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19世紀半ば、なぜ日本は植民地にならずにすんだのか?

1853年、ペリーが来航し、日本に開国を迫ったのは、アメリカが日本を植民地にするのが目的だったと思います。 アメリカが日本を植民地にできなかったのは、アメリカで南北戦争が起きたからだと思いますが、他の欧米列強もいたのに、なぜ、日本は、他のアジアのほとんどの国のように、植民地にならずにすんだのでしょうか?

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  • platon3
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回答No.5

まず、第一に戦国時代から「富める国」と「強い国」をヨーロッパの国々へアピールできていた。 「富める国」は金や銀の産出で、「強い日本」は武士と鉄砲です。 「富める国」ですからどこでも植民地にしたかったと思いますが、なんせ強い。 宣教師達が自国への報告で「たくさんの鉄砲と熟練の戦士(武士)」について書き送っています。 信長から秀吉、家康とも、日本で悪さをする宣教師は問答無用で追い出します。 また、硫黄の生産も盛んで火薬には不自由しませんでした。日宋貿易、日元貿易、日明貿易と いずれの時期でも硫黄は代表的な輸出品です。 16世紀後半には鉄鋼生産量でも鉄砲生産量でも鉄砲の性能でも世界一 と言えるほどでした。 更に、秀吉については明を攻め落とそうとするなど、ヨーロッパに領土をむしり取られている 隣の国を先に征服しそうな勢いでした。 次にタイミング。 1880年から1912年にかけてはヨーロッパ各国がアフリカ分割に膨大なエネルギーをかけていました。 ちなみに1867年(慶応3年)の大政奉還、廃藩置県の断行(1872年)、西南戦争の終結(1877年)、 内閣制度の発足(1885年)、立憲体制の確立(1889年)。 アフリカの件だけではありませんが、ヨーロッパ各国がアフリカで争っていたことは日本にとって 有利に働いたことは間違いありません。遠くの強敵を相手にするよりヨーロッパの近くで植民地 が手に入るならそっちの方を選ぶでしょう。手をこまねいていると他の国に取られますしね。 それ以外にも他の植民地での反乱なども重なっています。 また、外国の文化を吸収するスピードについて、識字率が高かったり、寺子屋のようなネットワーク があったことも有利に働きました。 次は地理的な要素。 地球半周して一つの国を攻めるだけの兵を送るのはどれほど大変かは想像できると思います。 途中に補給基地も必要ですし、兵站はいつの世でも重要です。 ちなみにペリーは捕鯨の中継基地として燃料や食料の提供を求めてきたのであって、植民地化 を狙ったものではないと言われています。アメリカに関しては、この後も日本に対して領土的 な野心を表したことは無いと言われています。 今は、植民地化されていますけどね。当時、領土的な野心の無かったアメリカが、現在、日本の 宗主国になっているのは歴史の皮肉ですね。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1807947.html http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog498.html

noname#67622
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 運もよかったんですね。 ”侍の国”ということは、「戦争に勝ってなんぼ」だとわかっているわけですから、好戦的な国だと思われていたかもしれません。

その他の回答 (10)

回答No.11

 このご質問に役立つように、私の投稿の後に、自分自身の関心と思想とは少し距離があるのですが、  http://kikitai.teacup.com/qa4337439.htmlでの質問をし、すばらしいご回答を頂きました。  西軍における、西郷さんの職名は西郷という文字列で検索して確認できましょう。有栖川の宮家はたるひと親王と存じます。  乃木さんに代わって、実践実務の指揮を執った将官はどうも児玉源太郎とかいう同じ毛利家中出身の人のようですね。  私は村田蔵六、後の大村益次郎かと思っていましたが、やはり、実務にご堪能な将官の児玉大将なのですね。。どちらもまぁ、私には苦手な実務家の方ですね。乃木さんのほうが自分には親しめますが。

noname#67622
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 西郷さんファンは多いですね。

