完結した社会と自分の中の矛盾を各人の責任の範囲として解決しなくてはならなくなったのではないのでしょうか?そして、共同体の中の物語としてではなく、個別化された物語ってなんなのだろう?その物語の構造主義的な、あるいは還元主義的な理解が、再び共同体の問題として、個人の内面にある「荒ぶる神」を引き戻すことになるのか?というのが私の問題の伏線のひとつなのだと思います(その方法論が必ずしも正しいとは思わないのですが、共同体の問題に引き戻せるような気がしてくるところがおもしろいのかなと思います)。ある人は「無意識」という言葉を使い、「利己的な遺伝子」(本能)という言葉で説明しようとする人もいるかも知れません。でも、それは(現代社会が引き起こした)矛盾する自己を、新たな概念をつくり、矛盾しない体系の中に組み込もうとする試み(矛盾のない完結した社会の言語体系への還元)にしか過ぎないのではないかと思うのです。つまり、カーペットの下に掃き寄せているに過ぎないのではないのでしょうか?  かと言って自費出版の自伝のようなものを全員が作ればそれが物語なのかというとまた違うような気がするんです。素朴な意味の物語が個人の「荒ぶる神」とどうかかわり、個人の矛盾を解決ではなく内包し、共同体の中に埋め込んでいくのかということなのかも知れません。その意味で、おそらく「絵本の心理学」に関しては現状子供の心理を記述するために手一杯で発達心理学としいままでできなかった子供の心の仕組みを語るまでには至っていない、あるいは方法論としてそういう結果をもたらすものでは無いのかも知れません。私はまだその方法論が語りたいこと(語れること)に挑戦していないような印象を受けて射ます。・・・私の単なる幻想なのかもしれません。自然科学的な手法が渾沌に目鼻をつけるような愚かしさをもっているのはわかるのですが、目鼻をつけられた渾沌がもがく姿を見極めて、そこから渾沌の姿が垣間見えるかも知れない!あるいは目鼻がないと分かった気がしないおろかな人間がもがく姿を鏡に映しただけなのかもしれませんが。 後半のお礼はまた別途させていただきます。

  • mori0309
  • ベストアンサー率32% (12/37)
回答No.6

私はとても空想家です。40を過ぎても夢見る少年のようです。 どういうわけか、社会や人類や宇宙の、5千年後・1万年後・百万年後を いつも思い描いています。 自分の命はあと数十年で終わるのは確実なのに。 乏しい読書や人生経験によって、うすらぼんやりと見えてきている 自分というものの存在理由。 それは、まさしくmotsuanさんのおっしゃる、自分のための「物語」そのものなの かもしれません。 すべてに物語を求めずにいられません。 この世や自分が無意味であるとは、とても思えない。思いたくない。 果てしない、生きる理由さがし。 大地、天、花、星、島宇宙、夕焼け、雪解け水、桜、、、かなわなかった恋、、、 すべてが私に何かを語りかけてきます。 ついには円周率にまで聞き耳をたててしまう。 私の質問「π、、、」もお読みいただければ幸いです。

motsuan
質問者

お礼

たしかに、存在理由ほどこころもとないものはない。同感です。 > 私の質問「π、、、」もお読みいただければ幸いです を読ませていただきました。興味深い考察でした。でも私の答えときたら、 > この世や自分が無意味であるとは、とても思えない。思いたくない。 と思われているmori0309さんに対して、意味がある!というよりは、意味がない!に近い回答になってしまいました。 補足すると、意味がないというよりは、存在理由として、私は正しくないけど生きていていいんだ!という方に近い考え方をしてしまうのです。いのちというものを何者かを生み出すものとして考えてしまうのです。方程式があって、その解があって、というよりは、解と方程式がごっちゃになった(これって、たんなる非線形方程式?)存在として考えてしまうので、真理さえ生み出すすごい存在!楽しい存在!と思いたいのだと思います。もし、気分を悪くされたなら、お詫び致します。

