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豊臣秀吉の「バテレン追放令第10条」と奴隷貿易をしていたキリシタン大名・天草四郎
徳富蘇峰の近世日本国民史に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっています。 『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』 改宗ユダヤ人であるザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(同じく改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。 キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタンの悪行が世界に及んでいることが証明されよう。 『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万もいるという。 肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。 鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。 ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』 豊臣秀吉は準管区長コエリヨに対して次のように命じています。 『ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。 従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ。』 2002.7.9日付北國新聞の「バテレン追放令」も当時の「宣教師達による日本人女性人身売買」について触れています。 豊臣秀吉のバテレン追放令第10条の「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止」を紹介し、次のように述べています。 『バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった。』 豊臣秀吉は、この奴隷狩りを止めさせるために、イエズス会の司祭、コエリュに詰問しています。 「九州に来る西洋の商人たちが日本人を多く購入し連行していることをよく知っている。いままで誘拐して売り飛ばした日本人を返せ。それが無理なら、ポルトガル船に買われて、日本にいる監禁されている日本人だけでも開放しろ。そんなに金が欲しいなら、代金はあとで渡す。」 これにコエリュが答えて 「日本人売買の禁止はかねてからのイエズス会の方針である。問題なのは、外国船を迎える港の領主(キリシタン大名や天草四郎)であり、厳しく日本人の売買を禁止しない日本側に責任がある。」 このやり取りで、秀吉は激怒し、奴隷売買禁止令を発します。 天草四郎があれだけ最新鋭の鉄砲で武装できたのも、奴隷狩りの豊富な資金があったからです。 彼らは現在の絵や小説やドラマに描かれているようなムシロ旗に竹槍の武装などしてないんですね。 鎧を着て、銃で武装した組織的武士団です。 戦前までは、この事実はよく知られていたそうです。 そのため、古い物語などに出てくる天草四郎は魔回転生に出てくるような化け物として描かれています。 しかし、戦後はあべこべに日本人がキリスト教徒を迫害したのだと教科書で教育しています。 奴隷貿易で子供や女性を連行されたのは日本人の方なのに。 日本の歴史教育ではキリシタン殉教者の悲劇は教えます。 しかし、天正少年使節団が報告した日本人女性50万人が奴隷として売買されていた悲劇を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇を、どうして教えないのでしょうか?
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- kigurumi
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以前、今回と同じケースで、私の場合は売られた人が信者だったのか、信者ではなかったのか 知りたくて質問しました。 まず、今の倫理観と昔の倫理観は違ったようです。 現在は人権問題があり、人身売買は非道とされていますが、近年までは人ではなく物という考えで取引されていたようです。 戦に負ければ、負けた側は勝った側の奴隷となっていた。 奴隷産業は、大きな利益をもたらしていたようです。 http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html 質問者さんが驚いた理由は、異邦人に愛と救いをもたらすことを神に召命されたはずの神から選ばれたはずの人々が、人を奴隷として売買して金儲けをしていたということですよね。 アメリカが奴隷制を廃止したのが、1965年でそれまで宣教師も奴隷を持っていたそうです。 今の倫理観と違っていたので、愛と救いをもたらすといっている集団であろうが、関係なかったように思います。 確かに宣教師とバテレン商人が、日本の一部の勢力と商売をしていたようですが、彼らに日本人を引き渡していたのは、日本人ですよね。 宣教師が夜中に民家に押し入り、誘拐していたわけじゃなく、日本人の仲買人が民家から買って、バテレン商人に売っていたのだと思います。 仲買人は信者でもなかったと思います。 それを指揮していたのがキリシタン大名だとしても、彼らも日本人。 今の倫理観と違っていたので、宣教師もバテレン商人も日本人仲買人もキリシタン大名も、人を家畜として売ることになんの罪悪感も無かったのだと思います。 