回答No.10

 ANo.6様に補足  勝って官軍の西軍は有栖川宮。隆盛はどういう立場だったか。  幕末三舟、海舟もそうだが、単身本陣に赴き、隆盛に面会して会談したのは鉄舟・山岡鉄太郎。  幕臣・山岡鉄太郎、(総裁)西郷隆盛どのへまかり通る。  そういう名乗りを上げて、会談しましたと聞いております。  道中はずうっと官軍の兵士が宿営し、そこを馬で駆け抜けた。  西郷は「命も、金も、地位も、名誉も眼中にないやつほど、始末に負えないものはない」と述懐しておりましたと。さ。嬉しそうにね。  西郷と鉄舟、そして三舟は、日本人の私たちには、允に親しい、町内の兄貴ぶんですが、(アヒムサの、柔和なガンディー・マッハ・アートマのヒマラヤの、がんとした絶壁の普遍の存在とはことなって、)  理想的な管理者幹部のチェックリストを説くメール雑誌に書き込んだ拙文の引用:  こういう理想的な、そして実務堪能な方は、部下に対してどんな感情を持ち、見、ことばや話し方をするでしょうね。ノンキャリ(本省で武士の資格)なく、中枢局の中枢課長にいった、こういうすごい方を上司に迎えた経験があります。そして人情厚く、人の無能力に同情もあ、明るく円満、公平にして、見通している人です。教育研究機関としての事業にも理解と情熱があります。でも一定の人には慕われ、尊敬されましたが、疎んずる人も相当多く居ました。難しいですね。隆盛型は本人は剣術はだめ、判断・情報は補佐に頼る。そんな人と優秀な参謀が必要ですよね。  希典もそうですよね。仰せのお方(理想的な管理職の要件を備えた)は上に適した人ではなく、参謀ですね。参謀、突撃兵長、伍長、尉官ばかりではしかたないですね。  乃木にはなかなか突破と占領が出来なかった、203高地でしょうか、成功させた、「お暑うございます」という挨拶に対して、「夏とは暑いものです」としかいえない、かの合理・実務の智謀の将、亀さんにたとえられている方。彼の成功は乃木が居たからではないですか。  乃木を無能者というのは当たっているでしょう。でも欧米的な実務に無能だというだけで、日本的な存在としては最高で、世界に通じる。  これがせご(西郷)どんであり、三舟ではないでしょうか。  幕末はそういう方と、それを知る上下の方、そして朋輩が輩出したのです。もちろんそういう、せごどんや三舟を知る人こそが偉いのです。  そういう日本としてきたのです。  その後、建国のそれをひきついだ、レールの上の人は維持の人で、しかも後半、情勢の判断も誤りました。  太平洋戦争、大東亜の問題は、維持の機能の彼の役を超えていた。  なおも居た、動乱のせごどんや三舟をつぶしていく体制になってきてしまったわけです。  AUM(オウム)でいえばUにはAのことはできない。(ヒンドッゥ三神、ブラフマン━創造、ヴィシュヌ━継続、シヴァ━破壊)

noname#67622
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 幕末の英雄たちは、確かにすごかったですね。 今の政治家は、金のことしか、考えてないでしょう?

  • furupai
  • ベストアンサー率20% (103/494)
回答No.9

西欧諸国は傲慢にも世界の国々を大きく三つにカテゴリー分けしました。 一等国:対等の条約を結び国交 (文明国) 二等国:不平等条約を結び国交 (半文明国) 三等国:早い者勝ちで植民地にしてもよい (野蛮国) 日本は二番目に区分けされました。 ではなぜ「野蛮国」とされなかったか、ひと言でいうと「国として侮りをうけなかった」ということでしょう。 世界一の識字率。女性や労働者階級までも俳句や歌を詠むことができる。清潔で礼儀正しい国民性。優れた技術を次々と吸収していく知識欲。それに創意工夫を凝らす知的創造力の豊かさ。薩英戦争のように、強者に対しても義のために死を賭して戦う勇気と気概。私益より公益を重んずる権力者。約束事や契約がきちんと守れる。等々 これらの国民性が基盤となり大政奉還、明治維新、富国強兵を達成し、日露戦争の勝利により、いわゆる世界の一等国になりました。 幕末から大正にかけて、たくさんの西洋人が日本を訪れましたが、皆一様に日本人の素晴らしさを旅行記や見聞録のなかで絶賛しております。 彼らは日本人に対し敬意を持つと同時に、このような国民を力で隷属させるより、不平等条約を結び貿易により利益を上げた方が、愚民化して植民地支配するより手間もリスクも少ないと考えたのでしょう。 大正時代の駐日フランス大使 ポール・クローデルは次のように述べております。 「私が断じて滅びないことを願う一つの国民がある。それは日本人だ。あれほど興味ある太古からの文明は消滅させてはならない。日本は驚くべき発展をしたが、それは当然で、他のいかなる国民にもこれ程の資格は無い。彼らは貧しい。しかし高貴だ」 「日本人は極めて文明化されていると答えることが出来る。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に到達しているからである。おまけに教育はヨーロッパの文明国以上に行き渡っている。シナやアジアの国々では、女たちが完全な無知の中に放置されているのに、日本では男女ともに仮名と漢字で読み書きができる」 ハインリッヒ・シュリーマン 「シュリーマン旅行記 清国・日本」より あと付け加えれば、人身売買や植民地支配の先兵として西欧人がキリスト教を利用していることに秀吉、家康が気付き、手を打ったことが功を奏したともいえます。