回答No.5

 河合隼雄さんの『物語とふしぎ』という文章の中に、こんなことが書かれています。  子どもの発する「なぜ?」に対して、「なぜでしょうね?」と返してやると、子どもは「物語」を作る、と。  そこで挙げられていた例は、こうです。 「なぜ、セミは鳴くの?」という子どもの質問。お母さんは答えます。「さあ、なぜでしょうね?」 …子ども、しばらく考えます。そして、「きっと、お母さんを呼んでるんだね…」と…。  ここで、子どもは「納得」しているのです。セミの鳴く理由に「物語」を作って。  逆に次のようにしてしまうと、子どもは納得しません。例えば、「セミに聞いてみれば?」とか。あるいは、客観的に正しい、科学的な説明では。  なぜか?  それは、子どもの持つ「内的世界」と関わりがないからです。たとえ科学的な、客観的には正しい説明であっても、子どもの内的世界に関わりが持たれない場合には、子どもは「納得」しないのです。  子どもの内面に編み出された物語、これを河合隼雄さんはいみじくも「神話」と呼んでいます。  子どもの発する言葉に、時として詩情の煌めきが感じられることがあります。例えば、真ん中通るは中央線に乗っている、漢字覚えたての子どもが、止まる駅ごとに「おちゃのみず…すいどうばし…いいだばし…よ・つ・や?」と言っています。が、次の「信濃町」。…「信濃」という漢字を「しなの」と読むのは、けっこうキツイことです。漢字覚えたての子にとっては。その時、この子はこう言ったそうです。 「おちゃのみず…すいどうばし…いいだばし…よつや…………しらないまち?」  この話も引用です。実は作り話なのかもしれません。でも、子どもの何気ない一言が、時には新鮮で、時にははっとさせるような鋭さを持ち、時には深い感動すらもたらすことがあるのは事実でしょう。  これは、ある意味では子どもならではの「才能」です。しかし、子どもの時期だけに恵まれた、何か神秘的な能力ということではありません。子どもの時期だけに経験される、ある「状況」に媒介されてこのようなことは起こるのです。  この状況とは、「子どもの、あまり豊かとは言えない内容しか持たない言語体系と、その中では処理しきれない新たな経験とが、毎日のようにぶつかっている」という状況です。  詩人は、日々の使い慣らされたありきたりの言語を超えて逸脱をはかり、しかも滅茶苦茶ではない新鮮な秩序をもつ言葉の芸術を追究します。日常の言葉を乗り越えようとします。これは同時に、自身のもつ言語体系を乗り越えようとする作業にほかなりません。  すると、子どもというのは、詩人が自覚的に行っているその作業を、日々無自覚のうちにやっていることになるのです。その作業を強いられていると言った方がいいかもしれません。豊かとは言えない言語体系に軸足を置いて、その中では言葉にできない新たな体験を何とか言葉にしようとする。「物語」を、「神話」を、編み出そうとするのです。子どもなりの、内的な「納得」のために。そこに、時として大人の詩人でも達し得ないような詩情の煌めきが宿ってくることがある。  モノガタルという行為、それは、子どもなら誰もが経験している行為なのだと思います。そして、言うまでもなく誰もがかつては子どもでした。ならば、モノガタルという行為は人間にとってきわめて普遍的なものだということは、かなり確実に言えることなのではないでしょうか。  motsuanさんの問題意識には深く興味を覚えています。補足等はごゆるりと。ゆっくり話しましょう。 ane

motsuan
質問者

補足

実は、この質問をした背景として「絵本の心理学-子どもの心を理解するために」(佐々木宏子著(新曜社))と言う本のことも書こうと考えていました。(だた、質問は800字までらしいので、削っているうちにこうなってしまいました。) その本は、子供の発達心理学というと、発達というものを現象(子供の行動)で評価しようとするために、 (1)評価できる現象の発達により子供の発達を記述してしまうがこれで良いのだろうか?という問題意識と (2)優れた物語は子供の心の有様をうまく記述していて、物語を解析することにより発達心理学で取り残してしまっている部分を記述できるのではないか?という試みの実際を記述したものです(従って、大部分は絵本の解析に充てられています。) (1)に関しては人間を自然科学的(?)に記述しようとしたときに必ず問題になる部分で 私はここのブレークスルー(あるのかないのか分かりませんが)がどうなるのかずーっと興味を持っています。 (2)に関しては、説明が苦しそうでした。たぶんそういうアプローチは有り得ると感じることはできるけど、 具体的な方法論(自然科学的検証)として見えてこないところがつらいのだと思います。 その本の導入部にやはり河合隼雄さんの物語と子供のこころの話が持ち出されていました。 私は本質的な部分でこのアプローチは正しいと思っています。でも、この方法論が本当に正しいと主張するにはどうしたら良いのだろう?物語の分析として分類学的(構造主義的というのでしょうか?)な方法に還元していって大丈夫なのだろうか?と考え、上のような質問をする契機の1つになっています。 serpent-owlさんのご指摘で少し構造が見えるような気がしてきたのですが、”自身のもつ言語体系を乗り越えようとする作業”という言葉から、私の問題意識として「2つある物語」の間の関係は一体どうなっているんだろう?ということです。つまり「2つある物語」とは、一つは、質問にも書いたように、「言語体系の中に安らかに収める」ための物語として、もう一つは、私たち自身を理解する方法論の糸口としての物語です(これって散々皆さんから指摘されているのだと思いますが)。何で”自身のもつ言語体系を乗り越えようとする作業”(普通に考えると”私”から少しぶれた新しい”私”のようになるように思える作業)が”私たち自身を理解する”方法となり得るのか?という問題意識です。とりあえず、ここまででまた考えさせていただきます。 ところで、serpent-owlさんの他の質問に対する、ご回答の順番は正しい順番に並んでいるのでしょうか? なかなか...

