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上杉謙信の「辞世の句」について
- 上杉謙信の「辞世の句」について複数のパターンが存在し、正解は不明です。
- 「有明の月ぞ心にかかる月かな」というパターンが一般的に広まっていますが、漢字か仮名かは定かではありません。
- 「有明の月」と「月」の間にスペースが入ることが多いですが、本来的には「有り明けの月」という表現が正しいと思われます。
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お礼
DieMeuteさま ご見識の高さ、ご教養の深さ、お人柄のご誠実さなど、 感服いたしております。(@@) 尊敬させてください。 (朗読的な)読み方のご見解のご提示、ありがとうございます! 様々な出典や、手がかりからの謎解き、なるほどなるほど、と非常に納得しました。 また、2つがセット、の私の誤解へのご指摘にも感謝しております。 二通りの説がある、故に両方が紹介されるケースが多い。 腑に落ちました。仰せのとおりだと思います。 卓抜したご回答をいただき、本件、非常に助かりました。 色々お手数をおかけしたことと思います。心より御礼申し上げます。 ありがとうございました!