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あなたは何様?

ran-changの回答

  • ran-chang
  • ベストアンサー率24% (12/50)
回答No.11

こんにちわ(^^) 何度かこういう質問(?)は取り上げられているみたいですね。 私も目を通しています。 成功者に多い、それは仕方のないことではないでしょうか? 何故なら(本当かどうかは本人にしか分からないことですが、文面を信じるのであれば)その方はその方法で成功しているからです。 その方から見れば、「ああ、もっと努力すればうまくいくのに」「分かっているのなら動けばいいだけなのに」って思えるのでしょう。 背中を押そうと、つい強い口調になってしまう。 頑張ってほしいから、立ち直ってほしいから。 成功した方から見れば、もどかしいのかもしれません。 ただ、どうしても忘れがちなのは「質問者は「自分」ではない」というところですよね。 私も読んでて、この回答者の方は自分と同じに考えて言葉を発してるなーと思うことはありますよ。 何とか力になろうとして、忘れてしまうことは少なからずあるでしょう。 それに、成功しているから自信を持っていらっしゃるわけだし、間違ってるとかは思えないのではないのでしょうか。 そういうふうに考えてみてはどうですか? それに、人なんて考えが違って当たりまえ。 私とmoonglowさんももちろん違うでしょう。 考えが違えば、言葉も違う。 何度立ち上がっても、この問題は解決しませんよ。 自分と同じ考えに揃えるしか方法はないわけでしょ。 それって、無理な話じゃないですか。 傲慢な回答や、質問者を責めるような発言を肯定しているわけではありません。 私もそういうのは嫌いですから。 しかし、考えを揃えるのは難しい。 「何様」な発言をする方にも心はあるのですから 最後に。 「この人何様?」 そう思った時、自分もその「何様」の仲間入りではないでしょうか? 少なくとも、私はそう思っています。 他の方の考えを受け入れることも、勉強のひとつですしね。

noname#2165
質問者

お礼

わたしの言いたいことも正にその点なのです。 『それに、人なんて考えが違って当たりまえ。 私とmoonglowさんももちろん違うでしょう。 考えが違えば、言葉も違う』 ・・・・これは、敢えていうまでもなく当然のことです。 だからこそ、「わたし」という一個人の意見はあくまで相対的な意見でしかあり得ない、断言など出来るものではないのです。 一方的な言葉の押し付けはいみじくもran-changさんが指摘 された多様性に反する態度ではないでしょうか? わたしは「断言口調」に均一化への傾斜を見るのです・・・・ それは未知の答えを否定することに繋がると思います。 自らを疑うこと、それが多様性を育む土壌ではないでしょうか?

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