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「大人」とは?
年が明けると、皆さんもまたひとつ年を取るわけです。 そこで「大人とは何か」という質問です。 もちろんこのカテに質問した以上、一筋縄ではないお答えを期待してのことです。 「大人」とは、というと、社会的な側面、生物学的側面からのアプローチが主になるのだと思いますが、そうではなく、もっと掘り下げてみたいのです。 例えば河合隼雄氏のいう「思春期性」ということは、実際には最早「思春期」ではないからこその言葉といえるでしょう。 実際には「大人」という概念は「社会的」概念として限定されるものなのかもしれません。「大人である」とか「大人でない」というのは社会通念との単なる比較でしかなく、そうすればこの質問の意味もないわけですが・・・ 「妥協することを知る」「諦めることを知る」「自分の限界を知る」 「自他への責任」「社会への貢献」「権利と義務の理解と遵守」 「種の保存」「自由と責任」・・・ このようにわたしでも思いつきそうな定義は「大人」に対する「子供」という対概念から導き出されたものです。 大人と子供それを矛盾物として対立させるのではなく、手がかりとして実り豊かな思索の時をもとうという意図です。 できれば子供と対概念としての「大人」像ではなく「子供」の類概念としての大人像を提示していただければと思います。 「大人」と「大人である」というのは何か違うのか? 紋切り型でないご自由に発想を広げて「あなたの大人像」をお聞かせください。
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使い古しの杵柄を振り上げることに我ながら辟易とする部分もないではありませんが、pokochan2さんの求める大人とはあくまでも超自我的存在としてのもの。 一般的な大人とは自我的要素が比較的濃厚なもの。 という暗黙の?了解がすでにできあがっているような印象を受けます。 人間はモラトリアム状態のまま大人になり得るか、といったご質問の意図と解釈することも可能なのかもしれません。 そこで本題ですが、極端な例として、超自我的要素のみの人間を大人と認める人はいない(「大人」とは所詮他者による評価に過ぎませんから)でしょうが、逆に自我的要素のみの大人というものは(嫌な存在としてではあるが)存在する(「大人」としての評価を受ける場合がある)ように思います。 このへんは色々あるところでしょうが、少なくとも他の生命を犠牲にすることによって成立しているのが人間であることを思い返してみれば、この後者の評価は、超自我的感情としては不満足であっても成立せざること能わず、といったところでしょう。 ここは基本線として絶対的に外せない要素と言えます。 とはいえ、強欲さの権化のような人を大人とはなかなか言いづらいという感覚も我々は併せ持つわけで、結果として、 超自我的要素がある段階にまで確保されており(または更新されつつあり)、それでいながら、あくまで自我的要素がわずかながらも上回っている人。 これを「大人」と勝手に認定させていただきましょう。 「大人度」は、一応、超自我的要素の希求度に比例する構図にはなっていると思います。
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- bananasand
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あけましておめでとうございます。 御質問を読んでキーワードとして「経験」が浮かびましたね。 ちょっと論点がずれるかもしれませんが、ざっくりと経験前、経験後だと思うんですね。ここで経験とは単なる体験ではなく、痛みを抜けた経験であってそれによってある種の耐性を獲得したことも含まれます。 この経験の量と質の総量によって、良くも悪くも相対的に大人側に染まってゆくのでしょうね。 究極的に「大人」とは、究極の困難にさえ耐性がある人間と言うことでしょうし、「大人である」とは、たとえこの耐性がなくとも、耐性がなければならないとの理想を掲げて無理しても対抗行動をとるということのように思えます。
お礼
