• ベストアンサー

関ヶ原戦後の家康の差配

徳川家康が、関ヶ原戦後の改易、転封などを行なったのは、あくまで豊臣政権の大老(戦勝側)としての差配だと思うのですが、このとき豊臣(羽柴)家の禄高も減らされているように教科書には書いてあります(「摂津、河内、和泉の大名クラスに転落」)。豊臣政権下の大名同士の戦であった関ヶ原合戦後の豊臣宗家の差配にまで大老家康が口を出せた(またその差配を豊臣宗家が受け入れた)のは何故なのでしょうか?

noname#189881
noname#189881
  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数4

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.3

家康が豊臣家の蔵入地を諸侯へ与え始めたのは関ヶ原より前、秀吉が死んだ直後からです。 武家社会の基本原則、「御恩と奉公」が、その大義名分です。 豊臣家に対し、諸侯が朝鮮出兵(肥前名護屋での待機も含む)という奉公を行なった以上、豊臣家には御恩を与える義務が生じたわけです。 家康は、あたかも自分が諸侯へ加増したようなポーズを取りながら、豊臣家の土地を奪っていきました。 そして関ヶ原合戦もまた、豊臣家が徳川に命じた形式(上杉討伐)を取った結果なので、やはり豊臣家が奉公に対する御恩を与えねばならなかった、と。 徳川は懐を痛めない、なんとも虫のいい話です。

noname#189881
質問者

お礼

皆様、明快な回答を有難うございます。おかげで理解できました。

その他の回答 (2)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

太閤蔵入地を、与えちゃったということになります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E5%85%A5%E5%9C%B0 慶長3年(1598年)の統計によれば、全国1860万石のうち198万石が蔵入地とされており、最盛期で畿内及び北九州を中心に220万石を越えていた < 上記より引用

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

豊臣家の直轄領を明確に削減したわけではありません。 豊臣家の直轄領は直接支配していたところのほかに遠隔地などは近辺の豊臣系の大名に預かり領として支配させていたところが多く、そういうところを他の大名に与えてしまい実質的に豊臣直轄領を減らしてしまいました。

関連するQ&A

  • 家康は何故 関ヶ原で勝ったのに

    家康は関ヶ原で勝ったのに なぜ島津を処分しなかったのでしょうか? 毛利は安芸広島130万から長州萩30万石 上杉も会津米沢120万から30万石など 西軍の主だった大名は減封 または蟄居や処刑などにされています しかし島津だけは薩摩 大隅75万石を安堵されました しかも毛利や上杉とは違い 最前線で戦い家康の本隊に突撃し直前で退却するという ことをしました また島津を頼った 宇喜田秀家も処刑はされず八丈島への配流で済んでいます 豊臣家でさえ65万石の一大名に成り下がったぐらいなのになぜ島津は無事だったのか? さらに佐竹家も常陸25万石から出羽久保田(秋田)25万石へと転封でした これも石高が減っていないので実質国替えです 家康は東軍の大将だったのだから島津や佐竹を潰せたはずですが なぜ助けたのでしょうか?

  • 関ヶ原その後、家康

     もしもの可能性として、質問。 関ヶ原の後、豊臣を滅ぼす前に家康が なくなった場合、それでも、豊臣滅亡・ 徳川幕府成立・数百年の安定政権になったのでしょうか? 細かい時期によって変わるかもしれませんが、  関ヶ原の次の年、家康が征夷大将軍就任の次の年、 秀忠就任の次の年、秀頼・家康が会談した後、 豊臣恩顧の武将たちの相次ぐ逝去の後、 などで、どう変わる可能性が あったのでしょうか?それぞれ、予想があれば、お願いします。  年齢的には豊臣家を滅ぼす前にある朝ぽっくりと なくなっていたのを発見されるということもあったはずです。 豊臣対策・天下取りへの遺言は用意されていたかもしれませんが。

