• ベストアンサー

記憶を失ったら仏教の悟りも失われる?

kigurumiの回答

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

執着を絶てた人を現実知らないので、確証は無いのですが、 高名なお坊さん 知っています。 ただ、人格者とは決していえません。 奥さんの肉体的なものを人前で批判するので。 何故 人前でわざわざ批判する必要があるのか。 酒のせいだと思います。 普段は理性を使い、人から「さすが一般の人とは違う」と思われたいために、理性で押さえ、演技をしているのだと思えます。 では、理性を司る脳の部分が壊れたとしたら。 仏教徒じゃなく別な宗教の人で脳にダメージを受けた人を知っています。 危険に対しての認識が希薄なので、洗剤など見える場所に置いておくと飲む危険がある。 気分の変化にムラがあり 数分単位で変化するので、機嫌がいいからと油断すると、いきなり噛み付かれる。 「主はいます!」と言ったり「主の祈り」と呼ばれる言葉を眉を吊り上げ叫んだりする。 意味のある言葉として使っているのではなく、勝手に口から出てきてしまうのだと思います。 では、その言葉を発する時、その人は穏やかかといえば、いえ、、、、。 怒りの感情を表すときにその音を発するようなので、脳がダメージを受ける前は、その言葉を使うときは人を罰する目的で使っていたため、脳にダメージを受けたあとも、怒りの時にその音が出てきてしまうのだと思います。 その宗教では信仰を自分で確認するとき使うと思うのですが、、、 その人はそうではなく、人を批判する言葉として捕らえていたことがわかります。 脳にダメージを受けたために、人格が変わってしまい、別人になってしまったのか。 理性を司る部分がダメージを受けたため、理性が消えてしまい、他の動物と同じようになってしまったのか。 人間も動物です。 違いは他の動物より ちょっとばかり理性に頼って言動を変化させるようです。 動物のご飯にタクアンが乗っていたので取ってあげようとすると噛み付かれる。 自分のご飯を取られると思って怒るわけです。 脳にダメージを受けた人も、全部自分のもの と思っており、誰の所有かという概念が無い。 執着が無いどころか、全部自分のものだから触るな と怒る。 お菓子を抱えている子供に「この子にも少しわけてあげて」と訓練すれば、他人に自分のお菓子を上げることで、シェアすることで人とよい関係を作ることを学ばせることができ、それはその子の将来 生き易くなる手段を学び、体験し、獲得することになる。 この自分にとって有利となる、分かち合うということが無くなると、人は孤立することになる。 お坊さんが山に入って他人と距離を取る。 執着を絶つための修行をする。 誰のために? 自分のために。 自分だけのために。 見方を変えれば、究極の利己欲望がひき起ったためそうなったとも言える。 つまり執着を絶つとしながら究極の欲望を満たすため。 そのために他を捨ててもかまわない としたとき、人は他者を滅ぼす。 つまり捨てることで、他者がいなくなったってことです。 仏陀だったか忘れましたが、涅槃に登るとき「自分だけではだめだ、他人も救ってあげなければ」と思い 下界に引き返したそうなんですね。 究極の閉じこもった世界のその先に、また他者を求める欲望が芽生えたわけです。 新世紀エヴァンゲリオンもそう。 他者が全くいなくなったとき、主人公は他者の存在を望んだ。 だけどこれは理性を最後まで捨てなかった あるいは 失わなかった人に起こると思います。 脳にダメージを受け理性の部分が破壊されてしまった人は、ある意味そのまま涅槃の世界に入っていくと思います。 その人が神となる。 下界の私達はその人のコロコロ変わる気分次第でオロオロ奔走する。 日本の八百万の神のようです。 どうしてそういうことが起こるのか(突然噛み付かれたり、頭をなでられたり)理由がわからない。 理由がわからないので、人智では計り知れない業だと感じるわけです。 生きたまま仏になる。 とは こういうことなのかなぁ・・・と思ったりします。 家族はその人が怒り出さないように お供えをする。 食べ物を与えると暴走していたのにコロっと笑顔になるということを体験上学んだからそうしているらしい。 それでその人の周りには食べ物がふんだんに置かれている。 で、私達はどんなに学問をやったとしても、脳にダメージを受けてしまったら、<理性で理不尽なことすらも受容する> ということができなくなる。 そして誰も自分がいつ神になるか知らない。 誰にでも可能性はあるわけです。 不退転の悟りを得たとされる人にも起こるかもしれない。 神になるときが。 記憶じゃないと思います。 何故なら神になった人は家族を認識できる。 家族と今まで不仲であったとすれば、家族に常に暴力を振うでしょうけど、確かに殴る蹴るもするが、突然抱きついて愛情を示す行動をする。 だから 判断が記憶に左右されているからじゃないと思います。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。挙げていただいた事例を興味深く思いました。理性とよばれるべきものや一定の記憶が失われても、習慣やその人の行動の原理のようなものが残るのですね。