秀吉が激怒した理由は、 「検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。」だと思えます。 秀吉は哀れに思ったというより、九州勢力が大量兵器を使って攻めてきて動乱を起こされることを危惧したからだと思います。 秀吉の朝鮮討伐の際に、やはり日本の商人が、多くの朝鮮人をポルトガル商人に売っていたようです。 秀吉自身が指揮していたという痕跡はありませんが。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93 【天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布。十条で日本人奴隷の売買が禁止される。】 つまり日本人が奴隷として売られることは禁止となった。 【慶長元年(1596年)、宣教師側で奴隷の売買が禁止される。】 これに関しては、宣教師がどうして奴隷売買を禁止したのかはわかりません。 悪いことだという認識があったのなら、商人がやっていたことをそれまで黙認しなかったはずです。 >ヨーロッパ各地で50万もいるという。 これは実際数を数えたわけではなく、人からそう聞かされたということですよね。 その情報は奴隷商人からなのか、宣教師からなのかはわかりません。 宣教師が日本人を奴隷として売っていた仲間の商人から、今までどれだけ売ったのか聞いたからなのか わかりません。 50万人。 当時の人口からして数が多すぎます。 宣教師がマージンとして取っていたら、商人が50万人の日本人を売ったといったのなら、いくらキリスト教側にマージンが入ったのか記録に残っているはずですから、実際に数より多い数を言われたのであれば、着服されていたとなり、問題になったと思います。 従って、これは同行していた宣教師側から聞いたのではなく1582年、マカオで風を待っている間に、ポルトガル商人の日本人人身売買の実態をみることになり、そこで現地の業者から聞いたのではないかと思います。 現地の人からすると、中国人も日本人も朝鮮人も区別がつきませんから。 船で仕入れて、何十人 という単位であって、日本人何人、朝鮮人何人 と数えてはいなかったと思えます。 何故歴史の教科書に残さないのかは、日本もやっていたから。 人身売買についての歴史ではなく、異国との関係についての箇所だから。 知りたい人は、もっと詳しく調べれば、何故秀吉はバテレン追放・宣教師の国外追放をやったのだろうと調べていくうち、人身売買に関与していたことがわかると思います。 そしてそれは禁止されないと防げなかった。 不文律ではなく有文書で、日本人の海外への人身売買は禁止です と法律で定めない限り、輸出は続いたんですね。 それでも断続的に明治頃まで続いていたようです。 某宗教団体が人身売買に関与していたことは日本に限らないようです。 http://www.janjan.jp/culture/0510/0510023239/1.php http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2005_doreiboueki.htm 【当時の聖俗の支配権を持っていた教皇アレキサンドル6世らが、神学的に奴隷制度を正当化し、容認したからである。】 どうして今まで信者は疑問に思わなかったのか? どうして信者は奴隷を買っていたのか。 わかりません。 しいて言えば、彼らの信仰する神が心変わりをして、それで今では非道とされる今の価値観と一致することになったのでしょうか。 教皇は神の声を直に聞ける神の代弁者とされている。 声が聞えていなかったのか、神が心変わりをしたのか。 普遍。。。。 普遍というのはコロコロ変わるという意味だったのでしょうか。 人間って本当に悲しい生き物ですね。 なんら動物と勝るところはない。 売る側も金儲けする側もそれを黙認した側も奴隷を買っていた信者も獣。 彼らに救いは無かったからこうなったのでしょうね。 救われるべきは、奴隷として売られた人たちではなかった。 救うとされる人たちが、本当は救われなければならない側だった。 このようなことは 歴史の教科書ではなく倫理の時間にみんなで考えるものだと思います。
- tiuhti
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50万人はちょっと後に回して、『南蛮貿易』で日本人奴隷が売られていったのは、事実です。↓の書評の中ほど、「海を渡った日本人奴隷」というところをご覧下さい。 http://www.trpg.net/user/akagane/diary/200307xx.html では、なぜキリシタン弾圧が教えられ、日本人奴隷の事が教えられないかというと、話は簡単、歴史の流れを知る意味での重みが全然違うからでしょう。キリシタン弾圧は、鎖国への流れの一貫の中に位置づけられますが、南蛮貿易での人身売買は、そういう意味を持ちません。「歴史上の事実」とは、そういう選択の結果として残ったものを言います。(そこらへんのところは、イギリスの歴史家E・H・カーの「歴史とは何か」という名著が新書で出ていますから、ご興味があれば、是非お読み下さい。) 「こういう悲劇がありました。こういう悲劇もありました」って取り上げていく事が歴史なのではありません。個人としての考え方は色々あるかも知れませんが、とにかく教科書は、通常は学者が書いていて、学者は、意識するかどうかは別にして、歴史という学問を、そのように取り扱っていますから、その結果としての教科書も、『歴史上の事実は選択の結果』という考え方に沿ったものになります。日本人奴隷が売られていったという事は、秘密でもなんでもなく、様々な資料でわかっている事ですから、一般人を対象にしたこの時代の通史を書いた本なら載っているでしょう。