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なぜベトナムでは明治維新が起こらないで、フランスの植民地になってしまったのか?

江戸時代の日本とベトナムは東アジアの清朝の周辺国としてだいたい同じくらいの国力だと思うのですが、日本では1868年に明治維新が起こって、その後日清日露の戦勝で大幅に国力を増大させたのに対して、なんでベトナムでは改革は起こらず、1859-1887年の間にフランスの植民地となってしまったのでしょうか?

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  • convit764
  • ベストアンサー率18% (142/767)
回答No.4

ホーチミン市在住者です。 とてもいい質問ですね。 フランスがベトナムを植民地とする戦争の際、サイゴンでは、フランス海軍のわずか1500名程度の陸戦隊が、城郭都市サイゴン(ザディン城)を攻略してるし、サイゴン郊外での平地での対峙戦でも、大軍のベトナム軍を簡単に敗走させてます。 この敗戦が原因で、フランスの植民地に93年間なるわけで、どうして 当時のベトナム軍の戦闘能力がこれほど低かったのかが、問題になります。また、戦闘能力が低いならその代替手段を考える指導者がいなかったのかも検討課題。 ま、タイは旧体制護持で植民地化を免れ、日本は新体制で植民地化を免れたのに対し、ベトナムは旧体制で植民地化されてしまうという、 <定番メニュー>を食べさせられたということですかね。

bougainvillea
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 グエン朝はあまりに簡単に負けすぎですよね。フランス人はたった200人で紅河デルタ地帯を征服とか。どうしてこんな事態になったか、政治社会的要因(さらに日本との比較)に興味があります。 そして抵抗運動を100年くらい延々とやるってのもよくわかりません。

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その他の回答 (6)

  • chokmah
  • ベストアンサー率30% (11/36)
回答No.7

回答としては的外れかもしれませんが。 歴史を覗いても日本は不思議な国です。 日本人としての思考も意識も他国とは違いますが。その精神性はNo.6の方と同意見です。 また、まるで何らかに力によって守られてきたかのような、そんな気さえします。 まず、日本は海というものに守られていた、という地形の差があります。 そして、日本は西欧の力にはじめは反発しますが、その後その力を認め吸収しようとしました。 また、他の方が言っている通り、教育水準がとても高かったのも事実です。特に数学においてとても優れていました。 そういう姿勢も、植民地にならなかった素因でしょう。 まったく別件で、 植民地というのは実は自国の利益にはなりません。 戦時中、西欧各国は植民地の奪い合いに邁進していましたが、結局、最終的に自国の負担になるという結論にたどり着いています。 また、2次大戦後、アジア各国が独立運動のために立ち上がったのは、日本の姿を見たからです。 大戦中、西欧列強に立ち向かえたのは、アジアでただ一国、日本だけでした。 結局日本は負けましたが、その姿はアジア各国を勇気付け、立ち上がらせたのです。

bougainvillea
質問者

お礼

> 2次大戦後、アジア各国が独立運動のために立ち上がったのは、日本の姿を見たからです。 これは日本から解放されたからでしょう。この話題(東南アジアの植民地化とWW2以後)は繊細な話なので、各国の歴史をもう少し勉強したほうがいいですよ。 みなさんの回答はありがたいのですが、あまりに日本びいきが過ぎると感じました。日本も歴史のさじ加減ではベトナムのような猛烈な苦難の歴史を歩む可能性があったことを畏れるべきではないでしょうか。