noname#67622
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうだったんですね。 キリスト教の布教禁止が、こんなところで、こんなふうに、影響するなんて、家康は知っていたんでしょうか。

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.8

近代化の基礎部分は江戸時代に確立されていた事。 何よりも当時の補給は現地調達です。 冷蔵庫なんてありません。 略奪で糸冬。あれ?占拠は?

noname#67622
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • negitoro07
  • ベストアンサー率24% (389/1569)
回答No.7

No.6さんの回答に、徳川慶喜も加えた方がいいかもしれません。 若くして滅亡直前の政権を引き継ぎながら、それも保守派の権化見たいな人の子供なのに、情勢を見極めて的確に動いた人だと思います。 まだ少しでも幕府再建の余地があると思えば、フランスから技術を導入して幕府軍の近代化を試みました。なのに勝海舟にこれ以上争えば国がだめになると言われれば、潔く身を引くというのは、とても若い将軍とは思えません。やる気がない無能な人ならともかく、活動的で若いエリートなら血の気が勝るはずです。 また、当時の日本は黒船が倒幕運動の引き金を引いたものの、それまでは平和が続き、社会や経済が相当高度に発達していました。動力源(当時なら蒸気機関)なしに可能な限界まで文明が発展していたと評価した西欧人もいるそうです。 日本の手工芸は、のちの産業革命を受け入れる素地を作っていました。実際、幕末の時点でも幕府や雄藩は兵器工廠を設立し、特に佐賀藩は世界最新鋭のアームストロング砲という後込め方式の大砲の制作すら試みたたぐらいです。(実際はデットコピーに終わったそうですが。。。) また、民間の寺子屋などが広まり、識字率も相当高かったそうです。幕府や各藩も教育機関を設立し、優秀な人材を輩出していました。身分差別も確かにありましたが、実際はお金で武士の身分を買うこともできましたし、町民や農民でも武士と一緒に勉強する機会もありました。幕末の志士の多くは、下級武士とそれ以外の身分から転身してきた人たちです。 こうして見ていくと、西欧の革命前に近い状況だったと言えるのかもしれません。中国なんかは、魯迅が言うように「砂」でした。手で力を込めて握らないとバラバラになってしまうのです。ナショナリズムが定着せず、辛亥革命は各省自治、その後の軍閥割拠へと進んでいきます。(今の中国共産党政権は、その反省と言うか反動が強すぎますが。。。)しかし、日本は西欧が来た時点で「日本」という民族国家への帰属意識が確率していまいた。

noname#67622
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 日本人は、一致団結する力が強いですよね。 悪く言えば「すぐ、ナショナリズムの台頭する国」です。 中国は、放っておくと、すぐ、内部分裂していく国です。 だから、中央政府が、意図的に、ナショナリズムを鼓舞します。

  • nishikasai
  • ベストアンサー率24% (1545/6342)
回答No.6

これまでの回答の中で一つ足りないものがあります。 日本の指導者が立派だったことです。日本は清国がアヘン戦争でイギリスに敗れたことで危機感をもった。幕末、開国を余儀なくされたときでも断固としてアヘンを日本に入れさせなかった。そして多少の小競り合いはあったものの、内乱に乗じた外国の日本進出を防ぐため江戸城無血開城を断行したこと。いやあ、偉かったよ! 日本人は。 ありがとう! 勝海舟さん、西郷隆盛さん!