  • misoka
  • ベストアンサー率35% (56/160)
回答No.4

不確定な事象への意味付け、という面もあるかもしれませんが、それはあくまでも解釈ということになると思います。つまり、それでは別にヤマタノオロチが出てくる必要もないかもしれませんし、メデューサが出てくる必要もないかもしれない、というわけです。 思うに、物語というものは、ある事象の説明として発生したとは限らないし、その伝播も、うまく説明しているかどうかによっているわけではない、つまり、物語のキモというのは、その類の不安の解消にあるというより、もっと別なところ、もっと「コミュニケーション」に関係したところにあるんじゃないか? と思います。 レヴィ・ストロースと言えば、神話学が有名なようですが、その神話学の手法は、神話を意味的に解析するのではなく、そのバリエーションの発生と伝播から、ある「構造」を見出す、というものだったと(勝手に)解釈しています。 そういう「構造主義的」(?)な考え方からすれば、まさに、その「構造」を研究してこそ、人間にとっての神話の意味(ひいては人間というモノの意味)が浮かびあがってくる、ということになるかもしれません。物語というものの意味も... うーん、でも、こんな言い方だと、結論を「構造主義」という金庫に預けてしまうようなものだ... それで、ちょっと考えたのですが、 物語っていうのは、コミュニケートされて始めて物語となる、というふうに考えれば、そこには何か、人間の興味を引くものがある、と考えてよいと思います。 そこで、「言葉にならない観念A」を、個々人のもつ不確定な観念ではなく、個々人の「興味」(大雑把な言い方ですが...)であると考えてみれば...? 何か見えてくるような気もします。たとえば「興味」を「快」に言い換えて、(ちょっと性的に考えれば)フロイト的な人間観とつながるかもしれません...

motsuan
質問者

お礼

どうもありがとうございます。  自分でも質問の意味が固まっていないため、皆さんの意見を読んでから、何とか感想が書けるくらいになってからお礼を書いているので、またまたお礼が遅くなりました(いいわけですね)。 何だか分からない気持ち(観念A)を「興味」に置き換えては?というご提案、興味があります。なんだかわけのわからない物というのは確かに興味が引かれますもんね(私にとってまさにこの質問です)。そして、興味がなければコミュニケートされない(語られない、聞いてもらえない)物語になってしまうという意味ですよね。なるほど、わけのわからないものを物語の中に埋め込むというよりは、むしろ、興味(わけのわからないもの)が埋め込まれるから物語で、人間という場の上で伝わっていく(存在する)のが物語という感じでしょうか? 人間は興味という共振器で物語を持ち運び受け渡す。  (「ロゴス」として)言語というものがある意味静的なものであるのに対して、「ミュトス」は非常に動的に存在し、かつ、「ロゴス」的言語の世界に埋め込まれるというよりは、人と人との間にあって伝播することにより葬られる。「ひとはお話好きである。」という感じでしょうか。分かるような気がします。

  • buraian
  • ベストアンサー率20% (1/5)
回答No.3

なるほど。回答された方々のご意見も納得させられます。 僕の見解としては、人間の欲求のひとつとして物語の受容があるとします。その要因のひとつに不確定な存在のものをあえて明確で安定した存在として、意味付けて理解しようという欲求があると思われます。 人間はある現象に意味付けを行うとき、自分の価値体系の中で、その現象よりもより価値のあるものとの関係においてその現象に意味付けを行うと僕は考えています。 例えば、豚肉を食べる食べないという宗教上の問題も、豚そのものを夫々の宗教の中で最も価値の高い規範(神の言葉など)との関係の上で、卑しんだり、崇めたりする訳です。 奇跡の話も同様のことが言えるでしょう。イエスがほどこした治療も宗教的意味合いで捉えれば奇跡となります。 では、物語はどうでしょうか。様々な段階で議論することが可能ですが、motsuanさんの2段落目の議論に則してお話すると、個々人の未来という不確定極まりないと思われるものを意味付けし、安定させることが人間の欲求としてあり、その解決の手段の一つににモノガタル行為を受容するということが含まれるのだと言えます。 motsuanさんは「宗教だろ」と言っておられますが、やはり過去の天災などから身を守り、世界をより理解するための手法のひとつとして先祖より伝承されたものをモノガタルという行為があり、また別の理解の形式として宗教があるのだと思われます。モノガタルということは過去から伝えられて来た信頼のおける情報、即ち受け手にとって最も価値ある存在を意味します。また、宗教は世界を全て宗教の教えにおいて理路整然と価値体系を整理してみせます。 そのような意味において、モノガタル行為があり、宗教があるのだ思われます。だとすれば、モノガタル行為とも宗教とも言える神話は、ある現象を意味付けする時に自己の価値体系で最高位なり得るもので、その意味付けの基準となると言えるでしょう。 また、小説のドキドキ感については、ヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』をお勧めします。読んで損はないでしょう。イーザーは文学理論の中でも受容理論の大家として有名な方です。特にドキドキ感に関しては「空所の理論」というものが関係します。これも人間が不明なものを何とか理解しようとする欲求に由来するものであることは明らかです。

