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万人に示すことができるアドバイスとは何でしょうか?

私が長いこと思い悩み、未だ答えがでない問題です。 くだらない質問と思いましたら、どうぞ通り過ぎてしまってください。 私は昔から「正しいこと」を考えることに重きを置き、 人にアドバイスすることに生きがいを感じるような、 ありがた迷惑のような性格でした。 ですので「究極的なアドバイス」をずっとずっっっっと 探し求めてきました。 ここまで書いて「なんて抽象的な質問なんだ」と思います(汗 例えば ・人は自分の思う通りにせいいっぱい生きるべきだ ・自分の宗教を大切にするべきだ ・人類平等の実現を目指すことこそが正しい道だ などなど。 ですが当たり前のようにすべて矛盾に陥ります。 では、 ・矛盾に陥るのは当たり前。それでも人間は生きるべきだ …が一番のアドバイスでしょうか。 「万人にとって正しいアドバイスなんてものが本当にあれば 今頃は世界平和だ!」というご回答もあるでしょうし、 「アドバイスそのものが究極的にはエゴでしかない」という ご意見もあるかあるかと思います。 価値観によって変わるものだ、とも言えるでしょう。 しかし本当に万人にとって意味のあるアドバイスはないものでしょうか。 ご意見、ご回答お待ちしております。

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  • htx2005
  • ベストアンサー率25% (22/87)
回答No.10

#8 です 自分が書いたことには アドバイスをもらう>するという次元ではないかもしれませんね。 希求する回答が 要求者の生存することの情感の発露という 自分でコントロールできず かつ、言語領域で解釈も説明もつかない 一歩まちがえれば精神疾患へいたるような そういう、究極の状態にたいして 出来ることを想定しておりました。 この状態を、対象者は懸命に言葉で表層化しようと試みますが、 この試みに、言語で応えることが 解決に至る方法ではないと自分は考えております。 非言語(ノンバーバル言語)という分野がありますが この原初的でかつ直感的なコミュニケーション領域に、 質問者様のいう 究極のアドバイスの一端が、存在する可能性を 自分は示唆させていただきました。

noname#105425
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >非言語(ノンバーバル言語)という分野がありますが >この原初的でかつ直感的なコミュニケーション領域に、 >質問者様のいう >究極のアドバイスの一端が、存在する可能性を >自分は示唆させていただきました。 ありがとうございます。 確かに私の想定していた分野ではないので、 参考にして深く考えてみたいと思います。

その他の回答 (11)

回答No.12

ずばり、ということでいいのでしょうか。 それは、 「生きよ、そして謳え」 です。 小賢しい小理屈は囀ることの好きな暇人に任せておき、 各自がそれぞれのレベルで考え結論を出し、 手を動かし、足を動かし出せば、アドバイスの役割は終わります。 世界は解釈によって変わるのではなく 行動によって変わるのだという現実に気づかせれば アドバイスの役割は終わります。 「謳え」の解釈は各自に任せます。 ただし、万人に小学生低学年(とそれと同じレベルの人びと)が入っていれば、難しいのかも。 向かないか。

noname#105425
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 すみません。 私は小学生ではないですが、少し難しいようです。 ※ 今回、色々な方々にお答えいただき、 とても参考になりました。 率直にいって100%満足のいく回答が得られるとは 考えていませんでしたが、新たな発見もあり、 たくさんのことを教えていただきました。 お礼のポイントは皆様に差し上げたいのですが、 お二人にしか差し上げられないようなので、 少し答えにつまり深く考えてしまった方に決めました。 長い時間かけて付き合ってくださった方も いらっしゃって、感謝し尽くすことができません。 本当にありがとうございました。