関連するQ&A

  • 仏教の悟りにレベル?

    仏教の悟りにレベルがあると言う人がいるんですけど、仏教は悟る(仏になる)ための教えであり、悟りは完成を意味してると思われます。それなのに、悟りにレベルがあるというのは間違いではないでしょうか?

  • 悟りを開くとは何ですか?

    私の回答を評価して 頂けると幸いです? 参照! http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q10128943180 私の回答! 質問 悟りを開くとは何ですか? http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q12128919567 自分自身を 偽りなく直視する事が出来 る事が 悟りであり、 全ての生き物が 自分の近親者の様に感じる事が 悟りであり、 自分自身が 幻想の世界(夢)に 生きている事を自覚するのが 悟りであり、 全ての物事の儚さと尊さに 気付く事が、 悟りであり、 悟りを開くと 過去(記憶)と未来(妄想)ではなく 現実の一瞬を生きれる様に成れる! しかし 副作用として 悟ると言葉が必要無くなるので、 言葉を徐々に忘れていきます。 過去への執着心が無くなるので 物事を記憶しなくなります、、、 、、、、、、、、、、 全てを悩みを 解決出来る様には成るが、 身体から解放されない為に 全ての苦しみを超越出来る死を 恋い焦がれる様に成る! 悟った後の苦しみについて? http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11125327881

  • 坐禅 仏教でいう悟り 

    数年前から神経症(対人恐怖症)になってから仏教に関心をもちました。今では坐禅が一番近道であり、むしろ神経症の解決だけではなく全ての迷いの解決策ではないのかと思っております。だから神経症になったのはむしろ幸運なのかもしれない。 悟りなどというとなにを寝言をと言われる方もいるかもわかりませんが、私は古来から先人が証明してしてますので(先ずはお釈迦さん)あると思います。 それは全く神々しいものではなく、輝かしい世界が現前するのでもなく、ああそうかなるほど!という気づきのようなものだと思います。いくら理屈で説明しても理解できるものではなく坐禅によって悟れるものだと思います。お釈迦さんだってただの歴史上の人間です。2,500年ぐらい前のインドらへんに住んでいたただの人です。達磨さんだってただの人。道元さんだって良寛さんだってただの何年か前にいた日本人ですね。だからね、誰でもできると思うんですよ。悟りなんて言葉がちょっと日本人には胡散臭く感じることもあるんでしょう。私もそうでした。そして今は曹洞宗では坐禅しても何もならない、坐禅が悟りだといってますね。そんなことあるわけないですよ。そんなことお釈迦さんや先人たちが命がけで伝えてきたと思いますか?私はそういう人はただの言い訳としか思えません。または精神安定の為になどと。。そんなものは医者が処方してくれる薬のほうがよっぽど簡単でいい。お経を意味も解らずありがたがったって何にもならないと思うし、先人に笑われます(号泣されます)悟った人は現代にも少なからずいます。坐っている姿が悟りである。などと曹洞宗本部が言ってるから、永平寺の一番偉い坊主が言ってるから正法だなどあまりにも安易だと思います。曹洞宗は改めたくとも、本当のことを説ける人が少なすぎる。世襲坊主の集団でしょうか。それでもまだ坐禅が悟りだというなら、仏教を名乗るのはやめて、坐っている姿が悟り宗に改宗にしたほうが良いと思う。これじゃあ折角苦労されて伝えてこられたお釈迦さんや先人達に。 私のように思われている方いらっしゃいますか?

