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英文法に頼らない勉強法?

現在学校で教えている英語の勉強法では使える英語は身につかないなど、英文法中心の学習を批判する声はよく耳にしますが、実際問題、大学試験に文法問題とカテゴライズされそうな問題が少なからず出題される現状を踏まえると、どのような勉強法がより良いものであるとお考えでしょうか? オーラル中心の勉強が言語学習の基本なのかなとはなんとなく思っているのですが、それでは現状の大学試験に対応できるとは思えないのです。関係詞の使い分けなどは留学から帰ってきた友人(英語での会話のリズムは流暢?です)もあやふやなのですから。あくまで今の大学試験の内容を踏まえると、文法中心の学習は仕方のないものであり、学校で英語を教える先生方が批判されるのは筋違いなのでしょうか? もし代替学習法があればご教授お願いします。

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回答No.5

Gです。 こんにちは!! いいところをついていると思いますので私にも書かせてください。 特に私はこのカテで「文法」と言う単語を使って「文法学者さんのように」とか「学校・試験文法」というものを批判しつ続けていますので、時にして「誤解されてしまう」時があるのかもしれませんね。 >現在学校で教えている英語の勉強法では使える英語は身につかないなど、英文法中心の学習を批判する声はよく耳にしますが、 とは言っていないのですよ、少なくとも私は。  文法なしで外国語をみに付けることはほとんど無理と考えてもいいと信じていますし、文法は大切なものとして身につける必要は絶対にある、と言い続けているつもりです。 しかし、学校文法が分かれば英語を使いこなせる様になる、とか、専門用語を立て続きに使われて分かったような気持ちになるのは、かえって効率の悪いものになっている、と言う事なのです。 >実際問題、大学試験に文法問題とカテゴライズされそうな問題が少なからず出題される現状を踏まえると、どのような勉強法がより良いものであるとお考えでしょうか? 試験に出る文法問題に要求された通りにこたえられると言う知識が試験では必要だと言う事なのです。 それ自体、実際に使えるようになるかと言うと疑問なのですがおっしゃるとおりこのような試験文法の知識は必要ですよね。 私はこれが理由で多くの人たちがせっかく英語を習う機会を中学・高校と6年間与えられているのにもかかわらず実際には使えないと言うのは可愛そうだ、と言います。  しかし、このように実際に使えるようになることにはまったく反映されない知識は試験を受ける必要のない人たちや基本的な文法能力がある人たちにはまったく必要のないものだと言っているのです。 その「文法知識」と呼ばれている例はもう他の方々が書かれているので必要ないと思いますが、文章の意味合いが分かっているのにその品詞分類や文型などを「選択出来なくては英語力がない」と言う風に思わす事はまずいと思うのです。 必要のないことです。 専門用語とは教えるのに便利だから使うのであって、英語表現を作り出すと言う能動的な実力の向上にはまったくと言っていいほど貢献していないのです。 >オーラル中心の勉強が言語学習の基本なのかなとはなんとなく思っているのですが、それでは現状の大学試験に対応できるとは思えないのです。 それは「今のところ」正しい判断だと思います。  >関係詞の使い分けなどは留学から帰ってきた友人(英語での会話のリズムは流暢?です)もあやふやなのですから。 あやふやであるとしたらその人は英語力を留学中に身につけなかったと言うだけのことです。 しかし留学中に実際に使われる一般的な関係詞の使い方を使われるとおりに身につければあやふやな使い分けはしないはずなのです。 英語を使いこなせるようになる、と言う事は実は文法を自然に身につけてきていると言うことのなのですね。 能書きだけの知識をとことんまで奇麗事として言うけど実際に英文を作らせて見るとおかしな意味の通らない英文を作ってみたり、一般に使われている文章の解釈を間違えていたりする事実を目にすれば能書きだけでは英語力はつかないと言う事は明白なのです。 >あくまで今の大学試験の内容を踏まえると、文法中心の学習は仕方のないものであり、学校で英語を教える先生方が批判されるのは筋違いな のでしょうか? ここには問題点があるとは思えません。 文法を中心に教えてもいいのです。 しかしその文法は実際に使われている表現を使えるように教える文法中心に教えればいいと言うことに過ぎないのですね。  その使える、と言うことが、試験で使えるようになる,と言うことであれば、学生にとっていい事となる「宿命に」が日本にはあるのですから、仕方ないのです。 この仕方ない、と言う表現は、ビジネスで英語を使いこなさなくてはならない人であれば、ビジネス的表現力をつけなくてはならない、勉強しなくてはならないと言うことであり、日本語でも同じく、「仕方ない」と言うのと同じレベルの「仕方ない」のです。  私は、ご存知かもしれませんが、これを社会文法と言う表現をしているます。 つまり、英語が使われているいろいろな社会で必要な文法的知識をそれぞれ身につける必要さえあると言うのです。 試験で知らなくてはならないのであれば試験の社会での社会文法を、ビジネスであればビジネス社会文法を、また、専門的な業界ではその業界での、専門用語だけでなく、一般単語を特殊な意味合いで使われているその業界での業界文法を知る必要があるわけです。 その業界で「認められる」には一般社会文法だけでは無理なのです。 sの業界の経験なしでは辞書も足しにはならないでしょう。 そして私は、試験文法・学校文法では一般社会文法にも達していない、と言うわけです。 状態動詞なんていう専門用語を試験・学校文法で作ったのは、なぜでしょう。 進行形に出来ない動詞群、としたかったのでしょうね。 でも、天下のマクドナルドがいっぺんに壊してしまいましたね。 (実は実際にはマクドナルドが言い始めるずっと前に状態動詞と分類された動詞を進行形にして使って特別なフィーリングを出すために使われていたのです) さて、この状態動詞と言う用語が今では必要なんでしょうか? 昔みたいに、専門用語を知っていると何か英語を知っているように見えたのは単なる虚像だったと言うことが証明されつつあるのです。 40年前、英語の教師を「疑った」事があるでしょうか。 15年前に、「しゃべれない英語教師が英語を教えているのはおかしい」なんていった人がいたでしょうか。 英語のクラスの優等生は、別にしゃべれなくても、聞き取れなくても、誰もおかしな英文を作っている、なんて誰も知らなかったのです。 