noname#68005
noname#68005
回答No.11

 ANo.7お礼の返答です。求められている究極の助言が固定の一文でなくて、その言葉の意義を基点として問題に絡めた(キーワードとした)柔軟性のある言い分ならば、究極のアドバイスに成り得るのではないか、ということが仰りたいのでしょうか。本来の意図されていた回答と、ずれが生じてないだろうかという懸念は一先ず置いておきます。    確かにそれならば、多少の汎用性を得ると同時に、一般論よりは具体的な助言を与えることも出来るでしょう。ですがその場合、本来与えられる筈だった事柄に沿った回答の具体性がキーワードによって歪められてしまい、的確さに煙がまとい、簡潔さに欠け思考も狭まるという助言者にとって由々しき事態となります。助言をよくする立場なら尚更です。  そもそも例である「振られても勇気を出して再挑戦しなさい」というのは、個人的な心証ですが振った方が困りますし、色恋沙汰で執念深さを出させるのは高い可能性で失敗の要因になり得ます。こういう場合、下手に勇気という意義に縛られるのは好ましくないでしょう。  やはり個人的な見解としては万能薬など無く、事柄と人に応じて自身の頭脳から最適な道理を考え、相手に質問者様曰くのただしいやり方、合理的で被助言者の望みに近づけるような道理を説いてあげることこそが肝要で、そしてそれが出来る能力こそが、万人に示すことができるアドバイスを行える「助言者」としての礎となるのではないでしょうか。(最後かっこつけました)

noname#105425
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >本来の意図されていた回答と、ずれが生じてないだろうか >という懸念は一先ず置いておきます。 おっしゃるとおりだと思います。 皆様がくださる答えに「ぐらっ」と傾くことも何度か ありますが、そこで素直に受け入れてしまっては かえって失礼かと思い、必死に反論できる点を探しております。 >回答の具体性がキーワードによって歪められてしまい、 >的確さに煙がまとい、簡潔さに欠け思考も狭まるという >助言者にとって由々しき事態となります。 確かに簡潔さが損なわれるのは否めませんが、 「万能薬」であるならば簡潔である必要はないかもしれません。 なお「勇気を出して」は仮定のことですので、 内容に深い意味はございませんでした。 >事柄と人に応じて自身の頭脳から最適な道理を考え、 >~~…そしてそれが出来る能力こそが、万人に示すことが >できるアドバイスを行える「助言者」としての礎となる やはりここに帰結してしまうのでしょうか。 ※みなさんに多くの回答を頂いて大変参考になります。 ですが、ずっと考えてたので少し混乱気味と疲れ気味です……。 少し気が早いかもしれませんが、午前0時に締め切り、 その後まとめて、改めてみなさんにお礼なりを したいと思います。 どうぞよろしくお願いします。

回答No.9

No.5です。 「慈悲の心」は、「他人を思いやる心」といってもいいです。 智慧が必要です。 凡夫は利己ばかり求めていますが、無明(=事物を誤って認識すること)のために、 利己とは逆の結果=苦を得ます。 なぜなら、世俗の凡夫は、苦と楽、などについて、顛倒(=迷乱した考え)をもっているからです。 この迷乱のために世界が楽園でありません。 幸せに向かって努力していますが、地獄などを生み出します。 心が無明の深い闇に覆われているため、苦を生みます。 無明が引き起こす煩悩は、縁起で成り立つ世界を損ない、バランスを壊します。 これが苦を引き起こします。 無明を除くのは智慧です。 なので、本当は智慧が必要です。 1つではなく、2つなら「慈悲」と「智慧」になります。 ですが、究極的には「慈悲」と「智慧」は同じことです。 1つのことの2つの側面です。 これは仏教の真髄で、詳しく書けばきりがありませんが。 「他人を思いやる心」が究極の答えです。 自と他の幸せの原因となります。

noname#105425
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 十分詳しく書いていただいて恐縮ですが、 勉強不足であまり仏教に親しんでいないため、 的確には把握できません。 おそらく深く仏教に関われば、 そこに答えの端緒を見つけられるのかもしれませんね。 今後の参考にしたいと思います。 ありがとうございました。

