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秀吉の正室のおねと家康

 結果として、家康が秀吉の体制を倒し、天下を統一したんですが、秀吉の正室のおねと家康は仲が良かったと聞いたことがあります。  実際どうなんでしょうか?単におねは淀君が気に入らなくて、淀君の敵の家康と意気投合したということでしょうか?

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noname#35582
noname#35582
回答No.5

歴史に名を残した人間もしょせんは「人」です。 そういった心理の問題ではない-とも言い切れないと思います。 「敵の敵は味方」、「嫌いな人を抹殺してくれるなら、好きではない人と結託する」ということもあったかもしれませんね。 ご質問者さまも「淀【君】」と書いていらっしゃるところをみるとお嫌いですか? 私は、秀吉、おね、家康の出身地でもある愛知県で生まれ育ち、歴史を専門に勉強しました。 学問的な観点からすると、「感情論」は排除して語られることが殆どです。 おねは、「豊臣家」の「存続」を考えた結果、情勢を冷静に判断して、家康に組した-と言われることが多いですね。 「豊臣秀吉の子である豊臣秀頼、そしてその血筋が天下人であり続けなければならない」と考えた淀殿と「形は問わず、家臣を含めた『豊臣家』が存続すればよい」と考えた北政所、2人には認識の違いがあり、淀殿の「人の家臣として永らえるくらいならば、天下人として滅びたい。」という気位が豊臣家を滅ぼした-とも言われます。 そして、おねの考えていた「豊臣家」には、秀頼は入っていなかった-とも言われます。 秀頼が秀吉の子供ではないので、「他人」に「豊臣家」を渡したくはない-と考えて、あえて家康に組して「豊臣家」を滅ぼさせた-という説もありますし。 また、家康とおねには男女の関係があった-なんて説もありますけれどね。 諸説入り乱れてはいますが、もしかしたら「本当は」 > 単におねは淀君が気に入らなくて、淀君の敵の家康と意気投合したということ かもしれません。

007yuuki
質問者

お礼

ありがとうございます。 心理戦が潜んでいるんですね。それらに最終的に勝利した家康ってすごいんですね。

その他の回答 (4)

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.4

このような意見もあるということで、↓のサイトを参考にしてください。 考える材料が豊富に得られると思います。

参考URL:
http://www.asahi-net.or.jp/~ia7s-nki/knsh/shirakawa.htm
007yuuki
質問者

お礼

ありがとうございます。 この番組見たかったです。

  • Willyt
  • ベストアンサー率25% (2858/11131)
回答No.3

 淀君が取り仕切る秀頼に政権が行くのを寧々が快く思う筈がありません。この事をよく知っていた家康の方が関ヶ原の前に寧々に近づき、加藤清正、福島政則、小早川英秋ら、彼女が育てた子飼の大名が味方してくれるように頼み込み、寧々はこれを承知したのです。  その功で、寧々の里方の淺野氏は備後広島という大藩の大名に取立てられ、明治まで代々続きました。その支藩の赤穂の藩主が事件を起こして断絶したのはちょっと皮肉な話ですね。  歴史と言ってもそれはやはり人の行動の結果です。人情がそこに入り込むのは当たり前のことですね(^_-)  ちなみに用が済んだ子飼の大名達は皆些細な理由で断絶になりましたが、山内氏だけがちゃんと生残ったのはやはり奥方の才覚だったのでしょうかね? その奥方も寧々と同じく子に恵まれなかったので一豊の没後は寧々に倣って京都で仏門に入るのですよ。

007yuuki
質問者

お礼

ありがとうございます。 奥方の才覚も重要だったんですね。

  • lookfor
  • ベストアンサー率25% (52/205)
回答No.2

文芸的には、「時代を担い、平和をもたらすのは、徳川殿」と読みきり、家康の味方についた、従って、豊臣家滅亡後も家康は、ねねを厚く遇したとされていますが、そこは、人間社会のこと、嫉妬もあったのではとも思います。

007yuuki
質問者

お礼

ありがとうございます。 建前と本音、でしょうかね。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

そういうことも多少はあるでしょうが、豊臣家の将来を考えて家康にまかせたほうがよいと思ったのでしょう。

007yuuki
質問者

お礼

ありがとうございます。 家康の方が頼りになった・・ということでしょうかね。

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