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乳母一族の専横

sarunami09の回答

回答No.6

江戸時代においては、2代将軍秀忠の乳母・大姥局、3代将軍家光の乳母・春日局、4代将軍家綱の乳母・矢島、5代将軍綱吉の乳母・近江、11代将軍家斉の乳母・大崎、13代将軍家定の乳母・歌橋などが知られています。 将軍の権威を嵩に着て大奥の実力者となった者が多く見られますし、政治力を活かして諸大名と関わりを持ち、幕政を動かしたものもいます。 当然、将軍の身内ですから、親族(特に男子)は士分に取り立てられることもあったでしょう。 > 江戸時代においては、乳母は、覆面をして授乳したそうです。それくらい乳母の存在を削除する方向で頑張っています。 というのは誤りではありませんが、乳母の存在を消すためではありません。 乳母が覆面をして授乳したのは家斉の時代であり、その子女が40人以上もいたために乳母となるべき女性を上流旗本家から迎えることができなくなってしまったのです。 そこで下流旗本家や御家人その他の身分の低い家柄の女性を乳母としたわけですが、その乳母は当然お目見え以下ですから、高貴な将軍子女に面と向かって接することは禁じられ、覆面をさせられたというわけです。 江戸幕府後期は乳母だけではなく大奥そのものが幕府の負担となっていたわけですし、母系の親族を幕政に参加させないという決まりごとが家重の時代に作られていたこともあって、大奥の持てる力を制限させようという動きがあったのは事実です。 しかし、これは乳母とその一族の権勢どうこうというものではなく、女性が政治に携わるのをよしとしない風潮があったこと、財政難を乗り切るための政策の一つと見るべきでしょう。 実際、幕末までも乳母は政治力を持っていましたし、将軍側室の生家の石高が加増されることもありました。その一族が江戸時代初期と違って大名クラスにまで出世できなかったのは、幕府にそこまでの余裕がなくなっていたからという見方もできます。 海外でも当然、身分の高い家では育児は他人任せです。 ただ、日本の乳母が育児だけではなく教育を教える立場にあったのに対し、欧米ではベビーシッターとしての役割に限定されていたようです。

moritan2
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