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歴史の得意な方、教えて下さい!

長岡京に都が移った後も、平城京では都城 としての機能がすぐに廃絶しなかったのは 何故なのでしょうか? どなたか詳しく教えて下さい。よろしくお願いします。

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  • aster
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回答No.2

  桓武が色々な理由から遷都を決意したのは事実ですが、長岡京は、現在の京都市向日から長岡京市あたりにあり、この領域は、確かに淀川が流れていますが、平野部としての面積はかなり限られています。 それでも本格的な都城を建設しようとしたことは、近年の発掘で分かって来ましたが、しかし、遷都工事責任者の藤原種継が暗殺されたり、自然災害(洪水)が起こったり、天皇の近親者でも死亡する者が出たので、そのことと、建設を進めるにつれ、都として不十分な土地だと分かった為か、建設を途中で断念したようです。 遷都というのは、徐々に首都機能を移転し、単に、朝堂とか、役人の住居を造り、そこに主要な役人が移動しただけでは完成しないので、設計にあった都城に人民が移ってきて、色々な意味で首都機能を果たさねばなりません。 (聖武が、大仏を造ると勅を出しても、すぐ大仏ができたのではなく、完成までに、それから1世紀近くかかっっています。長岡京遷都も、遷都と勅を出せば、すぐ遷都とは行かないのです。未完成の場所では、首都機能は果たせないでしょう)。 この移転途上で挫折したので、奈良に、首都機能が、そのまま残っていたのです。これは平安遷都の場合は、初期二、三十年間程度はそうだったと思います。 奈良盆地には、2世紀前の飛鳥時代から、諸天皇の宮があり、正式に都となってからも1世紀経過しますし、天智・弘文の時、大津京に遷都し、聖武の時、転々としたとは言え、結局、平城京・奈良盆地に、ずっと都が置かれていました。 奈良盆地には、それだけの広さがあったのですが、古いだけに、寺院勢力も巨大で、しがらみもあり、自由な自分の治世を構想していた桓武は遷都を決意したのでしょうが、以上のような理由で、放棄したのだと思えます。 平安の地というか、京都盆地は、風水思想的にも確か理想的な地形をしていたはずで、水上交通のための河もあれば、かなり広い面積の平地もあったので、ここに、長岡京の建設材料を移し、平安京建設へと進んだのでしょう。移転に成功したので、首都機能はやがて、ほぼ完全に平安京に移ったのです。 実際、平安京は、色々な意味で、地理的条件がよく、以降、明治維新に東京に遷都が行われるまで、首都であったのです。 以下の参考URLでは、長岡京を、高く評価していますが、二百年以上、短くても百年の歴史を持ち、大仏殿まである平城京は、歴史の厚みを持っており、何もない処に、いきなり新都建設と言っても、十年ぐらいでは、形を成さなかったでしょう。 大津京は、まだまだ規模が小さくてもよかったので、遷都が可能だったのでしょうが、長岡の地では、都として、狭いとも思えます。無論、平安遷都も、当初は、左京、右京と均等に分けたものの、左京には、誰も住んでおらず、名前ばかりで、山野の続きのようであったとされます。 >幻の都長岡京 >http://www.joho-kyoto.or.jp/~nagaokac/maborosi.html  

umiumi0111
質問者

お礼

aster様  丁寧なご回答有り難うございます。 本当にasterさんて物知りな方なんですね!これからもよろしくお願いいたします!

その他の回答 (1)

  • jingilu
  • ベストアンサー率28% (169/597)
回答No.1

未完成なまま遷都されたということ。 遷都直前から続いていた川の氾濫による泥濘地化で、今で言うところの「首都機能移転」が困難になったということ。 その他いろいろ(崇りがあったの、どうのとか)では無かったっけ?

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