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明治40年の泉鏡花
谷崎潤一郎の『青春物語』「饒舌録」に、明治四十年頃、泉鏡花が自然主義のために圧迫され、本を出そうとしたら自然主義一派のボイコットがあって出せなかったと書いていますが、鏡花の評伝(村松定孝、寺木定芳)を読んでも確認できませんし、鏡花は『婦系図』『草迷宮』を刊行しています。そのような事実があったのでしょうか。あるとすれば、そのことが記されている研究書または論文を教えてください。
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- gbrokk
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No.1の者です 秋声が硯友社を離れたのは紅葉がまだ生きている時の筈です 殴打事件は紅葉の何回忌だったか、とにかく衆人環視の中で鏡花が興奮して無抵抗の秋声をぽかぽか殴り付けたそうです しかし秋声は穏やかな人柄だったので売り出し中の谷崎を同じロマン派の鏡花に紹介したのでしょう、その時から鏡花と谷崎の付き合いが始まって谷崎のお嬢さんの結婚の仲人を鏡花が務める事になったらしいです 前回に秋声とは仇敵と言いましたが周囲がそう見ただけで友情を持ち合っていたのかも知れません、互いに逢うのを避けていたそうですが 自然派で紅葉ー鏡花のラインにもっとも敵意を抱いていたのは紅葉が亡くなった時、読売新聞紙上に鏡花もついでにぶっ潰せと公然とアジつた正宗白鳥(読売の文芸記者でした)でした、当時の狭いジャーナリズムの世界に大きな影響力があったのうしよう
- gbrokk
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No.1でお答えした者です 確かに誇張はあるかも知れませんね でも自然派はロマン主義の硯友社を敵視してその総帥だった尾崎紅葉が亡くなると一番弟子の泉鏡花を文壇から閉め出そうとしたのは事実です 鏡花の郷里からの友人だった徳田秋声は紅葉の弟子でしたが自然派に鞍替えし、その為鏡花は激怒して秋声を人前で殴打して以来二人は仇敵の間柄になりました 田山花袋は当時大手出版社の博文社の有力編集者で何でも出来得た立場です、鏡花自身も師紅葉を慕いその文学を守るあまりに自分を孤立に追い込んだ傾向があったでしょう
- gbrokk
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芥川龍之介に、その当時文壇を独占した自然主義者のグループに目の敵にされ文壇から追われた泉鏡花に同情した文章があります、確か東京に居られず伊豆の方に隠れて貧乏を余儀なくされたとか 当時の出版界は狭く、博文館とか春陽堂などの大手を抑えれば自分達に同調しない作家への「いじめ」は簡単に出来たのです 自然主義者グループは森鴎外、夏目漱石も目の敵にしましたがさすがに一指も差す事が出来ませんでした その状態は明治の終わりに白樺や永井荷風などの新文学の出現で打破され、鏡花も文壇に復帰しました 芥川が別の随筆で「武者小路実篤氏が文壇の天窓を開け放って新しい空気を入れた」と言うのはそのことでしょう
お礼
ありがとうございます。しかし鏡花の弟子で、文学的才能に見切りをつけて歯科医となった寺木によれば、鏡花の逗子隠棲は明治38年からで、神経症の悪化のためです。ただ自然主義文学は売れなかったと正宗白鳥が書いていますし、徳田秋声は鏡花とは友人で、鏡花が敵と見なしているのは田山花袋一人ですし、自然主義の猛威についての話はおおむね誇張されているのではないかと思うのです。
お礼
ありがとうございます。秋声の件は何年ごろでしょうか。谷崎『青春物語』では、明治45年1月の紅葉館での会で、秋声が谷崎を鏡花に紹介していますが・・・。