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回答No.6

私は他の回答者様たちのように知識がまったくないので「物理的な比較」はできませんが、ひとつの要因に「教育」もあったのではないかと思います。 私は今、『世に棲む日々』(司馬遼太郎著)という幕末明治維新の小説を読んでいますが、これを読むと列強に占領されずに張り合った当時の「ニホンジンのスゴサ」というものをひしひしと感じます。 長州藩なんて4カ国に戦争ふっかけてますし、負けても従順になるどころか「俺は悪くねー!」と開き直ってるし、ある意味外国にとってはどこをつぶしても他の藩がまたケンカをふっかけてくるので、日本という存在は脅威だったんじゃないでしょうか。 それから吉田松陰が国禁を犯してまでペリー艦隊に近づき「アメリカにつれてってくれ」と懇願してますよね。これはヨーロッパでは大ニュースになったそうですし、ペリーも吉田松陰の勇気と知識欲に日本人を見直したと言っています。 こういう人たちの様々な行動がもとになって列強の「日本侮り難し」という意識につながった気もするのです。 幕府は弱腰だったかもしれない。でも、諸藩のように誇りをもって向かう日本の態度は、他のアジア諸国は日本ほど教育が盛んでなかったためか持ち得なかったような気がします。 私のこの味方は偏見にすぎないかもしれませんが、やはり教育というもののチカラの差もあると思います。

bougainvillea
質問者

お礼

日本の成功要因じゃなくて、ベトナムの失敗要因を知りたいんです。

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回答No.5

質問者様は、大きく誤解していらっしゃいます。 江戸時代の日本とベトナムでは、総合的な国力では、大きな差があります。 日本では、鉄砲・大砲は国産化されており、一時は同時期の西洋諸国と比べても、火力装備で凌駕するほどでした。 また、寺子屋・藩校等により一般市民も教育を受けられた日本と違い、ベトナムでは、そのような制度はありませんでした。 更に、周辺諸国と抗争を繰り返していたベトナムと異なり、日本は徳川家による統一が行われ、内政の充実を図りつつ、世界情勢と文化を吸収することができました。 そのおかげで、薩英戦争、下関戦争等で一方的な敗戦を防ぎ、諸外国の過度の干渉を受けずに明治維新・戊辰戦争を切り抜けられたのです。 ちなみに、韓国併合から日清・日露戦争への歴史は、ロシア帝国の南進政策への対抗手段でした。

bougainvillea
質問者

お礼

ベトナムは科挙を導入してるし教育レベルはけっこう高いはずですよ。

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  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.3

簡単に言えば、歴史の道筋は一本ではないし どこか国が経験した過程がすべての国が経験すべき過程でもないです。 要するに、日本の歴史と同じ展開をする国は存在しないのと同様に、 ベトナムの歴史と同じ展開する国も存在しないということ。 両国を単純比較して論じるのは、あまりに乱暴でしょう。 世界広しと言えども、明治維新を行ったのは日本だけ。 逆にホーチミンのような人物は日本には生まれなかったし、 中国、フランス、日本、アメリカといった諸外国の支配に 尽く抵抗して長い独立戦争を勝ち抜いた国はベトナム以外にありません。 複数の国に同じ現象が起こる可能性の方が限りなく0に近いわけで 同じではないと悩むのは時間の無駄であり、 それぞれの独自性を理解して受け入れるべきでしょうな。

bougainvillea
質問者

お礼

> 世界広しと言えども、明治維新を行ったのは日本だけ。 タイのラーマ5世とかトルコのケマル・アタチュルクの改革とかは?

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  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.2