motsuan
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 「モノガタル行為」により、高位のものによって現象が位置付けられるというご指摘かと思います。逆に不確定/不安なものがなければ人は高位のものの体系に近づけないような気もします。そういうぐらぐらしたものを人から引き出せるのがカリスマで、ぐらぐらしたものによって高位のものに限りなく近づいたのがシャーマンのようなものかなと思いました(ちょっと強引ですね)。 この内容に刺激を受けて、いろいろWEB上で調べていたところ ものがたる行為として最近?ナラッティックセラピー(ナラッティックという言葉をそのほかいろいろのシチュエーションで使うようです)なるものがあるということに突き当たりました。buraianさんご指摘の「より価値のあるものとの関係においてその現象に意味付けを行う」のより価値のあるが(人と人とのつながりの)社会として位置付けられているようです。大変興味を受け勉強してみようと思ってます。 小説のドキドキ感に関して考えた人がいるんですね。これも探して勉強してみたいと思います。 どうもありがとうございました。

motsuan
質問者

補足

間違えました。ナラッティクじゃなくてナラティヴでした。慣れないこというもんじゃありませんね。

noname#8665
noname#8665
回答No.2

はい、この話題、昔映画の専門学校で議論しました。 で、得た結論。 「誰にでも必要なものではないが、ある種の教育などのときに使用するとその効果をあげることができる。つまり、好むと好まざるに関わらず、人は物語を使用し、鑑賞している。」 民話ってありますよね。 あれって、一種の道徳感の説明ですよね。 かなりのケースで。 あれにはやっぱし、教育的効果って奴があって、 ただ単に「一生懸命働かないといけません」 っていうことを言うよりも、そういう教訓を含んだ物語にして 聞かせた方が説得力ありますからね。 ふだんの会話とかでも、そう。 例え話を折り込みながら話した方が説得しやすいケースってのも 相当にある。 で、これ当然のごとく、誰しもやってますね。 こういうことをしながら、日々過ごしてるわけです。 だから、「物語=小説とか映画」というようなことで考えると、 「興味ない人には関係ないじゃん」ですが、 こういった日常レベルの「物語」まで含めて考えていくと、 「誰でも必要にしろ、必要でないにしろ、物語を使用し、鑑賞している。」 という結論が出ます。 ゆえに、「物語は必要というより、必然としてある」ってとこでしょうね。 ただ、物語る人がそうやってふんぞり返ってるような「物語」は だいたいつまんないんですけどね(笑)

motsuan
質問者

お礼

oniocさんありがとうございます。 こちらもお礼遅くなりました。ごめんなさい。 「物語にして聞かせた方が説得力ありますからね。」 って本当にそうだと思います。 「悪いことしたらおっかないおじさんがきて連れて行かれちゃうよ!」 とか親に言われるとほとんどトラウマのように効いてしまいますもんね。 たぶん、これが理解する(納得する)ということの原型だと思うのですが、 どうも、「ロゴス」で理解するのとはちょっと違いますよね。 そのメカニズム(精神的な情報のさばき方でも脳内の現象でもいいんですけど)ってどうなってるんだろう? と思うのです。 「必然としてある」っていう感じはするんですが、そのベースとなる仕組みがわかればなぁと思っています。