  • htx2005
  • ベストアンサー率25% (22/87)
回答No.8

#1,#4です >では例示されている親や近しい者など、 >限りなく厚い信頼関係で結ばれている者ならば >どういった「究極のアドバイス」を与えられるのでしょうか。 たとえば、自分がアドバイスされる側だとして、 近しい者から何か答を得たい状況だと仮定すると、 要求することはアドバイスといいながら、 実はアドバイスではなく 共感してもらうことを、欲すると思います。 アドバイスは、方法論であったり訓示的な 考え方や事象の捉え方を変えるための きっかけにすぎないような気もします。 特に、究極という前提条件で、 なおかつ、近親者(信頼関係がある)から 得られるものとすれば、 その要求レベルは、根源的で、かつ 幼児的な欲求に近く、他人には手におえないような 共感を切望するのでは?と思います。 (特に生存に関する問いかけについて) 究極を言えば、 上述した生存に関する根源的な問いかけについては、 誰もその究極の答え(誰もが理解する言葉)を 持ち合わせてはいないと思います。 アドバイスが欲しいという欲求の裏側にある 依存心や甘え。または帰属意識などの わたしを意識してほしいことや かまってもらいたいような、 「おとな」と定義される人には恥ずかしい感情や欲求があり、 その欲求が、幼児期に解決できなかった 根源的な問いかけには 言葉によるアドバイスが無力であることは たぶん  本当のことです。 回答になってますか?

noname#105425
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なんども全文読み返して考えましたが、 >特に、究極という前提条件で、なおかつ、 >近親者(信頼関係がある)から得られるものとすれば、 >その要求レベルは、根源的で、かつ幼児的な欲求に近く、 >他人には手におえないような共感を切望するのでは? >と思います。 の部分がしっくりこないのだと思います。 あくまでなんとなく、ですが。 信頼関係を影響の度合いとの関連で捉えていたので 要求レベルという言葉で混乱してしまいました。

noname#68005
noname#68005
回答No.7

 暫定的な究極、言うなれば突き詰めた助言は実質的には存在します。方向性は千差万別ですし、森羅万象に有用なのは不可能でも、一番汎用的で合理的、究極ということはあくまでも最良であれば良いのですから、多くの助言から統計でも取れば良い。(言うなればここで云々話してもそれは机上の空論で、究極は絶対に定まらないということです)  ただそれは、質問者様が求めている答えとは違うのではないかと推察します。恐らくはどんな状況でどんな方にもこの一言で感謝や笑顔が返ってくる、そんな助言を求めているのではありませんか。  率直に言うとそんな言葉はありません。面接官と恋人、野良猫と芸能人に、画一化された対応をする訳にはいきません。具体的な事柄には、知識や経験、合理に基づく相応の具体的な助言が必要なのです。  ただしどんな場合でも通用する言葉はあります。上手くやれ、勇気を出して、頭を使って、頑張れ、臨機応変に、応援している……などなど、具体性に欠けた助言というより、励ましの部類に入る凡そ実の無い言葉達です。意外に喜ばれますが、究極的な助言を求める方がこれを言って満足できるかは甚だ疑問です。  しかしながら広く通用するという場合は、このように汎用性を持たせる為に抽象的で、相手に「無責任!」「精神論はうんざり」「どうしろと?」と思われてしまう危険性のある言葉になってしまうのは道理なのです。(無礼を承知で申し上げますと、個人的には慈悲や尊重云々も同等です。仮にイジメで悩んでいる、恋愛で悩んでいるときに慈悲の心云々……や、生命を尊重云々……、と仰られても、何ら有用ではありませんし、感謝の気持ちが湧くでしょうか)

