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お節介を好む人の深層心理は?

お節介を好んでする人がおります。そのケースの深層心理というものは、どのようなものなのでしょうか? 親切心が要らぬお節介になることがあるようですし…… 質問の仕方が悪いのですが、お節介をしたくなってしまう人の深層心理、宜しく、お教え願います。

質問者が選んだベストアンサー

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  • karinntou
  • ベストアンサー率36% (27/75)
回答No.5

人間の欲求には5段階あるといわれていて、 マスローの欲求段階説によると 1 生理的欲求 2 安全の欲求 3 愛情の欲求 4 社会的欲求 5 自己実現の欲求 とピラミッド型になっているそうです。 1の欲求が満たされると2の欲求を満たし・・・と最終的に5の欲求が満たされるまで、満足できないらしいです。 基本的にお節介な人は自己実現欲が満たされていないので、それが満たされるまでお節介はとまらないらしいです。 つまり、人から1個人として認められたいという欲求が根本にあるわけです。 お節介をしている人の大部分は、ありがた迷惑とはまったく考えません。あくまでも人のためにやっていると思っています。なので、自分が理解されないとその理由もわからず、お節介を続けてしまうのです。 また、お節介をする人だけではなく、その周りの人々の対応のしかたにも原因があるようなので周りの人の対応の仕方が変われば、お節介はなくなっていくようです。 あやふやな知識なので、ちゃんとしたURLを探したかったのですが「お節介」については見つけられませんでした。 マスローの欲求段階説は有名なので心理学を検索すればあると思います。 >gooでせっせと回答してくれる人はある意味みんなお節介じゃない? なるほど・・・確かにそうかも。ということは、わたしもお節介(゜o゜)

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 お節介は自己実現のためであると……

その他の回答 (10)

  • dryad
  • ベストアンサー率30% (24/78)
回答No.11

 ある知人の場合。  相手の関心を買いたくて、とにかく心情的な絆をもちたがって、やたらと贈物をしたがる。  そのために自分の好みで行動しては、迷惑がられたり怒られたりして傷ついている。  寂しがりや、と解釈しやすい境遇もあいまって、はたで見ていて哀れささえ漂う。  先日、例をあげて説明してみた。 「だから、例えばドクターストップでダイエット中の人に、『好きなだけ食べなさい』てとても美味しいケーキをあげたら感謝されると思う?」  とりあえず、その場は納得したらしい。 ------- 「小さな親切、大きなお**」という言葉が示すように、相手が喜ぶか迷惑がるかは紙一重だと思います。  求める人に手を貸すのも断るのも、どちらも親切と言える事もあるでしょう。たとえば手を貸すのはその場での短期的親切、断るのが結果的に相手の為になる場合は長期的な親切、というように。  常に相手のことを思いやった判断をし、その行く末にまで責任をもつ自信がある行動をする……などという芸当はわたしには無理なので、わたしが何かをするのは「ただのきまぐれ」が多いです。  自分の持っている(売るほどでもない程度の)経験的情報が、見知らぬ誰かに某かの価値あるものになるのなら、それはそれでけっこうなことだと思ってここで回答しているわたしの心理は……ただの貧乏性かも。  

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 なにやら、やわらかな気持ちになりました。 よろこばれようとして行動するのではなく、自分の行動が結果として役に立ったり、よろこばれたりしているのが普通の生活だと思います。

  • ebinamori
  • ベストアンサー率21% (96/439)
回答No.10

お節介はお節介でありまた親切であることには代わりがないように思えます。 親切を受ける側の感じ方によりお節介に感じるのだと思います。 その事例に出ていることを例にとればお節介と自覚しているのならあらゆる可能性を検討するでしょう。 「虫を取りましょうか?」と聞くんじゃないですか? だってゴキブリだろうがなんだろうが大切に思う人がいるかもしれないというそれくらいの配慮がなければ自覚しているとはいえないと思います。 了承を取る事が第一条件では? また了承を取ってそれでも悪い結果になったとしても責任を取らなければならないでしょう。なぜならお節介だから。 また、お節介ならば最低限そのお節介に責任を取る、これが大事でしょう。(なんかえらそうだけど) 以上に上げたことによりお節介と自覚している人はお節介な人ではないでしょう。 こんなパーフェクトな人間がいるかどうか知りませんけどお節介と自覚することは そんぐらいじゃなきゃ駄目じゃないですか?

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 そうですね。 勉強になりました。

回答No.9

自分を表現する為の一つ!かな。 他の部分で、自分を表現できていてそれなりに満足していたら、 度の過ぎたお節介はないと思います。 人に何かをしてあげる事は、自分を表現するのには手っ取り早く、 手軽に充実感を得られるから。 親切心は、相手の喜ぶ顔を見たり、相手に役立てる事で、 自分が幸せな気分になりたいから。 私の場合です。

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 手っ取り早く充実感が得られる自己表現ですか。ウン。 なるほど。

  • ebinamori
  • ベストアンサー率21% (96/439)
回答No.8

ひねくれた回答をします。(深層心理の一部だと思います) お節介をする人は困迫している人がいることが嬉しいのではないでしょうか。 そしてお節介をすることによりその困っていることを強く自覚できるから、つまり助けているようで結局他人の不幸は嬉しいということでは?(←自分はまだ幸福) 幸福を他人との比較に見いだす人なのかもしれませんね。ということは私を含めて多くの人がそうなのかも、つまり私もお節介になる可能性がある。 あとお節介な人はそれを自覚しているのならば問題ないですけど自覚してない人は最悪ですね。(上記してあることはもちろん自覚していないひとです)無責任になりかねないからです。(というか無責任か?) うーんとっても自分が人間不信な気がします。