だけど、教科書にそこまで書くかどうかは、著者の判断だし、限られたVolumeからして、載っていないと変だ、というほどのものではないでしょう。 『載っていないのはおかしい!』と思う前に、普通の歴史家は、その事実の重みをどう考えるかって事を先に考えた方がいいですよ。 さて、ご質問の元ネタは、↓のサイトもしくはそのコピペと思いますが、あっていますでしょうか?。 http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400 そうでなくとも、↑のブログの内容の、更に元ネタの1つは、↓なんでしょうか? http://www.christ-ch.or.jp/4_torinashi/back_number/2005/2005.04.pdf 独創的な説で、かつ細部に渡って合致するので、そうだと考えて、話を進めます。この内容については、以前、他の方に回答した事があるので、ご参照下さい。↓ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2482395.html 細かい話にいくと、上にリンクを入れた回答とダブりますが・・・ 「秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録」というのは、秀吉の祐筆だった大村由己の「九州御動座記」の事でしょう。秀吉の祐筆ですから、秀吉の宣伝としての意味があり、書いてある事をそのまま鵜呑みにするような事は、学者だったらしませんが、南蛮船の奴隷貿易については、他にも史料がありますから、奴隷貿易自身を疑う理由は全くありません。従軍記者という説明が、かなり奇異なだけですね。(しかし、九州御動座記からの引用が、徳富蘇峰の本からっていうのも、かなり珍しいですね。原典が何か確認しないのだろうか??) >改宗ユダヤ人であるザヴィエル ザビエルは改宗ユダヤ人ではありません。アルメイダが奴隷を売りさばいたボス中のボスというのは、アルメイダが宣教師になる前に、貿易で巨額の富を得ていた、という事からの推測でしょう。100%とウソとは言いませんが、奴隷貿易を専らしていたかのように、受け取ったら、それは間違いです。質問者の方に辿り着くまでの間に、「ザビエルやアルメイダは、ユダヤ人、よって、金儲けに熱心」という印象を与えたがっていた人が存在したと思われます。因みに、ザビエルが金儲けの指示を出しているのは、イエズス会も、寄付などだけでは布教活動が出来なかった為です。 >天正少年使節団・・・その報告書 これは、『天正遣欧使節記』の事でしょう。たしかに、その中に日本人奴隷については書いてあります。(↓) http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060313#p2 しかし、↑のブログの作者が調べた限りでは、50万人云々といった記述はありません。そもそも、当時の日本人の全人口は、1200万人ぐらいでした。(↓) http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2004/html-h/html/g1110030.html 女性は半分として、かつ幼児や中年以上は奴隷に向かない事から、更にその半分が奴隷の対象と考えると、300万人、更に、秀吉や家康が独占しようとした生糸の輸入が主に中国から来ていたという有名な事実からして、南蛮貿易とは言いながら、相手国は中国やアジアを含むというのが、基礎的な知識だから、奴隷供給地だった中国は別にしても、ヨーロッパ以外のところにも相当数売られたと考えるべきです。加えて、他の方も言われたように、輸送途中で死んでしまう率も結構あります。300÷50で、奴隷対象の6人に1人が実際に奴隷になった、というのは相当控えめな計算だと思いますが、そこまで女性がとられたら、かなり長い間歪な人口構成が続いたでしょう。そんな形跡ありますか? つまるところ、本当の元ネタであろう、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(本職は竹工芸家の人が書いた、「終戦当時に、マッカーサーとカトリック教会が、昭和天皇を改宗させ、日本をカトリックの国にしようという陰謀を企んだ」という本)を見てみないとわからないのですが、その本に「天正少年使節団の報告書」と本当に書いてあったのなら、著者は本当に天正遣欧使節記を読んだのかね、と思います。ヨーロッパ人が著者で、少年使節の対談の形式をとっている使節記を、使節団の報告書と思えるとしたら、相当変わった人ですね。 というわけで、質問者の方が見たネット上のネタは、『トンデモな人が、トンデモな本を読んで、トンデモな説を述べたのが、更にネットでコピペされていくうちに、トンデモ度が加わっていったもの』と思います。コピペはPCだけにして、頭の中ではしない方が無難ですよ。 おまけですが、島原の乱を「ムシロ旗に竹槍の武装」というイメージで理解するのは、確かによくありません。他の方が回答したように、浪人とか旧国人層がかなり参加していますから。でも、『鎧を着て、銃で武装した組織的武士団です」っていうのは、間違いです。乱後極端に人口が希薄になって、わざわざ移入させたのが当時の記録でわかっていますから、もし組織的武士団だったら、何故かあのあたりだけ、武士ばっかり住んでいた、って事になってしまいます。それに、組織的武士団って事が戦前には良く知られていて、それが戦後になって農民一揆というイメージに変わったのでは無くて、流れとしては、(江戸時代は別にして)、一般的には「農民一揆」というイメージが続く一方で、学問の世界では、益々旧国人層などの参加が強く認識されるようになってきたんですよ。 『魔界転生』でも、島原の乱は百姓一揆だったと思いますけど?なんか、「戦後になって、事実が捻じ曲げられた」というご自身の考え方に沿って、事実と違う方向に行ってしまっていませんか??