noname#254
noname#254
回答No.1

 第2段落でお示しになっている理解が正鵠を射ていると思います。ほんの少し、お考えを整理するだけでスッキリされるのではないかと感じます。  そこで、まず一つ整理する棚として「ミュトス」と「ロゴス」というのを提案します。「ミュトス」は神話、「ロゴス」は論理です。  例えばカミナリという現象がある。ゴロゴロ、ピシャーンというあれです。昔の人は、そういう現象を経験し、それがあることは知っていましたが、それが何故起きるのか、原因は知りませんでした。《野性の思考》では、これが雷神の働きとか、精霊の働きとかという形で観念される。「ミュトスによる説明」です。  が、これには「ロゴスによる説明」も可能です。野性の思考から離れてしまった僕たちから見れば、「急激な上昇気流により雲の中に静電気が発生し、地表との電位差が生まれ、その電位差を一気に埋める形で放電が生じる」などと説明できます。そしてその知識をもとに、カミナリから身を守るにはどうすればいいか…などと冷静な眼差しでカミナリを眺めることができます。カミナリは、僕たちの言語体系に、安らかに収まります。  ここで、「言語体系の中に、安らかに収める」という意味では、「ミュトスによる説明」も同じなのです。「なぜカミナリは起きるのか」「雷神がいるせいだ」…と納得できるからです。そのうえで祈ったり、貢ぎ物を捧げたりする。  つまり人間は、「ロゴス」に収まらないことは「ミュトス」で捉えようとするわけです。  この、「ミュトスとロゴス」という棚を、少し読み替えます。「ミュトス」を「未来」に。どうでしょうか。ご質問の第2段落で示されたお考えが、まったく正しいことが見て取れると思います。  というのは、ご指摘のように、「未来」はまったくもって不可知だからです。「ロゴス」には収まらない。「ミュトス」で捉えるしかない。ただもちろん、僕たちの生きる科学の時代では、それは神話ではなくて「物語」という形をとる。漠然とした「こうなりたいな」かもしれないし、人によってはかなり綿密な計画になったりもします。ですから、「未来」という要素を考えると、人間にとって、物語は間違いなく必要です。  また、こういう意味での「物語」は、「未来」に向けてのみ必要なものでもありません。実は「過去」についても必要です。history とstoryの語源が同じであることからも見て取れるように、まず、「歴史とは物語である」ということが言えます。ですが、ここではそこまで話を広げずに、一人の個人というスケールで見てみましょう。  人間の意識は、常に自覚的なものとは限りません。無意識レベルではなく、意識のレベルでも、自分でも気づいていないような欲求・意志・想念が渦巻いています。「物語」の最も基本的な構造は「発端と結末を持つこと」です(アリストテレスの定義によります)。そういう意味では、その連続した切れ目の無い意識の渦巻きは「物語」とは言えません。ですが人間は「自己意識・自己認識」を持ちます。これは実は、切れ目の無い意識の渦巻きに、「発端」と「結末」を刻んで、一定の長さをもつ時間の中で捉えることで得られるものなのです。つまり、自己意識は「自分の意識の物語化」の結果を束にしたものということです。「あの頃おれは、こうだった」という「物語」の積み重なりが、「今の自分」。こう考えますと、「物語は過去についても必要」と言えるでしょう。  またもう少し「ミュトスとロゴス」を読み替えます。今度は「文学」と「哲学」です。  哲学の中にもかなり文学的なものがあり、そういう意味では哲学と文学の間に截然と区切りを入れることは難しいのですが、ここでの哲学は「人間を論理によって捉えようとするもの」と考えて下さい。もう…お分かりですね? そうです。人間には、論理で捉えきれない部分があり、また普遍的だが抽象的な人間観には解消できない個別性・具体性があります。これには無限のパターンがあります。「ロゴス」では捉えきれません。だったら「ミュトス」しかない。「文学」です。  はい、結論です。「人間にとって、物語は必要である」と、なります。

motsuan
質問者

お礼

わかりやすい説明どうもありがとうございます。 早くお礼をいうべきだったのですが、遅くなりまして申し訳ございません。 人間を理解するために「ミュトス」が必要だというのは分かりました。 仮に「ミュトス」がなかったらどうなるか?と考えてみましたが想像できませんでした。 だた、現代は、社会の中に埋め込まれた「ミュトス」をどんどん削って 圧倒的な「ミュトス」の欠乏を背景に 個人の「ミュトス」(?)を主体として社会を築いているように思うのです。 さらに「ミュトス」により完結した私の未来や過去は「ミュトス」である がゆえに普遍性をもたざろうえず(それは言葉によりつづられているから)、 それゆえ、  私のなかの「ロゴス」でない部分 > 一般的な「ミュトス」 となって、「ミュトス」が足りない!となっていると思うのです (芸術的な...私には程遠いけど...フラストレーションなのかな?あるいは、 「ミュトス」が十分に神話的であれば多義的でそうはならないのかもしれません)。 つまり、個人に「ミュトス」を還元したとたん、不完全な体系として、 あるいは、個人のわけの分からない心の奥底と同一視され(よって問題は解決されず)、 結局、「言語体系の中に安らかに収める」ことがとっても難しくなっているような気がするのです。 その意味で「物語」がないと人はどうなってしまうのか? というのが私の問題意識のような気がします。(ごめんなさい、なかなかまとまらないのです。) 私たちは消費行動やネットワーク上の実体のない社会によって「ミュトス」を手にいれようとしているのでしょうか? (ネットワーク上のものが実体がないといっているわけじゃありません。 教えてgoo!とか助かってます。実体なさのような感じを手に入れようとしているということです)