  • 悟り

    仏教的悟りやキリスト教的悟りなど、悟りにも色々と定義があると思いますが、 自分というものを完全に客観的に見れるようになり 自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか? 現代的に言うとメタ認知ですかね?

  • 悟りを開くとは

    仏教用語「悟りを開く」とはどういうことですか。仏教の知識が無い人に分かるように説明してください。

  • 仏教徒が修行するのはもう生まれてきたくないから?

    仏教に興味がある初心者です。 仏教やヨガの修行をしている人は輪廻を脱するために修業するそうですが、 やはり悟りを目指している方はもう生まれてきたくないとかんがえているのでしょうか? 一切皆苦という有名な言葉がありますが、これが仏教の根本となっているのでしょうか? 仏教徒が妻帯を禁止されているのはこのあたりの理由もある気がします。 つまり、新しく生まれてくる子供のことを考えると生むべきではないと考えての事なのかもしれないということです。 ちなみに私個人としては人生は辛いことが殆どで、もう生まれてきたくないと思っていますが、 世間の人はそう考えているようには思えません。 すくなくとも大多数のひとは生まれてくることが素晴らしいことのように捉えていると感じています。 長くなりましたが、仏教やインドの思想に詳しい方の回答をお待ちしております。

  • 悟りとは

    悟りを開いた状態と言うのはどう言う状態なのでしょうか? 「悟り」という言葉は仏教でよく出てくるように思うのですが、他の宗教でも似たような概念はあるのですか? また、悟りを開いた方は実際この世に現存するのでしょうか? 「私は悟りを開いている」という方がいらっしゃいましたら何故そう思うのか、単なる思い過ごしでない事を示してください。 悟りを開いた所以なども教えていただけるとありがたいです。 宗教関係の方はどう言う宗教なのか、専門家の方は何の専門家なのかお知らせの上、お答え頂ければと思います。

  • 仏教においての祈る意味とは?

    最近チベットに行き、チベット仏教に触れてきました。日本でもそうだと思いますが、現地では僧も一般の人も仏像や寺に向かって、お祈りをしていました。 それを見て不思議に思ったのですが、仏教はキリスト教やヒンズー教と違って、仏様は神ではないですよね?キリスト教みたいに神がいたら、お祈りをして救いや答えを求めたり出来ますが、仏様は仏教徒にとって、煩悩を克服し悟りを開いて目指す存在なのに、仏教徒は仏様に対してどんな思いをこめて祈ってるのでしょうか?チベット仏教も日本の仏教も大乗仏教なので、祈りの意味の理由は似ていると思いますが、だれかご存知の方、お教え下さい。

  • 仏教の教えを時系列で見ていると後半の時代の高僧は過

    仏教の教えを時系列で見ていると後半の時代の高僧は過去の高僧の悟りの書物に足を引っ張られて、自分自身の悟りの境地を疎かにしている風に見える。 過去の高僧の悟りの書物を引用する量が後半の高僧ほど多くなっていて、自らの悟りが過去の高僧の悟りに縛られて矛盾していたり、自分の言葉でないので説得力が昔の高僧より欠ける。 他人の悟りが自分の悟りと合致することは、同じ人生を歩んでいない限りあり得ないので、自分が修行で悟りを得た自身の体験談を書く昔の高僧の方が優れた教えだと思う。 引用が多い書物ほど自分の意思がないので仏本を読んでていても親鸞の書物でも質が悪いという感想しか残らない。 何が言いたいかと言うと大乗仏教より小乗仏教こそ本物の悟りであると自分の中で結論が出た。 大乗仏教はそれほど優れた教えではない。

  • 悟りを開いたお坊さんはどれ位いるのですか?

    仏教のお坊さんで悟りを開いたお坊さんはどれ位いるのでしょうか? 高僧と言われる人は悟りを開いた人なのでしょうか? 悟りを開いたお坊さんとそうでないお坊さんはどこでわかるのでしょうか?