- frisk_blue_love
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>悲劇を、どうして教えないのでしょうか? その資料に説得力が無かったから、でしょう。 質問者さんの挙げられた資料ですが幾つかの疑問点があります。 >近世日本国民史に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっています。『キリシタン大名<略>わめくさま地獄のごとし』 この現場はどこだとお考えですか? バテレン追放令は1587年で朝鮮出兵は1592年です。1592年より以前に火薬は国産可能でしたから「火薬一樽=奴隷50人」というレートは、この頃ではあり得ません。では何故「朝鮮出兵従軍記者の見聞録」なのでしょうか? 天正少年使節団(1582年出発)の記録とされている文章ですが・・・ >『行く先々で日本女性が<略>ヨーロッパ各地で50万もいるという。<略> 1543年にポルトガル人が種子島に漂着・・・1543年から1582年の39年間にどうやって50万人もの日本人をヨーロッパに移送できるのでしょうか?1年に13000人以上=100人運べる船130隻フル稼働・・・参考までにスペインの無敵艦隊(1588年)が130隻でした(130隻に約3万人を乗せていました)仮に、無敵艦隊が「乗組員無し」で運航したとしても17回往復する必要があります。よって、当時の航海技術では40年弱で50万人の輸送は不可能だと思われます。 更に、戦国末期の太閤検地での石高を元に算出される日本の人口は約1000万人です。(石高=養える人口としての概算)半分が女性として500万人。50万人という数字はその10%です。(飢饉や疫病で人口の5%が被害にあっても地域は荒廃します。女性が10%もいなくなったらどうなります?) もう一つ >白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。 「文明」という語は明治時代の造語です。我々や蘇峰には書けても天正時代の人には書けないのでは?(天正時代にも仏教用語で立破文明という語はありましたが、まったく意味が異なります) なので、これらの資料に信憑性が感じられないのです。 とは言え、日本人奴隷が皆無だったとは思っていません(1608年にリマで行われた人口調査で日本人20名~男性9名、女性11名がいたとされています。彼らはおそらく奴隷として連れて来られたのでしょう=貿易商などならリマに住む必要皆無ですから) しかし、質問者さんがお嘆きのような規模では無かった、と私には思えます。 可能なら史料の原文を調査してみては如何でしょうか?
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
>天正少年使節団が報告した日本人女性50万人が奴隷として売買されていた悲劇を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇を、どうして教えないのでしょうか? それはですね、簡単な理由です。↑の話が根も葉もない捏造された話だからです。 まず、天正遣欧少年使節団がヨーロッパで日本人の奴隷を見たって話ね。使節団はヨーロッパで大歓迎されました。なぜなら、当時のヨーロッパの人は日本人を見たことがなかったからです。 使節団は1582年に長崎を出て、リスボンに到着したのが1584年です。丸2年以上かけて到着しています。いくら奴隷といっても、2年もかけて運んだらその間の食費だけで大変です。それに奴隷だから衛生状態も悪いし、栄養不足とストレスで病気にかかってばたばた死にますよ。ずっと後の江戸時代に大黒屋光太夫という人が漂流してロシアを横断して日本に帰国しましたが、始め10人以上いた漂流民のうち再び日本の土を踏めたのは光太夫を含めてたった2人でした。それでも彼らは「難民」として(当時としては)手厚い保護を受けていたにも関わらずです。 生きて50万人も送ったなら、何百万人も日本から連れて来ないとそんな数にはなりません。 また、使節団の報告書なるものがでっち上げです。使節団が帰国したとき、既に日本はバテレン禁止令が出ていました。