気がつかなかったのです。 そして、英語を使えるようになるにはどうしたらいいのでしょうか、と言う質問に「中学で習う英語をみっちり身につけてください」と言う回答が出てくるようになったのですね。 英語を身につけるために必要な「基本文法」をちゃんと学校で教えてくれている、教科書には書いてある、という事だからなのです。 つまり、学校ではちゃんと英語を使えるようになる一般文法とそして試験のための試験文法が混じっているので、それを判断する事で、必要のない「文法知識」と呼ばれているものは使えるようになりたい人には時間の無駄だと言うことになるのです。 そして、更に皆さんがおっしゃっているように、「学校・試験文法問題」の出し方にも問題そのものが存在するわけですね。 特に用法を区別させるような問題は、その用法の内容を知っているのかどうかを判断するためのものではなく、その用法自体を覚えさせる教え方になってしまっているわけですね。 解釈の仕方、意味合いは同じだけど解釈に仕方が違う、に違いがあるのは仕方ないでしょう。 一つの解釈方法があるわけではないのですから。 いろいろな解釈方法を知ることはいい事だとは思います。 しかし、自分が持っている用法解釈が絶対的なものである、と言い切るのには疑問があります。 一般的ですといいながら実は使われていない表現方法であればそれはおかしいと言わざるを得ないでしょう。 残念ながらと、と言っていいともいますが、このサイトでは間違ったことでも「指摘する事は禁止されて」います。 この「このサイトの弱点」とも言えるルールは仕方ないのです。 きれいにこのサイトを運営するにはこのルールが必要と決めたからですね。 指摘する表現方法は「この社会文法に反している」ともいえるわけです。 She don't careは学校・試験文法では「ご法度」なのです。 いくらこの表現がビートルズによって彼らの育った社会ではOKでも「バツ」を食うのです。 そしで「アメリカの一般社会」でも、もちろん「ビジネス社会」でも「正統派社会」でもバツとなるのです。 そのバツが「教養がない」とされる判断ですね。 そのバツが「堪える」ものであればいいでしょう。 しかし普通の人であれば、あえてバツを受けようとはしないのです。 自分は自分と言い切って、古い感覚を持っている両親が恋人の両親であれば、その人の表現自由はあるでしょう。 しかし、バツを食うか食わないかはその人の判断ではなく両親なのですね。 普通の人であれば「俺よぉ、あんたの娘っ子を俺のものにしたいんよ、いいよな」と言う表現を選択する人は普通ならいないでしょう。 これを「使い分ける」「使いこなす」事が出来る表現力をもて、と私は言うのです。 丁寧な表現がいつも「正しい」とは限らないのです。 友達同士、特に親友同士であれば、それなりの「親友社会」で「認められている社会文法に沿った」表現をすることで、親友である事の証ともいえるようになるわけです。 しかし、その親友が違う「親友文法」を持っていれば親友人あるまでの過程からそんな表現をした相手には心が伝わるか分かるわけですね。 砕けた表現は試験文法では見て目ないのかもしれませんね。 試験文法から見ればおかしい表現だとするわけです。 しかし、一般的に使われている表現がが試験文法に沿っていないからと言って文法的には間違っている、と言う表現自体がおかしいと感じる人が増えてきている理由でもあります。 逆に、文法的に間違っているけど一般的に使われている、と言う表現をいまだにたまに診ることがありますが、これ自体おかしいですよね。 あくまでも試験文法と言う社会文では間違っている、と判断しているだけの事なのです。 私の親しい異性友達でいまだに「お前」と呼ばれることに違和感を感じる人がいます。 しかし、呼び捨てはまったく問題ありません。 この理解の下で、XXXさん、と言ったら、その人は、それこそ違和感を感じ「何かあったの」と思われるでしょう。 そして、その人のご両親の前ではxxxさんと私は言います。 それが私が個人的に持つ自己文法なのです。 その人個人がうまれてからみにつけてきたことで、どんな表現文法を使うべきか判断する文法力ですね。 その自己文法が間違って使われたら、つまり、その状況での社会には合わない表現をすると言うことを知らないで使ったら、「バツを食う」わけです。 だからこそ、試験英語でも「過去の試験問題を吟味しろ」と言うアドバイスが出てくるわけです。 なぜなら「その学校の基準」と言うその学校で使う試験文法と言うものも存在する事を知っている人たちがアドバイスするわけですね。 学校で習うからおかしいとか正しい文法を教えていない、と言う判断は間違っているのです。 そして私の教え方には、これは~文型ですから~です、これは~用法だから~です、と断言されても、初学者にはためになっていないと言う「英語教育文法」があるとするのですね。 どうせ教えるのであれば、何でそう判断できるのかを教えてあげなきゃ、と言う考えを私は持っているのです。 私は、"Give a man a fish, and you feed him for a day. Teach a man to fish, and you feed him for life."と言う教え方を心がけて一生使える土台作りをしてもらいたいと思っています。 どんな言語でもマスターする事は出来ません。 しかし、自分をそれに近づける事は出来ると信じています。 これは、私が教える空手、護身術、そしてモチベーションの身につけ方に私のすべてを出している理由でもあります。  だからこそ、英語を使えるようになるためには効率が悪いか実際に使えないものを文法と言う名を借りていかにも絶対的なものとしてイメージ作りしてやまないのはただ犠牲者を作り上げているだけだ、と言うことになるわけです。 実力を判断できない資格をとことんまで実際に使える実力と、そして、試験だけに使える試験文法を差別をするGからの回答でした。 試験を受けなくてはならない学生をかわいそうだと思うと同時に、実際には使えないのに文法とよんでいるものが絶対的だと信じ込まされてしまっているのに気がつかなくおかしな、あるいは極端な場合には通じない英語表現に違和感を感じない人たち(文法学者さんたちと私が呼んでいる人たち)は本当にかわいそうだと思います。 彼らこそ実は日本の英語教育の犠牲者であり、間違ったことを間違っていると言ってくれなかった社会で育った人たちであるわけですから彼らこそ可愛そうな人たちなのです。(皮肉ではなく) 使える英文法、これが今日からでも日本の英語教育に教えるべき文法であり、試験もそして先生も改革的変化を要望するわけです。 参考になりましたでしょうか。 分かりにくいところがありましたら締め切る前にまた書いてくださいね。

