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豊臣家が一代で(二代で)滅亡した理由は?

imp-dscの回答

  • imp-dsc
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回答No.5

いくつか挙げれば・・・ 1武家の棟梁では無かった事。 これははっきり言って秀吉の力じゃどうしようもありません。秀吉が尾張の農民出身だったことは既に周知の事実です。流石に秀吉は実母と実父との子では無く、さるやんごとなき御方と実母との間との高貴な御落胤であると主張し太閤に就任しています。 一方で征夷大将軍への就任は源氏の血筋限定という慣例が成立して久しくこれが不可能だった事によります。 これがどういう意味があるかというと現在でいえばミリタリー(武家)への指揮権が無いシヴィリアン(公家)の頂点に立ってしまった事です。もっともこれは秀吉の実力によって武家への指揮権は確保していましたが死後はそれだけの実力者が不在となった事も原因の一つといえるでしょう。 2基盤の脆弱さ これもまた秀吉の力ではカバーしきれない部分です。 簡単に言えば譜代の家臣が居ない事に尽きます。勿論、加藤清正らをはじめとした家臣は多く居ますが彼らとて譜代大名の初代なのです。譜代の強みとは戦力の安定的な供給と多少の無理な命令が行き届くところにあります。この弱点が露呈したのは小牧・長久手の戦いです。 この戦いでは秀吉軍は圧倒的な戦力で家康と戦っていますが結果は良くて互角。下手したら家康側の戦術的な勝利とさえ言える戦いです。反論として家康は秀吉に降伏した事実もありますがこれは同盟者の信雄が無断で単独講和してしまい事実上孤立してしまった為の事です。 さて、この戦いも含めた秀吉軍の戦力は単純に一枚岩ではありません。内部では戦功争い・秀吉への微妙な反感(彼らと秀吉は少し前まで同僚・先輩の関係でした)があり確実に命令が遂行される保障が無かったのです。一方家康は譜代でありまた多くの苦楽を分かち合った関係であった為相当に命令が遵守されています。家康がいかに海道一の弓取りと謳われていても率いる部隊が命令を守らなければ戦術的な勝利さえもおぼつかなかったでしょう。 個人的にはこれまた動かしようが無いのですが秀頼の生まれが遅すぎた事が響いていると思います。あと30年いや20年早ければ晩年の秀吉の甘やかしも無く北の政所らの養育を受け初陣を飾り日本各地への遠征に従事し大名達にその実力を認めさせる・・・そんなシナリオもありえたはずです。秀頼が英明な主君であった証拠はありませんが少なくとも淀君の養育を受ける事は無かった筈ですから無難なラインには収まる可能性は十分にありえたと思います。 ここまで淀君に対しての評価が厳しいのにも理由はあります。 関ヶ原以後の寺社への過剰な寄進・清正らの譜代への高圧的な態度を取った事による戦力低下等は最たるものです。聚楽第の建設等は浪費と言えるかも知れませんがそれとて財力の誇示としての側面はあります。また譜代への態度としても同じ事を淀君と北の政所とでは影響は相当に違ってくる事でしょう。 ここまで来ると彼女は確信犯的とさえ思えます。

sawai197
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「下克上」「立身出世」「一介の農民から天下人へ」 秀吉人気の理由は、平民から大政治家に成りあがった秀吉の生き様にあるのでしょうが、それが結局は彼の弱点でありそれを超えることができなかった、というのはなんだか切ないですね。

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