帰国した彼らに居場所はなかったのです。それに、使節団のリーダーである伊東マンショは帰国後に神学を学ぶために再びマカオに行ったりしています。ヨーロッパ人のひどい行いを目にした人がなぜ再び神学を学ぶために海外留学したのでしょう?つじつまが合いませんね。 >古い物語などに出てくる天草四郎は魔回転生に出てくるような化け物として描かれています 当たり前です。江戸時代はキリシタンは禁止です。天草四郎を英雄視するようなことを書いたら一族郎党厳しく罰せられますよ。 この話はあっちこっちでたまに目にするんですが、どれも資料をたどると徳富蘇峰の近世日本国民史にたどり着きます。そして、徳富蘇峰が何を元にこの話を書いたのか、その元ネタが全く不明なんです。そもそも、江戸時代にはキリシタン禁止令が出ていたので天正遣欧使節団の存在は江戸時代には日本でも記録が抹消され、忘れられていたのです。 ではなぜ徳富蘇峰はこんな嘘っぱちを書いたのかというと、彼は非常に熱心な右翼的愛国者でした。そして、その思想は嫌米嫌欧でした。昭和初期に既に歴史家、思想家として有名人となっていた彼は反アメリカへ世論をリードすることに大変な功績をあげたそうです。要するに、「ヨーロッパ人はこんなにひどいことをする連中なんだ」といいたかったためにちょっと嘘を織り交ぜたのです。 嘘を学校で教えるわけにはいかないでしょ。
- wsws
- ベストアンサー率9% (256/2568)
宗教についてを考えさせないようにしているからだと思います。 天皇にも波及します。 キリスト教への言及も怖いですがこちらも怖いです。
- a-koshino
- ベストアンサー率23% (102/441)
戦国時代、北九州の港から男女多数の奴隷が売り飛ばされたのは事実ですが、秀吉に対する宣教師の回答、「日本人がこれを売るからだ」というのも事実でした。合戦における人取りは日常化しており、人取りをして銭を稼ぐため兵になる者までいたとか。さらに「子を売り親を売り妻女を売り候由」などという場合すら。 合戦で逃げ遅れた者たちを捕らえ、奴隷として売り飛ばす習慣については、藤木久志「雑兵たちの戦場」に詳しいです。日本人として、あまり胸を張れる過去ではないので、教えないのでしょうかね。 ただ、島原の乱で一揆側に鉄砲があったのは、改易された小西・有馬・加藤家の浪人が多数参加したからでしょうか、農民が狩猟用の鉄砲を持って参加したかもしれません。いずれにしても、撃ち慣れた者の鉄砲だけが役に立つので、鉄砲を買い集めただけでは戦力になりません。
- suicyo
- ベストアンサー率43% (83/193)
人身売買って、たぶん近代までは多かれ少なかれどの国にもあったん だろうと思いますが、確かに日本史では「飢饉による農村の疲弊‥」 云々でしか聞かれませんね。 島原というと、島原の子守唄に唄われる「からゆきさん」が思い出さ れますが、南蛮貿易による人身売買も横行していたことは、学生の頃 (20年前)に岩波新書か何かで読んだ記憶がある程度で、確かに一般 には知られていないと思います。何故でしょうね。 徳富蘇峰の近世日本国民史は読んでいないので、内容の詳細について はコメントできる立場にないのですが‥ ただ、豊臣秀吉と島原の乱の「天草四郎」を同じ時系列で論ずること はできないにせよ、天草の本渡には古くから天草氏という有力な国人 (小大名)がいて、キリシタン領主で南蛮貿易に関与していたことは確 かだし、江戸時代になって没落した天草氏一族や家臣たちが島原の乱 に参加するのも自然の成り行きだと思うので、その辺りの時系列に 若干の錯綜があるんでしょうね。 天草氏で検索したら↓がヒットしました。↓
あのぉ、天草四郎は秀吉の没後に生まれているので、秀吉の詰問に対して「天草四郎が云々…」と答えるのはあり得ないですw
補足
文章を正確に読みましたか? 秀吉の詰問に答えたのはコエリュですよ。 「問題なのは、外国船を迎える港の領主(キリシタン大名や天草四郎)であり、厳しく日本人の売買を禁止しない日本側に責任がある。」 の部分を言っているのであれば、()は分かり易いように、私が付け加えた個人的な例えです。 コエリュは“キリシタン大名”“天草四郎”などの単語は言わないでしょう。 ※この文章に対する20wさんの返事は結構です。