- ベストアンサー
WWII後イギリス弱体化・・何故?
国際政治学を勉強しているものです・・・ 今、インド・パキスタン問題について勉強していて「イギリスはWWII後、経済面での弱体化が激しかった。そのため、所有していても何の利益にもならない英領インドをインド、パキスタンとして独立させた」と教書あるのですが、肝心な、イギリス弱体化の理由が記してないのです!! 何故、WWII後にイギリスは経済面で弱体化してしまったのでしょうか?
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
何もWWII後にいきなり悪くなったわけではありません。19世紀半ばまでに「世界の工場」として繁栄していたイギリス、実態は弱い立場の植民地に自分の作った商品を売りつけて儲けていただけ、貿易収支は当時から赤字でした。次第に後進国で必死に技術革新など努力をしていたアメリカ、ドイツに国際競争力で負けていた。鉄鋼業は恐慌のときすでにドイツに負けている。 赤字の貿易収支を黒字の資本輸出・海運・保険等の利子収入(貯金と利子かな?)でごまかし何とかで食いつないできたイギリス、しかし、WWIIの壊滅的な打撃から復興するためについに帝国主義的貿易政策(大赤字)を捨てなくてはならなくなった、それに付属する植民地もやっぱりいらない、ということでしょう。
その他の回答 (3)
- bougainvillea
- ベストアンサー率21% (185/853)
質問者さんは現代イギリス史にあまり詳しくなさそうなんで、 とりあえずこの本を読んでみてはどうでしょうか。 イギリス現代政治の軌跡―指導者たちの現代史 黒岩 徹 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4621052594
- popesyu
- ベストアンサー率36% (1782/4883)
私の時代には中学校の社会の教科書に載っていたレベルの話ですが、最近ではやらないんでしょうかねぇ。 単純に第一次、第二次大戦を契機にそれまで世界経済の中心だったヨーロッパ(特にイギリス)からアメリカに移ることになったからということです。 第一次大戦については、主要都市の被害はそれほどでもなく、飛行機や戦車などの兵器についてもまだ実験段階に過ぎなかったため、生産力などはさほど被害は受けていません。実際に戦後すぐには戦前のGNPまで回復しており、逆に生産力過剰に陥り恐慌へと至るわけですが。ただ、もちろん被害がなかったわけではなく、戦費についてはアメリカからの借金で賄っており、莫大な賠償金を背負ったドイツへもアメリカは貸すことによって、 アメリカ→ドイツ→イギリス、フランス→アメリカへ という経済構造が出来上がってしまい、アメリカ一人勝ちという状況が作り上げられます。第一次大戦までは債務国だったアメリカは最大の債権国へと成長し、ヨーロッパが戦前の状態を取り戻した時には生産力も一気に2倍強までにあがっています。大戦終結時にはすでに世界の金の大半を手中に収めていたため、それまで世界経済の基準通貨だったポンドもこの時点でドルに取って代わられることになります。 以上はあくまでもWWII以前の状況です。 第二次大戦はさらに主要都市が壊滅的に打撃を受け、第一次大戦の戦後処理のまずさを反省して戦後賠償も殆ど放棄したし(実際には完全放棄ではなくソ連や中国などは現物支給で分捕っていっていますが)、戦争協力の見返りとして植民地の自主性を認める政策をとっていたしなどなどで、政治・外交・金融の中心的役割は完全にアメリカに移ることになりました。 あと他の事情としては戦後復興の際、イギリスフランスなどは伝統的な古典ケインズ理論(と言ってもこの時点では最新理論ですが)に則った経済政策をとっていたのですが、政府が積極的に市場に介入するという方法論よりは、ドイツがとった基本的な部分での自由競争方式の方が正解だったという事情もあったとは思います。 http://ww1.m78.com/honbun/europe%20later.html#anchor126456 http://kccn.konan-u.ac.jp/keizai/europe/02/02.html http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ec/dousoukai/column/2004_06.html
- PENPENMAKKY
- ベストアンサー率17% (344/1984)
それは事実からかけ離れています。 英国がインドから撤退したのは、暴動の収拾がつかなくなったためです。 1944年、インド国民軍が日本の第18軍と共にインド侵攻作戦(インパール作戦)を開始します。作戦は失敗し、日本もポツダム宣言を受諾して降伏します。その2日後、インド自由政府のチャンドラ・ボースが台湾で事故死しました。9月2日に日本が公式に降伏すると、インド国民軍の指揮官であった3人のインド人が逮捕され、戦犯として裁判にかけられました。英国政府は彼らを死刑にしてインド統治の継続を狙いますが、大規模な反英デモになり、判決当日には暴動へと発展しました。これの収拾がつかなくなり、経済的にも利益が出なくなったインドを見限り撤退します。 その後、ガンジー・ネルー・ジンナーによる独立への準備が進められたのですが、ヒンズーのネルーとイスラムのジンナーが対立し、インド、パキスタンの二つの政府が樹立され、ガンジーは暗殺されます。独立に際して各藩国は何れかに所属することになり、ほとんどのマハラジャはインドに参加しました。やっかいだったのはカシミール藩国で藩主がヒンズーだったため住民の意向(住民はイスラムが大半)を無視してインドに参加したため、カシミール問題が起こりました。 あなたが読んだ教科書というか論文は、日本の関与を書きたくないために故意に排除し、経済弱体化だけを理由にしているのではないでしょうか? デリーにチャンドラ・ボース記念公園というのがあり、独立記念碑があるのですが、それにはニューデリーを指差すボース、インド国民軍兵士、それを銃後で支えたインド女性、そして共にインドに進撃した日本兵で構成されています。