  • 徳川家康は、なぜ当然のように天下人になったのか

    一般的な歴史では、関ヶ原の戦いの後、徳川家康は、当然のように天下統一をしているようなのですが、疑問があります。 もともと、関ヶ原の戦いは、豊臣政権の内部での権力闘争でしかなかったはずであり、徳川家康も、関ヶ原の戦い以前には、 「豊臣家打倒」 などとは、全く言っていませんでした。 豊臣家内部の権力闘争に打ち勝ったというだけなのに、なぜ、徳川家康が、「当然のように」日本全体を統一する政権をつくってしまえのかが不思議でなりません。 今日の私たちは、実際の歴史を知っているので、疑問をもたないかもしれませんが、当時の人々からすれば、関ヶ原の戦いに勝ったからといって、 「だから家康が天下人」 という意識は、まだなかったのではないか、と思うのですが、なんで、家康が天下人ということになっていったのでしょうか?

  • 関ヶ原後の豊臣の衰退

    関ヶ原の戦いの後、家康によって豊臣家の領土・勢力は大きく削がれますよね? 一応、徳川方の言い分としては、忠臣家康が奸臣三成一派を成敗した・・・というものであったはず。 だから主君である豊臣家が徳川方の大名達に、恩賞を与えなくてはならない という名目は分からないでもないのですが・・・ だからといって、豊臣家の身をあそこまで急激に削らせるのは、 いくら秀頼が幼いといっても豊臣家または豊臣恩顧の大名から異論や抵抗はなかったのでしょうか? あまりにもあっさりと家康が豊臣家の勢力削減に成功したように見えて不思議です。 家康はどのような手段を使ったのでしょうか。

  • 何故井伊家は彦根から国替えがなかったのですか?

     徳川譜代大名の武功派は江戸幕府が安定すると、次第に地方に遠ざけられていきました。  井伊、酒井、本多、榊原など、家康が天下取りに行く過程で、忠勤を励みました。  井伊、以外の譜代大名は秀忠以後、何度も転封、国替えになっています。しかし、井伊家は彦根から動くことなく、幕末を迎えました。何人も大老を輩出しています。  藩祖直政が家康の寵愛が深かったと思いますが、それだけの理由でしょうか?徳川幕府草創期の功臣たちは、国替えばかりでなく、改易、断絶になっている譜代家も多いです。  井伊家は譜代随一の禄高ですが、何故、他の譜代家に比べ厚遇されたのは何故でしょうか?

  • 豊臣時代の大名の改易を把握したい

    豊臣時代の大名の改易を把握したい 関ヶ原~江戸時代の大名の改易はあらゆるサイト、書籍にでてます。 豊臣時代の大名の改易を知りたい。 佐々成政、織田信雄、大友吉統・・・

  • 正誤問題

    (1)1605年、徳川家康は秀忠に将軍職を譲った。これは全大名に対して将軍職が徳川氏によって世襲されるものであることを明示した上で、徳川家の世がこの先も続くことを知らしめるためであった。 (2)関ヶ原の戦いで西軍方についた領地は改易・転封され、その結果譜代大名が出現する契機となった。 (3)大名統制のために定められた法令を武家諸法度に違反した大名は改易・転封・減封の処分がなされた。幕藩体制確立期においては城の無断修築など多くの大名がこの法度の違反による改易である。 (4)幕藩体制下においては、有能な大名であれば親藩や外様でも幕府の役職に就く例は存在した。 この中で正解が2つあります。どれでしょうか? また、間違っているものはどこが違っているのでしょうか?

  • 家康はなぜ島津を処分出来なかったのか?

    関ヶ原で西軍に味方し唯一と言って良いほどお咎め無しの大名家が島津家です。 宇喜多秀家も島津を頼り死罪を免れ、佐竹も島津の口ぞえで出羽秋田への改易で済みました しかし家康は関ヶ原で勝った立場です 島津を処分しようとすれば出来たはずですが何故しなかったのでしょう? 確かに元々は東軍加担でしたが伏見城攻略を巡って家康と対立し西軍に付き 戦場で取り残された時起死回生の中央突破で反転し退却しました。 もしや家康はビビったのでしょうか? 関ヶ原後に島津家を処分しなかったばっかりに約260年後 幕府は島津に倒されてしまうんですね(笑)