noname#67622
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 本当に、幕末の英雄は、偉い人が多かったです。 現代の政治家は、つめの垢を煎じて飲めばいいんですよ。

noname#125540
noname#125540
回答No.4

近代化に成功したから・・・・とウィキペディアの「19世紀」の項をカンニング。 アメリカが来たのは捕鯨船の基地が欲しかったからかと思ってましたが・・・・・。 中継とか補給とかで。 どうしてなのかは私もよく知りませんが、とにかく日本は明治時代に急速に力を持てたらしいですね。 1900年代初頭には日露戦争でロシアに勝っちゃいましたし。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/19%E4%B8%96%E7%B4%80
noname#67622
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 高校の世界史の授業で習って以来の疑問でした。 植民地獲得競争の最終段階に入り、もう、植民地にできる国は残り少ない状態で、日本と不平等条約を結んだのは、4カ国でした。 この4カ国が互いに牽制しあっているうちに、日本が近代化したんじゃないかと、思ったんですが。

  • nebsoku
  • ベストアンサー率35% (65/185)
回答No.3

No.2さんの回答どおりです。 付け加えるなら、「侍」がいたことも大きい理由だったでしょう。 日本以外のアジアでは、ヨーロッパ人というだけで、王侯貴族のような待遇を感受できました。 全員が外交官特権を持っているようなものです。 清(中国)では、ヨーロッパ人が道を歩くとき、前を歩いている清国人や道を「じゃまだ」といって鞭で打って、自分が歩く道を確保していたんです。(ありえねー) ところが日本だけそうはいきませんでした。 当時のヨーロッパの新聞に(どこの国かは失念)、ヨーロッパ人とわかっただけで襲い掛かってくる侍という人間がいる、と報道されました。 生麦事件や堺事件も報道されたことも大きいでしょう。 また、政治機構も特殊すぎて外国人には理解しづらいものでした。 (幕府と朝廷の関係) ま、そんなこんなで、犠牲を払ってでも征服するに値する国かどうか考えて、出た結論が「No」だったんでしょうね。

noname#67622
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 侍の”刀”には、ヨーロッパ人は、恐れを抱いたようです。 刀相手に、ピストルを使うわけにいかないし。 ナイフでは、勝ち目がないし。 日本が「武士の国」だったことが大きいんでしょうね。

noname#68004
noname#68004
回答No.2

プランテーションが不可能、市場が小さい日本は植民地としての魅力に欠けるからです。 平野部がほとんどない国土、多湿、入り組んだ地形。 いくら帝国主義真っ只中でも砂漠ど真ん中のような不毛な土地を膨大な人員と金銭をつかって支配したい国はありません。 不平等条約を結んで上下関係をはっきりさせた上で後は放置、あの時代の日本の価値はそんなものです。

noname#67622
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 日本は、魅力がなかったんでしょうか? ネパールでも、英国は植民地にしましたけど?

  • nourider
  • ベストアンサー率19% (396/2083)
回答No.1

自国土の開発すら途上であった当時のアメリカに、領土的野心はそれほど無かったとおもいますよ。彼等の目的は「太平洋のクジラを捕り尽くすこと」であり、そのために兵站地が欲しかったのが最も大きい理由だとおもいます。 まぁ時代が時代ですからどこの国でも手を出したかったようです、特に当時日本の領土といえるかどうか微妙だった北海道など、ドイツの訪日団が帰国後に「あそこなら軍艦4隻と四個中隊で占領できる」と報告しています。 内戦もほとんどなく倒幕し、新政府をたてたことが大きいでしょう。内戦してたらそれぞれ加担する側に分割占領されちゃいます。 同じような状況だった朝鮮半島は貴族たちが互いの利権の確保に汲々として、国のことなどに思いが至らなかった結果、日本と中国に国土を蹂躙されることになります。

noname#67622
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 確かに、また、”戦国時代”をやっていたら、間違いなく、分割占領されたでしょうね。 それがわかっていたから、幕末の人たちは、内戦を極力回避したんでしょうね。

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