noname#105425
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >率直に言うとそんな言葉はありません。 もしもそうであれば残念です。 >広く通用するという場合は、このように汎用性を持たせる為に >抽象的で、相手に「~」と思われてしまう危険性のある言葉に >なってしまうのは道理なのです。 確かにそうですね。 一般論になると意味を失う危険はあります。 しかし「勇気を出す」ことが仮と究極のアドバイスであれば、 単に「勇気を出せ」と言えば一般論ですが、 「一回ふられたからって諦めるな。勇気をだせ」となれば 変わりませんか。 最終的に帰着する部分にはなり得えるのではないでしょうか。 No.2の回答でも申しましたが、 揚げ足取りな回答が続くことをご容赦ください。

noname#80116
noname#80116
回答No.6

No.3です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 親が子に「死んでもいいよ。好きにしなさい。」というのは ふつうではないですが、それだけをもって生命は常に尊重するべき だと断言できるのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 断言できます。なぜなら もし断言しないのならば その人は いても いなくても いいのですから 放っておけばよいからです。  つまり その人とは 話しが出来ない。する必要がない。話しをしても しなくとも まったく どちらでもいいということになるからです。    いまこのように話し合いをしているのは 互いに何かを伝えようとしていることです。何かがないか・あるいは 何かがある場合 その何かが伝わっても伝わらなくても どちらでもよいというのでしたら すぐに取り止めです。その意味で 生命つまり存在は 一義的に 認め合わなくてはなりません。そのことを 究極的なアドヴァイスとします。

noname#105425
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 すみません。 そのような考えもあるのだな、と受け止めさせて頂きます。 度々ご回答ありがとうございました。

回答No.5

万人に示すことができるアドバイス、ということなら、「慈悲の心でいなさい」です。 この見解は、仏教の思想によります。 菩提道=ブッダの境地への道、の真髄は、慈悲=菩提心、です。 これは、他者の苦を厭い、楽を望む心、思いやりの心、です。 全ての有情は、幸せを望み、苦を避けたいと望んでいます。 事物は縁起しますから、自他の幸せの原因である慈悲をもつことが、他の何よりも優れています。

noname#105425
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「慈悲の心」 私は仏教をよく知りませんが、「他人を思いやる心」で よろしいでしょうか。 世界中の人間が余すことなく慈悲深い人であれば、 楽園なのかもしれません。 しかしそんな世界に「利己的な考え」を持つ人が 出てきたとき、なんと言えばいいのでしょう。 私にはなんとなく、その人が 「みんなが他人のことばっかり考えてるんだから、 俺が自分のことだけ考えればかなりおいしいよね」 と答えそうな気がします。 そしてそれを理屈では否定できません。 たぶん実際おいしい思いができると思うからです。 少なくともその人は幸せになれるだろうと思うからです。

  • htx2005
  • ベストアンサー率25% (22/87)
回答No.4

#1 です。 アドバイスをする人の視点では 施しという良くも悪くも盲目的で独善的な アドバイスを受ける人が、 果たして誰からのアドバイスを欲しているか という洞察の観点が抜けている気がしてなりません。 たとえば、生きている意味そのものや、 生まれてきたことの意味は、 アドバイスの言葉が、誰から発せられるかによって 同じ言葉でも、受け取られる重みが全く違うのではないでしょうか。 生きているうえで不可避である 上述の根源的な問題(抽象的な疑問)に応えるのは、 その当事者の、親であったり 極めて近しい信頼関係をもつ者にしか 役割をはたせないのでは? シンボル的でかつ絶対的な存在にもその役割は あるかと思われますが、 これを突き詰めていくことは そもそもの設問からはずれますので 避けました。

noname#105425
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >アドバイスの言葉が、誰から発せられるかによって >同じ言葉でも、受け取られる重みが全く違うのではないでしょうか。 確かにおっしゃるとおりだと思います。 与える影響の度合いも変わるでしょうし、 アドバイスをどういう意味で捉えるかも変わりますね。 では例示されている親や近しい者など、 限りなく厚い信頼関係で結ばれている者ならば どういった「究極のアドバイス」を与えられるのでしょうか。