>この経験の量と質の総量によって、良くも悪くも相対的に大人側に染まってゆくのでしょうね。 経験による耐性ですか。 しかし私もそうですが、負の経験の蓄積によってかえって身動きが取れなくなってしまっている場合もあります。 つまり「負の学習」とでもいうのでしょうか・・・ >「大人である」とは、たとえこの耐性がなくとも、耐性がなければならないとの理想を掲げて無理しても対抗行動をとるということのように思えます う~ん。そうか・・・ 大人になれないとどうなりますかね・・・ 論点云々に関しては私はいろいろな角度からのお答えをお聞きしたいので、 ピンと来たことをぶつけてくだされば構わないのです。 ご回答ありがとうございました。
「大人」という言葉は、基本的に生物学的観点を中心にして理解され、社会的人間の概念として見られていますね。 そこでは、やはり日本人の場合、「大人であれ」という暗黙の啓蒙は実質的に規範的な意味を帯びてきます。それがあなたの自由とか責任とか、権利とか義務という問題です。でもこれは子供との対概念・類概念として見れるものではないですね。どちらかというと、年齢に伴う知力の向上にしたがって、社会的責任を担うということでしかないからです。 この意味での大人と似た言葉、ほぼ同義語に近い概念は「社会人」というものです。でも実はこの社会人というのはかなり日本だけの考え方なのです。日本での社会人とは、自分で働き、自分で飯を食って、それなりに社会的責任を負う(税金払う)人間というくらいの意味でしかない。こうすれば大学院などはまだ大人になりきっていないとみなされるわけですが、アメリカではそうではありません。 いずれにせよ、確かにこれらの発想は「子供」と「大人」を対概念として設定しているところがあるといえばないわけでもありません。つまり、未熟と成熟という発想にあるわけです。たしかにこれは十分に疑う余地があるところです。具体的に考えてみれば分かるとヒントが見つかると思います。 でもやり方は2つあると思います。 (1)子供の未成熟論を批判し、子供特有の有能さを再評価した上で、むしろ大人成熟論を批判的に見ていく。 (2)子供と大人の普遍的・共通的要素を抽出する (1)なら、例えば好奇心というのはおもしろいように思います。もちろんこれは子供の特権ではありませんが、大人以上に子供の好奇心のほうが目をみはるものがあります。これは心理学的に見れば、それなりに得るところがあるかもしれません。ほかにも子供の時に強い心理学的要素があります。そして大人になって失われがちなものとして考えることもできるでしょう。 あとどちらかというと社会学かもしれませんが、「遊び」です。遊びの要素というのはかなり重要な発見や思索を含んでいるのではないかという研究があります。いわゆる大人になると、それが失われていくという過程があります。 (2)はかなり難しいと思います。表面的にはいくらでもいえますが、さてどういう問題性や良い視角が生まれるかといえば、どうも怪しいので。
お礼
お答え・・・というか興味深い問題提起をしていただきありがとうございます。 確かにこの質問でもニュアンスとしていちばん近い言葉は「社会人」かもしれません。 先日の朝日新聞のアンケートで、「あなたにとって大人(社会人だったかな?)とは?」という設問に「精神的自立」と「経済的自立」の2点が挙げられていました。もともとの質問が2択だったのか不明ですが、 あまりに大雑把という印象です。 >(1)子供の未成熟論を批判し、子供特有の有能さを再評価した上で、むしろ大人成熟論を批判的に見ていく。 これは面白い視点ですね。 殊に「大人」と「社会人」を同義語と考えれば、一般社会は「大人」とか「社会人」というものに対して極めて狭い定義しか持ちえていないといえるかもしれませんね。わたしは大人や社会人に「鋳型」や「歯車」「不自由」 というような定義以上の積極的な意味を見出したいのですがね。 極論すれば社会システムにより量産される「粗製濫造品」ではない「大人像」とは・・・ 「未成熟」を悪とし「成熟」を善とするのも社会の都合に他なりませんからね。 わたしとしては「社会人」と同義語ではない「大人」というものを探りたいと思います。 MEMO 「反・非社会的な大人」とは撞着表現か?
