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我思う、故に世界あり

starfloraの回答

  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.6

    これは、或る意味非常に難しい問題なのです。ただ、哲学や実存の問題に、簡単な問題というのは普通ないのですが。世界と個の実存のありようが、連関する問題なのです。     >私は、幼いころ自分を囲む世界の存在を疑問視していました。      この言葉で何を語りたいのか、ほぼ分かると思うのですが、実は、こういう「表現・把握」は、思春期になってからか、またはもっと後の、二十歳を過ぎてから、子ども時代の自分の存在のモードを振り返って、このように解釈しているので、本当は、子ども時代に、このような体験は「ない」のです。      それはどういうことかと言うと、「世界の存在の疑問視」というのは「世界の存在の了解」という問題になるのですが、子どもは、世界または何か事物ががあることを感じ、知っても、それは、「存在物の認識」と言い、「存在」の認識・了解とは言わないのです。つまり、何かがあること、事物があることは、動物でも知っているし、認識しているのです。しかし、彼らは、「ある」ということはどういうことであるのか、そのことに疑問を感じることはないのです。子どもも同様に、「存在物」の認識や、それについての疑問はあっても、「存在物の存在」ということは、実は分からないのです。ハイデッガーのような話になりますが、「存在 Sein」を知るのは、反省意識のある人間実存なのです。      すると、この幼いころの認識、感じていたことは何かというと、それは、わたしの解釈では、「世界に対する違和感」であり、「自己に対する違和感」であるのです。この世界とこの自己が調和しておらず、違和があるということの実感が、自覚的に表現すると、「世界の存在への疑問」となるのです。「世界が存在しない」という時、それでは、「立ち現れている現象は何なのか?」という問いが出てきます。それに対する回答は色々ですが、例えば、「幻・仮象である」という回答があり、他方、似たような言い方で「偽物である」というのがあります。しかし、現に「現象しているのではないか」ということが云えるのです。実際、現象しているのです。従って、正確には、「この世界または自己は、幻・仮象、偽物である。本当のわたし、本当のわたしの世界は、このわたしでなく、この世界ではない」というのが、こういう感じ方の意味することなのです。      これは本来性からの逸脱で、ヘーゲルは「疎外 alienation, Entfremdung」という言葉で定式化し、マルクスがこれを継承したのですが、「疎外」は、実存主義哲学で大きな意味を持って来るのです。つまり「実存疎外」という形での疎外は、「実存の本来性の疎外」になるのです。疎外という言葉は、「疎遠になる、よそよそしくなる」という動詞から造られている訳で、実存疎外とは、世界が、実存にとって、よそよそしい、何か自分の本来性と無縁なものと感じられるという「感受性・気分」の問題にもなるのです。認識的把握の前に、「気分」の問題として、世界のよそよそしさがあると言うことです。      では、何故、世界がよそよそしく「感じられる」のか、です。エリック・エリクソンの自我同一性の理論からすれば、成長の発達段階ごとでの自我同一性の発達課題において、どこかの段階で「自我同一性の確立」に失敗した、あるいは、不十分にしか、同一性が確立されなかったのだということになります。「自我同一性」とは何かというと、「わたしはわたしである」という確認で、この場合、前者の「わたし」は、内面的実存的な、認識する主体の「わたし」であり、後者の「わたし」は、外面的社会的世界的な、認識される、他によって規定され評価される「わたし」なのです。そして、両方共が、「私」の認識あるいは把握のなかにおける「わたし」なのです。      内面的に「わたし」とは、このようなものである、「誰」であるという認識または把握があり、これが、「世界のなかでは、わたしは、このように位置付けられている、誰である」という世界内の名指しとしての「わたしの自覚」と、調和するかどうかなのです。エリクソンの自我同一性において、基本的世界安定感という形の自我同一性があります。これは、第一段の発達課題、第二段の発達課題に大体相当しますが、小児精神病(自閉症)でない場合は、第二段階の発達課題または、第三段階の課題である可能性があります。青年期・思春期における、メインとされる自我同一性課題においても、課題達成の失敗は、社会人としての自信の欠如、男性または女性としての自信の欠如または混乱として出てくるのですが、それは、基底的な「世界の存在への違和」までは進まないのです。「世界の存在とのあいだの違和」というのは、従って、子ども時代の基本的体験における、自我の構成における刻印またはモードの構成ということになります。      「No.224446 質問:心の支え」(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=224446)の回答のなかで参照した、グノーシス主義のサイトには、「宇宙的孤児性」という概念が出てきます。これは、グノーシス主義の思想というか、その現存在姿勢の意味を解釈するため、サイトに文章を書いている人が記していることです。ハイデッガーの言葉に、「被投性」というのがあるのですが、これは、現存在は、「根拠なく」、この世界に「投げ込まれた」という実存の事態を表現しています。