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ラカンのシニフィアンとシニフィエについて

こんにちはフロイトの弟子でジャックラカンという人が居るのですが その人からしてみるとシニフィアン(記号表現,能記)の方がシニフィエ(記号内容,所期)よりも優位という考え方をしているのです、自分にはどうしてもその理由が分かりません よろしくお願いします シニフィアンとシニフィエについて http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8 ジャック・ラカン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3

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回答No.1

こんにちは。 シニフィアンが何故優位なのかというご質問だと思います。 言い換えれば、言葉の世界と現実の世界とどちらが優位かということです。 一般には、現実の世界がまずあって、それにひとつひとつ名前をつけたものが言葉の世界だと考えられています。 しかし本当にそうでしょうか。 虹の色を七色と見るか、五色と見るかは文化によって違います。 現実の虹の色は波長の長い光から短い光に連続的にスペクトラムをなしていて、そこに区分は存在しません。 人間がそこに区分を持ち込むのです。 そして、一旦虹は七色という言葉を受け入れてしまうと、虹は七色にしか見えなくなります。 現実の世界の切れ目のない多様な色を、我々は言葉でもって区分し、 10種類とか、100種類の色でしか捉えなくなります。 だからリンゴの皮もスイカの実も同じ赤という言葉でしか捉えられなくなります。 言葉を使ってしか、世界を捉えられなくなっています。 日本人が雪、粉雪、粗目雪、みぞれ、などと理解するものが、英米人にはSNOWとしか見えません。 イヌイットなら、雪を表す言葉がもっとたくさんあります。 イヌイットにとっての雪は日本人より多様に見えるわけです。 雪を表す様々な言葉を持っているからこそ、雪が多様に見えるわけです。 すなわち、言葉の世界が現実の世界を支配しているということになるのではないでしようか。 人間は言葉によってしか、現実の世界を捉えることができない。 言葉のシステムを取り入れてしまうと、そのシステムを通してしか現実の世界を見ることができない。 その意味で現実の世界より言葉の世界の方が優位であると言えるのではないでしょうか。 これはあくまで私の解釈ですので、ラカンの専門家の方なら、また別の理解をされるかも知れません。 あしからず。

tenntennsevengoo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

tenntennsevengoo
質問者

補足

自分もそのような理由ではないかとは思っていたのですが 赤一つ取ってみても現実的にグラデーションかかっているのは 一目瞭然であり 言葉を発しなくても赤はイメージ化出来るわけであって そうするとやっぱりシニフィエの方が優位ではないかと 思うのですが? それともイメージ化そのものがシニフィアンなのでしょうか?

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