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    • ベストアンサー
    • PHP
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    源氏物語には、様々な女性との恋の話がかかれていますぇ。 そのなかで登場する人間には ちゃんとした家系の人間と 遊び目(大事な本妻から産まれていない人)、 後宮の女中、奴隷のような人がいますが、 現代でも、それらのように、 この世に必要されている人と 必要されていないどうでもいい人が いるのでしょか?もしあるとしたら、 現在では、それは、 一部のエリートと労働者と言うことに なるのでしょうか? そうなると、人の「命」は平等ですが、 その命の価値がある人と 殺されようが、こき使われようが、構わない人がいるのでしょうか? 今の社会に即した回答をお待ちしております。

  • この文章の要約がどうしてもできません……

    この文章の要約がどうしてもできません…… 長文で大変申し訳無いのですが、教えていただけると助かります💦  ここに一人の人間がいたとする。彼が自分の属している言語圏から出て全くことなった言語圏に入ってゆくとしたらどういう変化が生じるのだろうか。それは、移り住んだ言語圏の言葉を多少知っていて、それを組み合わせ、あやつりながら生活するという程度ではは終わらない。彼の用いる言葉の一つ一つが言語圏と表裏一体をなしている歴史と生活体系の総体に根ざしているのであり、その結果、一つの言語を発し、もしくは一つのセンテンスによって他者を呼び、あるいは事物を指示すること自体がその歴史を含んだ生活体系の中で否応なしに強いられる体験の一つにほかならず、したがって、異質な体験によって自分の存在の根のこまかな末端まで洗われざるをえないということになる。この場合、自分の存在は、鋭敏となった感覚とほとんど等価である。一つ一つの何気ないような日常的な体験さえもが存在の核心にひびいてくるのである。そのようであれば、自分が発する言葉の重みは、それが生まれた歴史の深みと生活を持って、自分がただ必要としたいその言葉の有用性を正確に背後からうちのめすのである。それを知っているのは観念ではなく感覚である。だから感覚は言葉が有用性のみで生きてはいないことを直接的に知らせてくれるのである。  私は、時おり、外国に住むということは、草木が移植される状態に似ているように思う。つまり有機的な感覚体験が存在全体をゆりうごかすということである。新しい土壌に存在のこまかな根の先が、おののきながら極端に微細な感覚と化してはいりこんでゆくのである。その場合、言葉を用いるということは、よきしにしろあしきにしろもっとも確実な手ごたえを与えてくれる。  森有正の言い方にしたがえば「犬(いぬ)」は「犬(シャン)」とちがうのだという意味において、指示された視覚的には同一に見える事物や存在が言語圏の相違によって全くちがったものになるということである。その上、用いられた言葉は、たとえ日常的な些細な買い物であっても表面的な有用性において生きたのであってリアリティがあるわけではない。さながら符牒のような役割を果たしたにすぎない。そのように考えてみると、われわれは単純な言葉の背後にあるはかり知れない深みをあらためて気づかずにはいられない。言葉は幾層となく積み重なった過去のそれ自体の歴史と、その言語圏の生活体系の頂点に露呈しているのだということを感ずるのである。  このような体験は同時に次のようなことを示してくれる。つまり、その単純な言葉の深みを知るということが、逆に知覚したこの「私」なるものの実体をほとんど等価にあらわしてくれるということを。言いかえれば「私」とは遥かな歴史の集積の上に露呈し、個性という名辞で呼ばれた一つの輪郭をもつ存在にすぎないということである。「私」のなかに流れこんでいる「私」の住んでいた言語圏の歴史や生活体系の一切がこの「私」においてあらわれているという意味においての「私」なのだ。「私」とは無限に複数の「私」の前に生きた、そして「私」とともに生きている存在たちの集約としての「私」なのである。「私」は話している。そのことは同時に無限に複数の、通常的な「私」と共時的な「私」によって話されているのである。リルケルは『初期詩集』のなかで次のように歌っていた。   ぼくはひとりだったためしはない。   ぼくより前に生きて、   ぼくより先に別れてゆこうとした人々も、   ぼくという存在のなかに   生きていたのだ。………   ぼくには空間が必要なのだ、   一族全部が生きるに足りるほどの空間が。  このとき「私」という一つの名前を持ち、一つの顔立ちをした片々たる個性というものに何ほどの意味があるだろうか。われわれが外国に住んで見出す最初のものは、外の世界よりも実はこのような「私」ではないだろうか。しかし、もしこうした「私」を見出したならば、その「私」とは、たとえいかに矮小な存在ではあっても、外国のことなった言語圏の歴史とその生活体系の総体に優に匹敵しているのであり、拮抗している存在だ、とも言うことができるのである。われわれはこのようにして、外国の体験の一つ一つがわれわれの内部を掘り下げ、一個の「私」を突きぬけてかぎりなく字間の彼方にひろがる世界を開示してくれるのだということを理解する。「私」とは一個の「私」である以上に「私」の属する言語圏の歴史や生活体系そのものであり、伝統であるとも言うことができる。換言すれば「私」はヨーロッパならヨーロッパの内部に入りこんでゆくことができる。そしてこの行為が、あらためて、はじめてのように見出された「私」の内部に下降するようにと促すのである。