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 自覚できてない人がお節介で、できてるひとは親切とは図式化できませんね。 1事例:撮影のために飼育していた蝶の幼虫を、郵便局員がすべてとって捨ててしまったのです。 「虫をとっておきました」 「撮影するために飼ってるんだ。頼みもしないことを、どうしてやるんだい?!局長連れて謝罪に来な!」 「スミマセン」 「1年待たなきゃならんのだよ。ええっ」

  • shino911
  • ベストアンサー率13% (34/259)
回答No.7

私もお節介人間を自認しております。 そのお節介行為の動機は、まさにNo.5の方とNo.6の方がおっしゃっている「自己実現欲」「認めてほしい欲求」にほかならず、自分が人の為にせっせと働き、その結果何がしか人の役に立った時というのは、この世界で自分の存在価値が認められたことの最も端的な実感であり、なかなか止められません(笑)。 だた、そこには感謝や見返り(そのもの)を求める気持ちは微塵もなく、感謝されて嬉しいというのは、自分が役に立った、すなわち自分の存在価値が認められたという事が確認できて嬉しい、ということだと思います。 もちろんそこに、相手にとって自分の行為が、肯定的に受け入れられるか、ありがた迷惑となるかをあらかじめ見極める配慮が伴わなければならない事が前提であることは言うまでもありません。 また、お節介好きの人というのは、往々にして「頼まれると『イヤ』とは言えないタイプ」が多いようです。 何だかまとまらない回答で済みません。

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 shino911さんのお話を拝誦しつつ「だよね!」と思いました。そして、「人間て淋しいから行動するんじゃないか」という言葉が脈絡もなくでてきました。

  • K-1
  • ベストアンサー率21% (832/3844)
回答No.6

「回復!スパスパ人間学」によると、欲求を満たすためのようですね。 社会的、生理的要求は満たされても、実は必要とされていない、認めて欲しいといった要求がお節介を生むのとか。 下記URL見てみてください。 対おせっかいの技も載っています。

参考URL:
http://www.tbs.co.jp/spaspa/011101.html
noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 「……親切をとおりこしてかなりのお節介……」という表現がありました。そうか。過度の親切がお節介の定義であるのか。で、エスプリの深層には「認められたい」願望。 ウン。

noname#25358
noname#25358
回答No.4

 深層心理の話をするなら、学術的な言い方をした方がいいんでしょうか。  人間が何か行動する「動機」には、かならず「報酬」があります。つまり、人間は「何かが欲しいから」という理由によってのみ行動します。  「何も欲しくない」というボランティアの方々もいますが、彼らは、「笑顔」が得たいがために行動します。これは人道的に素晴らしい、という以外、「報酬」という意味ではお金と変わりないわけです。  実際には、お金をもらうことよりも、誉められたり感謝されたりすることの方が人間としてより「嬉しい」ことが実験で証明されており、彼らはそれを欲して行動するのです。  誉める/叱るのメリハリをつけることが教育上重要なのも、この辺に理由があります。

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 お節介の深層に潜むのは「報酬」をゲットしたいから……

回答No.3

私は自分自身がお節介人間であることを自認しています。 なんか・・・ほっておけないんですよねぇ、自分が経験したことや知ってること、あきらかに間違ったことをしている人が目の前に現れちゃったりすると(^_^;) 要らぬお節介とわかっているから強要はしないように十分注意はしているつもりだけど、結果は気になりますね、関わってしまったら。でも感謝されたいと思ったことはありません。 くさいの承知で言うと、世の中の人全員が幸せにでいてほしい、みたいな感じが心の深くにあるんです。そんなこと思うのは自分の勝手だし、なにを幸せに思うかは人によって感じ方がちが違うことも承知しているから、アドバイス通りにならなくても気になりません。 お節介な人で悪い人はいないんじゃないかな?gooでせっせと回答してくれる人はある意味みんなお節介じゃない?

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 そうですね。感謝されることが目的ではないし、自己満足でもない。お役に立ちたいというのでもないのかな。

回答No.2

2通りパターンがあるんじゃないでしょうか? 1つは No1の方がおっしゃるような、ただ感謝されたい型 「ありがとう」とか言われれば誰でもやはり嬉しいものですよね 自己満足タイプのお方。 このサイトの回答者もこちらの部類に入られている方が多いのではないでしょうかね? 2つ目は 掘り下げタイプの 「~~してあげた」から「感謝された」と 思いこみそれが、たとえ相手にお節介であったとも気付かず 良い事を「してあげた」と思う 自己中心的なお方。 この場合 お節介?してあげた相手に まんまと裏切られると 「私は貴方に~~してあげたのに」と恨み言の様に言われてしまう まさに、究極のお節介な人間に変貌します 貴方の周りにもいませんか~?

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございます。 お役に立ちたい願望で、お節介の前に、取材なり調査なりで可也の努力をすることもあるでしょう。ということは潜在的な向上心も強烈なのでしょうね。

  • inaken11
  • ベストアンサー率16% (1013/6245)
回答No.1

ただ、感謝されたいがためではないでしょうか。 もっと掘り下げると、感謝される→神様のような存在になる→私が一番 というような感じだと思います。 心の中で、感謝を強要していることがあるので、思いっきり「ありがとう」といってあげましょう。 でも、相手の行動を煽るだけかな?

noname#8885
質問者

お礼

ありがとうございました。 自己の重要感を自分に見せ続けたい願望は誰しも持っているようですけれど、極端なのでしょうね。

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