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聖書は信じていますが、教会を信じられません

ここ数年、聖書を愛読しています。神の存在も心から信じることができます。 ですが、キリスト教の教会に行ったり、どこかの教派に属する気になかなかなれません。 聖書では、旧約、新約にわたって厳しく「偶像」を禁止しているように思います。 ■使徒17:16「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。」 自分がまだキリスト教をそんなに勉強していない時に、一度友達にカトリック教会につれていってもらったことがありましたが、壁に十字架に掛けられたイエスの像があったと記憶しています。こういうものは偶像にあたらないのでしょうか。 また、 ■マタイ23:5「そのすることはすべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」 ■マタイ23:9-10「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」 のくだりは、今の重厚な地位階層を持ってしまっている教会や、例えばカトリックのローマ教皇のいでたちなどを痛烈に批判しているようにも思えます。 いっぽうで、WEBで見かける教会の方の手による聖書の講釈の記事などはとてもすばらしく、いつも愛読しています。 さらに、使徒言行録にある初期の信徒の働きをみれば、「教会に属さねば」という気にもなり、まずはどこかの教会に行ってみようと思っています。 ずばり、どの教会へ行けばこういった迷いが氷解するのでしょうか。 それとも、すでに教会に通ってらっしゃる方もこういった悩みを抱えているものなのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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  • makochi
  • ベストアンサー率38% (496/1279)
回答No.1

「無教会主義」という信仰の実践の形もあります。 古くは内村鑑三などが日本で提唱したものですが、「無教会主義」という字面だけで判断されないでください。 実際の信仰のありようは、貴方自身が獲得してゆかれるものですから。 やはり、近くの教会へ実際に足を運ばれることも大切です。 キリスト教における教会の役割は、貴方が質問文に挙げられた問題点よりも更に多くの素晴らしい点でもって、信仰のありようとして維持と発展をみてきています。 日本の既存の教派・教会の多くも、日々貴方の感じられた疑問と闘っているのですから。 ルーテル教会、パブテスト教会などの教義も、その疑問に示唆を与えてくれることでしょう。 参考URLに「教会」を挙げておきます。辞書的な記述ですが、何かのヒントになれば幸いです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E4%BC%9A

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E4%BC%9A
mozuku1975
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分がキリスト教に深く興味を持ったのも内村鑑三の本を読んだからでした。 なので、暗に影響を受けてしまったのかもしれませんね。 ただ、内村鑑三も若い頃は教会を作ったりしていたとのこともありますし、makochiさんがおっしゃるように教会と関わることはよい経験になりそうに思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.3

>壁に十字架に掛けられたイエスの像があったと記憶しています。こういうものは偶像にあたらないのでしょうか。 カトリックの定義として、十字架、または十字架に架けられたイエスを崇拝しているのではなく、それは単に神のいる方向の目印にすぎないとされています。 つまり、十字架そのものを拝んでいるのではなく、十字架を窓口として神を拝んでいるので、偶像崇拝にはあたらないというわけです。 また、崇拝の対象は、神のみで、キリストには礼拝を、聖人には崇敬を、聖母マリアには超崇敬を行う事になっていますので、十字架のイエス像に礼拝を行う事もできます。 >教会や、例えばカトリックのローマ教皇のいでたちなどを痛烈に批判しているようにも思えます。 こういうところから、宗教改革が起こったのですから、質問者の考え方も、ひとつの真実でしょう。 >どの教会へ行けばこういった迷いが氷解するのでしょうか。 ご自分で地道に探すほか無いと思います。 ただ、質問者の方の基本的な考え方は、福音派に近い考え方だと思われますので、福音派系の教会がよろしいかと思います。 日本での福音派系の教会は、日本福音同盟に加入している教会がほとんどですから、日本福音同盟 http://www.jeanet.org/ に問い合わせすると、ご近所の教会を紹介してもらえるかと思います。 また、メノナイト系の教会も候補にしてもよいかもしれません。

参考URL:
http://www.jeanet.org/
mozuku1975
質問者

お礼

カトリックでの十字架の解釈を教えていただき、ありがとうございます。 礼拝、崇敬、超崇敬の違いはまだわかりませんが、きちんと区別をしているということだけは理解できそうですので、ずいぶん整理できました。 こういう問題が宗教改革の時にも話題になるほど深い問題だとわかり、これはひとりで考えて答えを出すには大変だということもよくわかりました。 福音派というのは初めて知りましたが、どういう所なのか、これから調べてみようと思います。

noname#39934
noname#39934
回答No.2

こんにちは。 私自身浅学で恐縮なのですが、 聖書を一度でも読んだことがある方であれば、「教会はおかしい。聖書と矛盾している」と感じるはずだと思います。(はじめて聖書を読んだとき、私は歴史上の教会とパリサイ人がかぶってしょうがありませんでした。) キリスト教自体結局政治がらみで発展してきたものですから、創始者の考えにそぐわないところがあるのもしかたないのでしょう。 ただ、教会という場所にはそれなりに意味があるとと思います。 教会という場所は、信仰を持たない人でもその荘厳さに心を打たれるような、神の存在を感じるような、「目に見える」インパクトがあります。そこから、信仰に目覚めていく人もあるでしょう。 信仰を持つ人にとっても、疲れたときによりどころとなる「現実の場所」があるということは、心の支えになるでしょう。 そういう意味で、どんな教会も、ないよりあったほうがいいのかなと考えます。 また、洗礼を受けるなら、どこの教会というよりも共感できる牧師さん・神父さんのいらっしゃるところを探すのがいいのではないでしょうか。 とはいえ、組織に属すといろいろしがらみもあることは確かです。 個人的には、教会に属すると聖書について「教会の解釈」を取らなければいけなくなるのがつまらないかな、と思っています。 神とキリストに帰依することは、洗礼を受けなくても自分の心だけでできますし、迷いがあるのなら、まだ洗礼は受けなくてもいいのではと思いますよ。 私も受ける予定は今のところありません。

mozuku1975
質問者

お礼

自分が感じた疑問と同様の疑問を持つかたがいらっしゃることを知り、少し楽になりました。 それでも、教会の意味がおっしゃるような「現実の場所」があることは、このうえない価値だと気づかされました。 もし教会がなければ、自分が苦しいときに心細くなるかもしれません。 自分一人で信仰がゆらいだときに、支えとなるものが見つからないかもしれません。 いろいろしがらみはあるのかもしれませんが、焦らず、かといって毛嫌いもせずに神の御心におまかせしてもいいかもしれませんね。

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