  • この文章の要約がどうしてもできません…

    この文章の要約がどうしてもできません… 長文で大変申し訳無いのですが、教えていただけると助かります ここに一人の人間がいたとする。彼が自分の属している言語圏から出て全くことなった言語圏に入ってゆくとしたらどういう変化が生じるのだろうか。それは、移り住んだ言語圏の言葉を多少知っていて、それを組み合わせ、あやつりながら生活するという程度ではは終わらない。彼の用いる言葉の一つ一つが言語圏と表裏一体をなしている歴史と生活体系の総体に根ざしているのであり、その結果、一つの言語を発し、もしくは一つのセンテンスによって他者を呼び、あるいは事物を指示すること自体がその歴史を含んだ生活体系の中で否応なしに強いられる体験の一つにほかならず、したがって、異質な体験によって自分の存在の根のこまかな末端まで洗われざるをえないということになる。この場合、自分の存在は、鋭敏となった感覚とほとんど等価である。一つ一つの何気ないような日常的な体験さえもが存在の核心にひびいてくるのである。そのようであれば、自分が発する言葉の重みは、それが生まれた歴史の深みと生活を持って、自分がただ必要としたいその言葉の有用性を正確に背後からうちのめすのである。それを知っているのは観念ではなく感覚である。だから感覚は言葉が有用性のみで生きてはいないことを直接的に知らせてくれるのである。 私は、時おり、外国に住むということは、草木が移植される状態に似ているように思う。つまり有機的な感覚体験が存在全体をゆりうごかすということである。新しい土壌に存在のこまかな根の先が、おののきながら極端に微細な感覚と化してはいりこんでゆくのである。その場合、言葉を用いるということは、よきしにしろあしきにしろもっとも確実な手ごたえを与えてくれる。 森有正の言い方にしたがえば「犬(いぬ)」は「犬(シャン)」とちがうのだという意味において、指示された視覚的には同一に見える事物や存在が言語圏の相違によって全くちがったものになるということである。その上、用いられた言葉は、たとえ日常的な些細な買い物であっても表面的な有用性において生きたのであってリアリティがあるわけではない。さながら符牒のような役割を果たしたにすぎない。そのように考えてみると、われわれは単純な言葉の背後にあるはかり知れない深みをあらためて気づかずにはいられない。言葉は幾層となく積み重なった過去のそれ自体の歴史と、その言語圏の生活体系の頂点に露呈しているのだということを感ずるのである。 このような体験は同時に次のようなことを示してくれる。つまり、その単純な言葉の深みを知るということが、逆に知覚したこの「私」なるものの実体をほとんど等価にあらわしてくれるということを。言いかえれば「私」とは遥かな歴史の集積の上に露呈し、個性という名辞で呼ばれた一つの輪郭をもつ存在にすぎないということである。「私」のなかに流れこんでいる「私」の住んでいた言語圏の歴史や生活体系の一切がこの「私」においてあらわれているという意味においての「私」なのだ。「私」とは無限に複数の「私」の前に生きた、そして「私」とともに生きている存在たちの集約としての「私」なのである。「私」は話している。そのことは同時に無限に複数の、通常的な「私」と共時的な「私」によって話されているのである。リルケルは『初期詩集』のなかで次のように歌っていた。 ぼくはひとりだったためしはない。 ぼくより前に生きて、 ぼくより先に別れてゆこうとした人々も、 ぼくという存在のなかに 生きていたのだ。……… ぼくには空間が必要なのだ、 一族全部が生きるに足りるほどの空間が。 このとき「私」という一つの名前を持ち、一つの顔立ちをした片々たる個性というものに何ほどの意味があるだろうか。われわれが外国に住んで見出す最初のものは、外の世界よりも実はこのような「私」ではないだろうか。しかし、もしこうした「私」を見出したならば、その「私」とは、たとえいかに矮小な存在ではあっても、外国のことなった言語圏の歴史とその生活体系の総体に優に匹敵しているのであり、拮抗している存在だ、とも言うことができるのである。われわれはこのようにして、外国の体験の一つ一つがわれわれの内部を掘り下げ、一個の「私」を突きぬけてかぎりなく字間の彼方にひろがる世界を開示してくれるのだということを理解する。「私」とは一個の「私」である以上に「私」の属する言語圏の歴史や生活体系そのものであり、伝統であるとも言うことができる。換言すれば「私」はヨーロッパならヨーロッパの内部に入りこんでゆくことができる。そしてこの行為が、あらためて、はじめてのように見出された「私」の内部に下降するようにと促すのである。

