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関が原の戦い後、なぜ、長宗我部は領地没収で、毛利・島津は領地減となったのでしょうか?

関が原の戦い後、なぜ、長宗我部は領地没収で、毛利・島津は領地減となったのでしょうか?

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  • caesar-x2
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回答No.5

その話はかなり有名ですよ。 基本的には西軍に属した大名は領地没収・改易になるところが、 毛利に関しては、吉川広家に対して 毛利家の所領安堵の約束をしていたのに、 それを反故にして領地削減させたわけです。 この経緯は、直接、家康が言質を与えずに 井伊直政を介して調略を行ったために、 正確には約束したわけではないというトリックがあったのですが、 吉川は最初の約束と違うと猛抗議します。 それで吉川家の所領を減らす代わりに なんとか毛利家の存続だけは勘弁してもらった格好になりますが 毛利家ではこの一件の恨みをずっと持っていて 年始だったいつだったか忘れましたが、 毎年、徳川家に恨みを晴らす、討ち入るという儀式を 幕末までやっていて、それが倒幕の原動力となったのは かなり知られてますよね。 島津家の場合は、大幅削減のはずだったのが 隠居していた島津義久などが内外で粘り強く抵抗をして 領地返上に抵抗して、外交交渉の結果、 薩摩・大隈という言葉も違う辺境ということもあって 島津だけは所領安堵・お咎めなしどころか、 琉球貿易の窓口という立場も容認されます。 これは無能な毛利家と違って、島津家の有能かつ交渉上手が 活きた格好です。 ただ関ヶ原前後で島津家内部では多少、内紛なるのですが なんとか詰め腹でまとまるのがまさに島津式です。 この二国が幕末の主勢力になるのはあながち偶然ではないでしょう。 あとちなみにですが、 関ヶ原で西軍についたものでは、立花宗茂は唯一、改易後に 所領を新たに与えられてます。大名に復活したのは彼だけです。 理由は、武人の鑑として、徳川秀忠に気に入られたからです。

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  • yakyutuku
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回答No.6

チョウソカベと毛利、島津では戦力が段違いですが、チョウソカベは当主がとらわれていたのも大きいと思います。嫡男信親が戦死し、無理やり当主にすえた四男盛親が捕らえられたのです。一致団結して家康に反乱を起こすような体制が組める状況ではありません。組織立った抵抗の取れない相手だから、一思いにつぶせたのでしょう。

  • ewyr-05
  • ベストアンサー率23% (49/213)
回答No.4

>毛利・島津は領地減となったのでしょうか? 領地没収。 そんな事したら、毛利征伐中に大阪城と挟み撃ちにあい、 もたこいている内に島津の増援が追いついて来て死んでしまいます。 ^_^; ただでさえ九州の百姓を決起させて大阪城に向かわせようとした豊臣方の軍師も残っています。 九州に乗り込んだら、生きて帰れる保障も無いですぅ。^_^;

  • jamiru
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回答No.3

やはり国力も結束も弱かったんじゃないでしょうね。 豊臣秀長の四国遠征で本国を戦場と化して疲弊し、屈服後の九州遠征でもかなりの損害を出しています。後継者の信親が討ち死。 関ヶ原は先に家康と同盟を結んでいた当代の名将元親は直前で他界。悲しいことに内部紛争が起きています。 毛利には吉川。島津には家久と家中の統制が取れている陣営は力押しでは潰せないと思ったんじゃないでしょうか。 両陣営ともにこれまで本国の被害も少なく関ヶ原で兵力もさほど減っていない。

  • alpha123
  • ベストアンサー率35% (1721/4875)
回答No.2

徳川政府には長州や九州制圧する力なかったからです。 江戸時代は幕藩体制(幕府と各地の藩の2重体制)、貨幣制度も米貨幣併用。 薩摩はほぼ九州制圧だったが、幕府は長崎直轄地程度(管理は肥後(佐賀)に丸投げ) 土佐はほぼ四国制圧の長宗我部が秀吉に降伏したので悲惨な目に。土佐一国に押し込まれ、さらに関が原では西軍に参加、敗北。先見の明ないともいえる。 山内は関が原の軍事的功績ないといわれますが、勢力拮抗(西軍有利)なら中立(長州は大阪城から撤退、徳川も評価)や参加(山内)も貢献です。 土佐では山内派は上士で長宗我部系(郷士)を弾圧排除差別。一豊在命時も過酷なことした。一豊死ぬと妻は京都に逃げた(帰ったともいう(^^))。 それでも郷士(坂本など)は土地の支配者で上流階級ですが(幕末には郷士の脱藩相次いだ)。

  • komes
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回答No.1

長宗我部は太閤検地で10万石強の大名で、取りつぶしの対象として丁度よかったのです。  領地は山内一豊に与えられました。 土佐20万石となったのは新田開発や農業技術の発達による増収があったからです。 毛利も取りつぶしの予定でしたが、代わりにこの地方に大録を与えられた吉川広家が毛利の領土には手をつけないという口約束があった事、自分の領地は返上することで本家毛利の存続を懇願したので防長2ケ国に減封して存続を許されたのです。  島津は関ヶ原戦で積極的に戦わず、撤退したのと島津義弘が隠居することで罪一等を減じ僅かの減封ですみました。 これは島津の兵の精強を恐れた事、僻地であり征服に犠牲がおおくなるのを恐れた為です。

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