- arayata333
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人間自体の小ささというか限界を知る(自覚する)ことは大人にも子供にもそのまま当てはまりそうで、けしてそれで子供との差とか対立点とかなさそうですよね。 でも経験が深くない人は、大人でも子供でもわからないことでしょうね。 猿から人間になった時、どこが一番進化したかを考えてみるのもおもしろいでしょう。 猿が 木から降りてこざるを得ない状況もあったようで 洞穴に身をかくしつつ二本足で大地を生き延びようとした時から脳はその生きる厳しさゆえにそれに対応すべく進化したという説もありますが、 それでもなお猿 と人間の脳との違いは、言葉以前から大きすぎると感じます。 よほどの何かの突然変異があったと仮定されます。 がゆえに、その進化した脳が言葉を獲得しさらに文化が生まれる形となったと考えられます。 が、猿と人間の脳の違い自体は 自他を「見つめる」能力にあるというのが、単純ですが明快な(笑)本質と、私は思っています。 生きることに追い詰められて生き抜いてきた生物の本能がここで始めて「自ら」を「見つめる」という能力を獲得したということです。 いぜん人間が本能とともにあり、その生きるきびしさの只中にありつつも、始めて質の一つ違う能力を「知った」のです。 仲間としての類の自覚ではなく ここに始めた人間としての「類」の自覚が起こります。 そこで最初に発見したのは、こころが見つけて はじめて「うれしくなった」のは、言葉以前にも「和」だったのではないかと 私は思ってもいます。 かどうかは、私は考古学にしてもまったく無知な肉体労働者(60歳ですが)なので知りませんが、 そんな気がしてしかたないですね。 人間の能力を始めて獲得した時に、きっとその森の中に人間は、同じように木漏れ日を見てる同じ「友」を始めて、言葉以前に見つけて、たぶんおもわずはじめて踊りだしたか 歌いだしたか、泣き出したか笑い出したかしたんだと思うんです。 動物ってあんなにあかちゃんよりは頭がよさそうなのにそれらのことが全部出来ないでしょ。 あかちゃんの脳も生まれたときは猿と同じ程度かもしれなくても、猿とはまったく脳の変化が違っていてそして、言葉を返しはじめ、そして、言葉以前にも笑いかけたりもするでしょ。 この原点、「和」の自覚にも 笑いにも涙にも大人も子供と差はないですよね。 でも経験の深さとか豊かさが其の自覚をより深めもします。 ただ、この「和」ですけど、わたしは「愛」という言葉にしても同じだと思うのですが、 文明社会の中ではその原点をむしろ忘れてそれは記号化されて伝わりすぎてるのじゃないかとも思う。 へたすれば、子供のほうがまだ、純粋に新鮮に其の「和」の原点を知っていたりすると思う。 人類だけにある笑いとか涙の「哲学」をです。 その原点の深みとして 本来の宗教やそれへの謙虚さとしての信仰とかがあると思うのですが、これも形骸化や権威をまとった真っ赤な嘘とかがまかりとおってしまっていて、 単純明快でないおばけのような複雑な何かに変身(笑)してしまってる感じですよね。 ほんとは、神と人間の知の質の違いを知り、謙虚になるために宗教があるのにね。 助け合えなくちゃ、もっと人間どおし、たすけあえなきゃとほんとに思います。 競争は、今なお精神にとって創造にとって必要だったとしても、其の分の情報時代の教育機会均等の質と量の深さ広さを問う。またそのために、自分がいかに無力であろうと闘い続けたい。 何も出来ないかもしれない、でも前に進み続けたい。進むしかない。そんな人間としての涙を持ってる。それが大人なのかもしれないと今は思える。 (とあるワーキング・プアーより。) 大晦日ですね。 [大人」の経験からのいい質問と出会えたなという感じです。 来年が すこしでもみんなが大人となれたらなとおもいます。
お礼
>大晦日ですね。 [大人」の経験からのいい質問と出会えたなという感じです。 そのように言っていただけて光栄です。 今年の最後に聞く人の言葉だと思います。 わたしは現在44歳で、実はこの質問も少々気恥ずかしい気持ちで投稿しました。「何を今更!」ってね(苦笑) 自己への眼差し。 経験の深さによる謙虚さ・・・ こちらこそとても素敵なお答えを頂き感謝しています。 ああ、間もなく新年ですね。 お元気でお過ごしください。 ご回答ありがとうございました。
お礼
こん○○は hakobuluさん。 仰るとおりです。 「人間はモラトリアム状態のまま大人になり得るか?」 これでよかったかもしれませんね。 #2さんのお礼欄でも述べましたが、「大人」=「社会人」ではないにせよ 「≒」の関係ではあるでしょう。では「大人」≠「社会人」という関係はあり得るのか?という疑問です。 >超自我的要素がある段階にまで確保されており(または更新されつつあり)、それでいながら、あくまで自我的要素がわずかながらも上回っている人。 これを「大人」と勝手に認定させていただきましょう。 ・・・もとより「正解」などあるはずもなく、何度も言うように回答してくださる方にとっての「大人」像をお聞きしたいので、このお答えは非常に私好みの回答です(笑) 敢えて言えば「理想の」大人像と言えるかもしれません。 ただ私は世の中斜に構えて見てるせいかもしれませんが、 >「大人度」は、一応、超自我的要素の希求度に比例する構図にはなっていると思います。 ・・・この部分などは「自我的要素の希求度」ではないのか?などと思ってしまうのですが。 hakobuluさんの言わんとしてるのは、つまり清濁併せ呑む、清濁併呑というイメージなのだと思います。 いや、併せ呑む・・・というよりも「併せ持つ」と言う方が正確ですね。 素晴らしいご回答ありがとうございます。 ただ、やはり、個人的にはこれは「理想の」或いは「稀なる」大人像だと考える次第です(笑)