  • 人間のクズと聞いて黙ってることはできませんでした

    私は精神障害者であり、社会復帰施設の訓練に参加している者です。 その施設であった出来事なのですが…その時、私は先輩Aさんと先輩Bさんと 同じ部屋にいまして、突然Aさんが「我々、障害者は働かないで国民の税金で 生きてる人間のクズだ」と言いました。それを聞いたBさんは「その言葉は 無いんじゃないの」と注意しましたが、それでもAさんは障害者を侮辱するよう なことを言うので、私は黙っていることができずに「それじゃあ、戦争とかで 手足を失って働けない人はどうすれば良いんですか?あと、障害者でも 苦しい体調と闘いながら就職活動している人の立場はどうなるんですか? “人間のクズ”というのはすごく重たい言葉だと思います。控えてください」 と叱りました。そうしたらAさんは薄笑いを浮かべながら謝りました。 基本的に私はAさんとは仲が良いのですが、さすがに人間のクズという 言葉については黙ってることはできませんでした。私の怒りは間違ってますか? ちなみにAさんはいつも口癖のように「障害者は頭がおかしい」と 呟いてます。知り合いの話しだと、Aさんは子供の頃、集団暴行を 受けたことがあり、それがAさんを屈折させてしまったのではないか? という言葉もありました。気の毒な点もあるでしょうが、明らかに 人を傷つけることについては、注意すべきだと思って発言したつもりです

  • エッチで愛が大事、必要と言う人が居ますけれどもどの

    エッチで愛が大事、必要と言う人が居ますけれどもどの様な事柄の愛でも快感があるからだと思うんです。 なのでエッチで愛が大事、必要と言うのは本質で綺麗事無しに言えばエッチの愛=快楽という事になりませんか? そして綺麗事、本質は関係無くエッチでの愛、愛し合うという言葉の意味、内容とは快楽、気持ちよさのことで、お互い気持ちよくなることが愛し合うということでいいんですか? 細かく1つ1つお答えしていただきたいです。 よろしくお願いいたします。 雑な答えはやめて頂きたいです。 真面目に質問しているので

  • 「冷たい人間だ」と言われそうで苦しいです。

    「冷たい人間だ」と言われそうで苦しいです。 私はAさんと将来を約束していました。 私はAさんが飲んでいる時に言った「××さんが好きだった。」という言葉を真に受け、Aさんを生涯ただ一人の伴侶と思えなくなりました。 私は面白い話をするBさんのことも好きでした。 私は飲み会でBさんのそばに座ることが多く、 Aさんのことが嫌いになっていました。 私に嫌われていると思ったAさんは、 他の女性とお付き合いを始めました。 Aさんは真っ青な顔で、皆の前に(私に似た彼女)を連れてきたのです。 「この人とお付き合いをしているから、zkai4はBさんとお付き合いをしていいよ。」とでも言いたそうでした。 私がBさんとお付き合いをしやすいように、Aさんから身を引いてくれたのです。 私はAさんの犠牲心に心を打たれてしまい、Bさんのことを忘れるようになりました。 Bさんに熱を上げていたことが嘘のように霧散してしまいました。 Bさんのことを忘れるようになりましたが、彼女ができたAさんとお付き合いをしたくありませんでした。 私はA・Bさん両方と疎遠になりました。 質 問 私はA・Bさんに再三お付き合いを申し込まれています。 私はAさんに幸せになってほしいと思います。 私はAさんとお付き合いをしたほうが人間らしい心でしょうか? もし、Aさんとお付き合いをしなければ、「冷たい人間だ」と言われそうで苦しいです。