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「ゆとり」教育論

naoppeの回答

  • naoppe
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回答No.4

再投稿です。 お礼の欄に書いて頂いた、「若い時は将来の職業に直接役に立たない事もやるべきではないか」ということについては当然そうあるべきです。 しかしその事と才能ある子供を子供のうちにもっとその才能を伸ばしてやることが、どうして両立しないと思ってしまうのか不思議です。 将来の職業には役に立たない様々なことをやりながらも、小学校で高校の数学をやりたい子供にはやらせて上げられるというのがどうしていけないのか理解に苦しみます。 なぜ難しいことを学びたいのに、『それは悪いことだ』などと言って足を引っ張るべきなのか。 バスケットで言えば皆均等にシュートを決めないといけないのでしょうか。 皆がポイントゲッターにボールを集めて、チームワークの良さでより多くの得点を入れることが素晴らしいことではないのですか? ドリブルが上手な人、シュートが上手な人、パスが上手な人、リバウンドを拾うのが上手な人など、それぞれがお互いを理解して尊重するように教える事が正しい教育だと思います。 たとえそれが小学生であってもです。 能力が欠けているのにそれを知らされず、『みんなと同じ』と思ってしまうことこそ悲劇です。 もう一つ、『三等国家でも皆が幸せ』という意見がありましたが、発展途上にある国家ではそういうことも有り得るかもしれません。 しかし、一度豊かになった国が貧困に向かうとき、『清貧』などと言う言葉は存在しませんよ。 豊かさを知らないからこそ『清貧』でいられるのです。 たとえその中に『清貧』があったとしても、それは知的レベルの高い一部の人間にしか存在しません。 豊かな国から貧しい国へ移行するとき、必ず暴力や富の一極集中が起こります。 そして国全体がスラム化してゆくのです。 このときに歴史教育で豊臣秀吉や聖徳太子の偉業を話して聞かせても、盗みを働かないと生きてゆけない子供たちの耳に入ってゆくでしょうか。 日本は既に後戻りのできない所まで来てしまったのです。 貧しくなることは許されない状況だということが分っていない『楽観主義者』のために、日本全体が危うくなろうとしている事に気付いている人が、もっと大声で発言してもらいたいと思っています。 もう一度言わせて貰いますが、数学や理科が国際的に低いレベルのままで、科学技術立国である日本の経済が維持できることは100%在り得ません。 このことは断言できます。 そして貧しくなればなるほど、教育に掛ける国家予算も無くなっていくのです。 軽々しく『貧しくても心の豊かな国』などといって欲しくはありません。 『貧しい国』は一部の富裕層を除いて、辛く住みにくい国であることに早く気付いて、生命線である科学技術を活かし経済的に豊かなままで心も豊かになる道を選択するべきだと思います。 最後にもう一つ、日本の今までの教育で一番の間違いは、記憶力に重きを置いたことです。 記憶などは大して重要ではないことに、多くの人が気付いていません。 大切なのは『思考力』です。 物事につじつまを合わせ総合的に理解し、それを使って新たな物を創造する力です。 カブトムシは蜜を吸うと覚えているだけの子供と、蜜を吸うのだから砂糖水を染ませた綿を木に置いておけばカブトムシが集まってくるかも?と考える子供とでは雲泥の違いがあります。 『知っている子供』ではなく『考える子供』になってもらいたいのです。 Dejimaさんも書いておられるように文系の大学では英語や社会や国語というほとんど記憶以外は必要のない科目だけで入学してしまいます。 そしてその人たちが社会に出て人の上に立っているのです。 もちろんその中には非常に優れた『思考力』も持ち合わせている人もいますが、かなり多くの人がテレビとビデオデッキやパソコンとプリンターの接続などという、説明書を読めば小学生でもやれることすらできない『低能力』であることは否定できません。 内部のシステムと違い電線は眼に見えるのですから、何をどこにつないだらいいか説明書を見れば明白です。 これは文系、理系とか得手、不得手とか専門、専門外の問題ではなく『常識』です。 この程度のことを『難しいこと』などと思うこと自体が、『学問的』にではなく人間の基本的な部分に於いて『低能力』『常識外れ』の証なのです。 その『低能力』を省みることもせず『ゆとり教育』などと言っている官僚などには『何様のつもりなのか』と言ってやりたい気持ちで一杯です。 Dejimaさんが仰るように、人の上に立つ人は総合的な知識と能力(思考力)を備えた人でなくてはならないのに、テレビとビデオを接続するだけで電気屋を呼ぶ人間が、どうして人の上に立てるでしょうか。 こういうところに日本の教育の矛盾があります。 考える教科を子供のうちにしっかりとやり、十分な『思考力』を身に付けてから覚える教科をやるべきだと思うのです。 その為にも数学や理科は小学校の頃からその割合を増やすべきだと思っています。 以上、長々と書かせて頂きました。 お読み下されば幸いです。

noname#1753
質問者

お礼

こんばんは。 日本人の数学や理科の学力が低下していいとは言っていない。 しかし10代の成績に拘る事はなかろう。 周りより高度な数学を学ぶ事は勿論悪い事ではないです。 では数学を学ぶのを一旦辞めて、別の事に熱中する事は悪い事なんだろうか。 18歳で結果を出さなければいけない今の受験体制では、大抵の親御さんにとってそれは悪い事になってしまうだろう。 しかし10代の時は勝ち続ける事をするより、負けるだろう勝負に向かって行く勇気が大切だと思わないか。 学力の向上と人間の成長が両立できれば、それが理想の教育でしょう。 しかし今の受験体制でそれが不可能であるのは、お役人達が立証してくれています。 こないだ文部科学省は「ゆとり教育」の説明をどっかの体育館でやってました。 これは子供の頃からカラーテレビを見てきた若い世代にとって滑稽な光景でしかありません。 何かの理念があるなら何度でもテレビに出て来て説明してくれればいいだろう。 たとえそれが凡人には理解できない高尚なものであるにしても、自分のプライドのために国民にグッと向かって来るべきなのだ。 つまり彼らは勉強ばかりやってきて、説明能力も説明責任も持つ事ができなかったのでしょう。 数学は目の前の勝ち負けよりも、自分の将来の指針を示してくれるじゃないか。

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