i-tad
質問者

お礼

今回も懇切丁寧なご意見ありがとうございます。 >専門用語とは教えるのに便利だから使うのであって、英語表現を作り出すと言う能動的な実力の向上にはまったくと言っていいほど貢献していないのです。 >「使い分ける」「使いこなす」事が出来る表現力をもて >Give a man a fish, and you feed him for a day. Teach a man to fish, and you feed him for life などなど、大変参考になりました。ありがとうございます。

その他の回答 (4)

noname#51595
noname#51595
回答No.4

英語を覚えるのに文法への依存度は↓の質問によると、5段階に分けられます。現在学校で教えている英語の勉強法はレベル4のクラシカルメソッドになります。そして、文法に殆ど頼らないならレベル2のエレメンタリーメソッドになりますが、この方法では大学試験には対応できません。一番いいのは レベル3のスタンダードメソッドですね。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3364286.html?ans_count_asc=20 さて、現在学校で教えている英語の勉強法には↓の質問にあるような問題も出て来ると思います。つまり、文法で体系的に説明したつもりでも、生半可に利発な生徒には釈然としない部分が残ってしまいます。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3341076.html ここで忘れてならないのは、現在学校で教えている英語の勉強法にも勿論問題がありますが、英文法中心の学習を批判する声にも問題があることです。一つは 英語の教材や本の業者ですが、文法を蔑にしてフレーズを覚えたところで応用が利きません。もう一つは 現在の教育を批判することだけが目的で、現在学校で教えている英語の勉強法を槍玉に挙げるだけで何ら建設的な提案を出さない連中です。 結論から言えば、文法はある程度必要です。しかし、余計な部分も多いわけです。それでは一例を。 (1) 5文型: SVOの構文も進行形にすると SVCになるので混乱の元です。 (2)不定詞の用法分類: 例えば where to sleepの to sleepが何用法になるのか詮索しても仕方あまません。 (3) 仮定法:仮定法の構文は覚えるべきでしょうけど、何とも釈然としない用語です。先ず、「法」の観念がきちんと教えられていません。 「法」には「直接法」「命令法」「不定法」「仮定法」があるわけですが、「直接法」は最も基本的な「法」だけに何ら言及されないでしまいます。次に「命令法」は「命令形」として習います。次の「不定法」は 「不定詞」として扱います。そして、最後の「仮定法」は動詞の「叙法」を指すのか、構文を指すのか曖昧です。