「江戸時代の日本とベトナムは東アジアの清朝の周辺国としてだいたい同じくらいの国力」 という前提は何が根拠でしょうか? 私は19世紀のベトナムがどういう国だったのか存じませんが、江戸時代の日本が西欧・北米以外の国では最も「進歩」した国であったのは間違いないでしょう。 さて、質問者様の疑問の答えは 「日本が江戸時代末から明治時代に急速な近代化を実現できたのは、第一に江戸時代に近代化のポテンシャルを蓄えていたから。第二に運が良かったから。ベトナムにはそのいずれもなかった。ベトナムで明治維新のようなことが起きなかったのは不思議でも何でもない」 となります。 江戸時代の日本では、中央政府である江戸幕府の緩やかな統制の元で、現在の中国より恐らく公正で安全な社会が運営されていました。江戸時代の日本には基本的に「奴隷階層」は存在しませんでした。武士階級は識字率がほぼ100%、平民の識字率も当時の世界(西欧・北米を含む)に遜色なかったと思われます。 日本人が、当時の最新技術の塊であった蒸気船に接したのはペリーの来航(1853年)の時ですが、その12年後には佐賀藩が日本で最初に蒸気船「凌風丸」を建造しています。もちろん、当時の列強が保有する汽走軍鑑に比べれば「オモチャ」同然だったでしょうが、10年余りで蒸気船を自ら作ってしまった日本の潜在力は驚嘆するしかありません。 同じことは、戦国時代から江戸時代初期の日本でも起こっています。 * 1600年ごろの日本は、世界で最も多数の火縄銃を持つ国であったと言われています。日本人が西洋人に火縄銃の製造技術を手取り足取り教えて貰った訳ではなく、西洋から伝わった火縄銃の現物を見て、分解して、自ら製造技術を会得したものです。 ※ ただ、日本では火縄銃以上に重要な大砲の製造技術は発達しませんでした。 * 1600年ごろまで日本と通商関係のあったスペイン・ポルトガルは、日本に西洋帆船の建造技術や羅針盤・六分儀等を使う天文航法を決して教えようとしませんでした。大砲の売却も製造技術供与も拒否していました。江戸幕府は、偶然に日本に漂着した、造船術と航海術を心得たイギリス人ウィリアム・アダムスの指導で、1607年までに2隻の西洋帆船を建造しています。2隻目の船は、スペインに売却されてフィリピンまで航海できる立派な船(120トンとされる)でした。 * さらに、東北の大名である伊達政宗は、自領内で500トンの西洋帆船を1613年に建造しました。一般にサン・フアン・バウティスタ号と呼ばれていますが、本当の日本名は「伊達丸」だったようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E5%8F%B7 この船は、広大な太平洋を、1618年までの5年間で、日本→メキシコ→日本→メキシコ→フィリピンと4回横断した堅牢な船でした。恐らく、スペインやポルトガルが建造した船と比べて遜色なかったと思われます。僅か10年間で、これだけの西洋帆船を、恐らく日本人の船大工が建造し得たことは「驚異」としか言えません。 乗員が日本人だったのか、西洋人が操船していたのかは「不明」としか言えませんが、艦長は日本人だったようですので、日本人の士官と水夫が天測航法と帆の扱いをマスターして太平洋を渡ったと考えることも十分可能です。これも「驚異」でしょう。 (西洋式帆船というのは、100人単位の水夫をマストに登らせ、風向きや海流を見ながら絶えず帆を操作(艦長以下の士官が指揮)しなければ動きません。汽船を動かすより遥かに難しい技術を要します) 質問者様がどういう認識でこの質問をされたのか分かりませんが、西洋文明と初めて接した16世紀半ばから、日本という国は他の非西洋の国とは全くレベルが違ったと言えます。それが幕末から明治時代にかけても現れ、現代の日本に繋がっているわけです。

bougainvillea
質問者

お礼

> 江戸時代の日本が西欧・北米以外の国では最も「進歩」した国で > あったのは間違いないでしょう。 さすがにこれはないでしょう。オスマントルコ、清、ペルシャなどがありますし。日本バンザイもほどほどに・・・

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  • madmax4
  • ベストアンサー率6% (111/1826)
回答No.1

お国柄違うからです 国が違えば言葉も生活習慣も考え方も違います 質問者さんは逆に世界は皆日本と同じだと思いでしょうか?

bougainvillea
質問者

お礼

どうお国柄が違うのかが質問の意図なのですが。

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このQ&Aのポイント
  • 車のボディ傷をdiyで補修している際に、塗装を行いクリアーを吹いたが、日没で終了。まだ艶が引けた艶消し状態としているが、3日経ってからクリアーを重ねても問題ないか不安。
  • 車のボディ傷補修のためにクリアー塗装を行ったが、日没で作業が中断。現在は艶が引いた艶消し状態となっており、次にクリアーを重ねて磨こうと考えているが、初回のクリアーから3日経っていることに不安を感じている。
  • 車のボディ傷のdiy補修中にクリアー塗装を行ったが、日没で作業を終了。現在は艶消し状態であるが、初回のクリアーから3日経ってしまった場合に、そのままクリアーを重ねても良いか不安がある。
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