  • 豊臣政権、秀吉死後のIF

    関ヶ原の合戦が起き、徳川政権が興ったのはなるべくしてなった結果だと後世から観たら思います。豊臣秀長や前田利家といった豊臣政権内での調整役の死。それによる文治派(近江派)と武断派(尾張派)の対立。豊臣秀吉自身、有力な武家出身でないために死を覚悟して尽くしてくれる譜代の家臣(徳川家康でいう鳥居元忠や本多忠勝ら)もいません。また秀吉・秀長ともに継子に恵まれず秀吉の晩年に秀頼が生まれましたが、8歳の子供に政権が担えるわけがなく、秀吉の死後、有力な大名からなる五大老・五奉行による合議制によって政治が執り行われました。(秀吉の天下統一の過程でほとんどの有力大名を残し、滅亡したのは関東の北条氏ぐらいでした。それにより豊臣政権は大名による連合政権ともいえ、それを秀吉自身の能力やカリスマでまとめ上げていたといえます。)また、2度の朝鮮半島出兵により西国大名、特に豊臣恩顧の大名が疲弊してしまいます。結果、政権を担うことができるのは関東に250万石以上の領地を持ち、朝鮮出兵を経験せず戦力・財力を温存でき、戦国武将として桶狭間合戦以来の経験を持つ徳川家康しか残らなかったと思います。(この時代大名はすでに経験の浅い2世世代に移っていた。秀吉死後、残った人物の中で家康がNO1であるという評価が当時あったのかもしれない。)さて、ここで質問です。豊臣秀長や前田利家が秀頼が成人するぐらいまで元気で長生きしていたら歴史はどうなったでしょうか。(1610~1615年ぐらいまで。政権内で発言力があり、親豊臣政権・親秀頼が絶対条件)また、蒲生氏郷・堀秀政や小早川隆景らも元気に長生きしていたらどうなっていたでしょうか。例えば、秀吉死後の五大老が徳川家康・豊臣秀長・前田利家・蒲生氏郷・堀秀政・毛利輝元・小早川隆景(これでは七大老)ならば、家康もあれほど好き勝手はできず、史実のような政権奪取の野望も持ったなかったかもしれません。また、史実どおり合戦が起きたとしても、西軍総大将兼現地総司令官が豊臣秀長で現地副司令官が蒲生氏郷と堀秀政(蒲生・堀の領地は史実と違い近畿・中部・北陸で50万石以上が望ましい。)、軍監は黒田如水(説得して西軍に親子共々協力させる。大谷吉継は黒田の補佐。)で前田利家は西軍副大将兼大阪城留守居として大阪城に入城させる。石田三成は大阪で兵站奉行として全軍の兵站に専念させる。上杉は史実通り会津で挙兵させる。(蒲生が会津で、上杉が越後で挙兵でも可。その場合、関ヶ原現地副司令官は堀秀政のみ。水戸で佐竹も挙兵させるのが望ましい。)歴史のIFになりますが、その後どうなったと思われますか?皆さんのご意見を聞かせてください。

  • 関白と征夷大将軍

     関ヶ原の合戦の戦勝のどさくさで天下を奪った家康。  果たして奪ったという言い方が妥当かどうかなのですが、 征夷大将軍に任命されて、幕府を開いたことで、法的に 政権を掌握した家康に対し、豊臣家は元の主筋という 法的には何の権力もない存在です。  では、あらゆるコネやカネにものを言わせて秀頼が 関白に任命され、豊臣関白家を復活させた場合、 政権は豊臣、徳川、どちらが執るのでしょう。  鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府 どの時代にも 関白や太政大臣は居ても、政治に口出しはしなかったが、 豊臣関白なら黙って家康のやりたいままにはしないはず。  というより自分が政権を執るための関白就任だから。  たら、れば、は歴史のタブーですが、全くあり得ない話でしょうか。 もし徳川将軍と豊臣関白が同時に存在したらどうなっていたと 考えられますか。