i-tad
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >結論から言えば、文法はある程度必要です。しかし、余計な部分も多いわけです。 大変参考になりました。

noname#125540
noname#125540
回答No.3

>英文法中心の学習を批判する声はよく耳にしますが、 いや、最新のトレンド(?)は「使える英文法」ですよ。 ただ、「この文は第何文型か答えよ」という風な使い方はしないんでしょう。 文法も使い方次第です。 http://www.amazon.co.jp/%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E7%BF%927%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%A7%A3-%E7%94%9F%E6%B4%BB%E4%BA%BA%E6%96%B0%E6%9B%B8-229-%E5%A4%A7%E6%B4%A5-%E7%94%B1%E7%B4%80%E9%9B%84/dp/4140882298 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4141892750 http://www.ascom-inc.jp/book/2007-11981-01.html 他の本で読んだ話では、会話ばかり注視して読み書きが足りない、という話。 結局それが弱いと、上級英語にはなれないから、と。 大学入試は大学入試で、それ用の勉強があるんでしょうね。テストとしての。

i-tad
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >他の本で読んだ話では、会話ばかり注視して読み書きが足りない、という話。結局それが弱いと、上級英語にはなれないから、と。 大変参考になりました。ありがとうございます。

  • KappNets
  • ベストアンサー率27% (1557/5688)
回答No.2

私は昔の英語教育を受けたもので、今の会話重視の風潮にはやや疑問を感じています。 昔何を重視しかかといえば、まず単語力。私の高校時代の副読本(Animal Farm)は今なら大学の副読本だそうです。1ページあたり20もの新単語に面食らいましたが、今となればよい思い出。就職後には Neesweek を読みましたが、必要なのはやはり単語力。今読むペーパブックの長い文章を読み解く読解力。今でも自分に足りないのは単語力と思っています。会話でも文章でも知らない単語が出てくればある意味アウト。 文法は必要です。ただし文法ばかりやったって読解力はつかない。読解力さえあれば、文法は読みながら自然に身ににつく分だけでも戦える。関係詞は読解の中から感覚が養われる。

i-tad
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >ただし文法ばかりやったって読解力はつかない 確かにそうですね。大変参考になりました。

  • jayoosan
  • ベストアンサー率28% (929/3259)
回答No.1

>>大学試験の内容を踏まえると、文法中心の学習は仕方のないものであり、学校で英語を教える先生方が批判されるのは筋違いなのでしょうか? 批判があるのは、そこではないのだと思います。 学校の英語なら「学校英語」や「受験英語」(他の表現でもよいですが、ある特定の場面での英語)とカテゴライズされてもおかしくない英語であることを、双方が認識しているのであれば、問題も軋轢もないと思います。(双方とは教える側も、教えられる側も。ただし、人とは限らず組織も含まれる。) しかし、多くの場合「それが英語」であると、あたかも全体像のように語られたり、また「(日本で教えているのは)正しい英語」であるというような表現(もしくは幻想)を用いて語られるとき、それらが正しくは見えない海外経験者、実務経験者がいるのです(英語はアメリカ英語だけではないし、また英米豪などネイティブ圏だけの言語でもなく、更にはビジネスなど実務で使われる英語、特殊表現が存在する)。 彼らから、(その正しいと言われているものが)実は間違っている、そうは言わない、などの逆指摘がでているのです。ネイティブが受験のテキストをみて、こんなのは言わないというものが、日本の英語にはあります。 また、日本の英語メソッドと海外で変化している英語のギャップもあることを彼らは知っています。しかしメソッドは変化がなかなか起こりません。 (ズレは日本語にもあります。中学高校で教わる学習としての日本語〔で習った活用など〕と、海外で日本人教師が外人におしえる日本語のメソッドが同じコンセプトではないこと。また、日常の日本語も変化し、国内辞書なども変化をよぎなくされていることなど)。 学校英語を教えている、受験に必要なものとしての英語である、というのであればいいのだと思います。

i-tad
質問者

お礼

回答ありがとうござます。 >学校英語を教えている、受験に必要なものとしての英語である、というのであればいいのだと思います 大変参考になりました。

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