noname#80116
noname#80116
回答No.3

★「究極のアドバイス」があるのかというのがテーマです。 ――なるほど。わかりました。それなら やはり ☆・生命の尊厳・存在の尊重 だと考えます。 ★生命を尊重しない考えは尊重されるべきではないのでしょうか。 ――はい。なぜなら もし《生命を尊重しない考え》が尊重されたなら アドヴァイスを考えたり行なったりする意味も理由もなくなります。そもそも このように話し合いをする意味がなくなるのではないでしょうか。  考えてもみてください。親が 子に     《存在していても いいよ。存在していなくても いいよ。     好きにしなさい》。 と言ったりするのが ふつうだという場合になるのですよ。ではないでしょうか。考え足りないところがあるでしょうか。

noname#105425
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 生命についてあまり深く議論しすぎると 論点がずれてしまうかもしれませんが、しかし大切なことですよね。 この話を自殺に直結させるのは安易かもしれませんが、 「自己の存在否定の自由」を否定できる確かな論拠はない、 とどこかで読んだ気がします。(うろ覚えですみません) 私も否定できません。自分の感情論なら語れますが。 親が子に「死んでもいいよ。好きにしなさい。」というのは ふつうではないですが、それだけをもって生命は常に尊重するべき だと断言できるのでしょうか。 生命についてそこまで深く調べたことはないので 間違えていたらご指摘ください。

noname#80116
noname#80116
回答No.2

問題を特定しない場合には 例示されているように ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ・人は自分の思う通りにせいいっぱい生きるべきだ   ・自分の宗教を大切にするべきだ   ・人類平等の実現を目指すことこそが正しい道だ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というアドヴァイスになるのではないでしょうか。 ・二番目の《宗教》というのは 普遍性にもとづくべきだとすれば 《良心・信教の自由》と読み替えたいとも思いますが。 ・あるいは 《自分の思う通りにせいいっぱい生きる》ことに対して 時に 耳を貸さない状態にある場合も見受けられるようですから 不用意に 口に出していいか 考えるところですが。 わたしの例示としては    ・生命の尊厳・存在の尊重 あるいは    ・互いの違いを まづはそのまま互いに認め合うこと    ・既存の風潮では《異者》と見なされている存在を受け容れること になります。 ただ それにしても これらの例示のあとに ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですが当たり前のようにすべて矛盾に陥ります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とあります。なぜでしょうか。この推論が分かりません。補足していただければ幸いです。  アドヴァイスが成功するとは限らない(つまり こちらが考え違いをしていたり そうでなくとも失敗することもあったりする)ということをおっしゃっているのでしょうか。  それなら 《矛盾》ではないでしょうから やり直したり 修正したりすればよいと思いますが。 そして 問題が特定された場合が やはり問題だと思います。経験と思索を重ねるということに帰着するでしょうが 分からないという場合も 大切だとは思います。(特には 自分にとってですが)。

noname#105425
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >「ですが当たり前のようにすべて矛盾に陥ります。」 >とあります。なぜでしょうか。 3つ例示しましたが、それぞれに矛盾する点がある という説明でよろしいでしょうか。 >分からないという場合も大切だとは思います。 なんとなく私もそう思うことはありますが、 どのように大切なのでしょうか。 分からない場合どう考えていくべきでしょうか。 >わたしの例示としては  >・生命の尊厳・存在の尊重 あるいは  >・互いの違いを まづはそのまま互いに認め合うこと  >・既存の風潮では《異者》と見なされている存在を受け容れること >になります。 生命を尊重しない考えは尊重されるべきではないのでしょうか。 許容することは、ある種最善の選択のような気もしますが、 許容できない、あるいはすべきでない時はないでしょうか。 ※以上の回答を見返し自分でも思いますが、 揚げ足取りな回答になってしまうことをご容赦ください。 ご気分害されたらすみません。 質問にあるように、明らかに馬鹿とも思われますでしょうが、 「究極のアドバイス」があるのかというのがテーマです。

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