「宇宙的孤児性」というのは、「この世界=宇宙に、わたしは、理由が分からないまま投げ込まれたのであり、この世界は《わたしの世界》ではなく、そうとすれば、わたしの《本来的な故郷の世界》があるはずで、わたしは、故郷から離れて、このよそよしい世界に投げ込まれた、この世界の孤児である……こういう事態を、宇宙的孤児性と呼ぶようです。      砕いた表現で言うなら、「この世界は、わたしにとって、よそよそしく、わたしの《本来の故郷》とは思えない」ということです。「世界の存在についての疑問」というのは、「この世界の本来性についての懐疑」であり、何かが欠けている、疑わしいので、後ろを振り返って、「不在の実相」が見えるのではないか、「非本来性=偽りの世界」である証左が、振り返る一瞬に見えるのではないかと思い、そういうことを試みるのだと思えます。わたし個人の経験で言えば、「振り返ることができなかった」ということがあります。振り返って、そこに「異様な相」を確認することの恐怖が、それを押しとどめたのだとも云えます。      エリクソンの理論は、カール・グスタフ・ユングの理論と交わる所があるのですが、どこで交わるかと言えば、ユングの理論は、西欧的自覚自我の確立の理論と密接に関連し、集合的無意識からの自我の覚醒あるいは、自己確立の過程をユングの理論は描いているからです。無意識からの自我の確立という課題はフロイトのテーマでもあったのですが、整序された自我からすれば、混沌(カオス)として映じる無意識から自我を独立させるという成長の課題は、エリクソンの自我同一性理論の発達課題と極めてよく似ているのです。この場合、本来性や異郷は、無意識の世界に起源があるとも云えます。内的無意識世界と、外的な日常人間社会世界のあいだに自我はある訳で、図式化すれば、外的な世界の要請に応じて、自我の整序が行われ、無意識は意識の下に抑制されるのだということになります。      無意識からの自我の独立・自立がうまく行った場合、自我は、外的世界の正統な住民・市民になる訳で、世界に対する「違和感」は生じないと言うことになります。しかし、子どもの頃や、精神病の人や、昔の未開人は、より自我の確立が脆く、あるいは確立されておらず、自我は未だ半ば、無意識に身を浸しているとも云える状態なのです。夢に無意識の世界が登場しますが、それは時に、懐かしい子ども時代の情景であったり、見たことがないか、しかし、懐かしい故郷だと思える場所であったり、逆に、何か恐ろしい異郷であるということもあります。《自我》は、無意識か、日常的この世か、どちらに属しているのか、ということが実は大きな問題となって、子ども時代には存在したのです。      普通の発達では、自我は、光のある「この世界」へと進んで行き、そこを自己の定住の場、自己の本来的世界と認識します。子ども時代の中途半端な状態というものは、忘却され、個人的無意識にその遺跡を残すことになります。子どもの発達の過程において、普通に起こることとして、「エイリアン疑問、取り替え子疑問」というのがあります。こういう言葉では云わないと思うのですが、何と言うのか忘れました。これは、子どもが必ず一度は、自分は、本当に、両親の子どもなのだろうか、何か別のところから貰われて来た、「偽の子ども」ではないのかという疑問です。自分が偽の子どもかという疑問は、つまり、両親は、偽の両親ではないかという疑問である訳で、自我の安定の第一の基盤とも云える両親が偽ではないかというのは、「この世界」が偽ではないかということになります。しかし、これは、自我同一性の自己確認のために起こる疑問であるのが普通で、そうでないという保証を得て、自我は「この世界」は、まさに本物の世界だという確信に達するのです。      従って、「この世界の存在に対する懐疑」というのは、どこかの段階の発達課題の達成の失敗か、または、混乱が存在するということになります。      これは、発達心理学または無意識心理学での解釈というか、把握です。しかし、哲学的課題としては、自己の存在の根拠が見出せない、ということになります。この場合、「根拠」とは、実は、「わたしが《この世界》に存在していることの根拠が見出せない、ないとしか思えない」ということになります。核心としての「わたしの存在」には、実は懐疑はないのです。わたしがわたしだと認識するものが複数に分裂していたりする場合でも、それは「わたしの存在が、他在に宿る」のであって、「わたしの存在」は、懐疑以前なのです。というか、社会的発達的な「わたし」とは、社会や他者との関係で築かれた「わたし」なのですが、その根柢に「本来の原型としてのわたし」があるからです。      「世界が偽」であるというのと、「わたしが偽」であるというのは、全然異なることのように思えますが、本当は同じ事態なのです。何故なら、「わたし・世界が、偽」と感じているのは、「原型としての基底自我」だからです。      >ところで、この疑問を持つ人と、持たない人との違いはなんでしょうか?     発達課題の達成が不完全であった場合と、比較的うまく行った場合の違いがありますが、それ以外に、自我と無意識とのあいだの交通が、子ども時代のように、なお、或る面で比較的に保存されている人とされていない人の違いでしょう。宇宙的孤児性というのは、思想を根拠付け、説明するための概念で、日常的にそう適用できる訳ではありません。世界に対する疎外感(よそよしさの感覚)以外に、無意識との交通の道を持っているので、無意識にある「本来的世界」を感じるが故に、「この世界は、実は偽りではないか」と感じるという違いでしょう。      自我が、自己の安定基盤を失い動揺する場合というのは、文化衝撃(カルチャ・ショック)の場合がそうなのですが、その時、自分は「異郷」にいるのだ、「この世界は、自分の世界でない」と感じることがありますし、極端に珍しい、何か壮大過ぎるとか、戦慄させるような風景や場所に出会うと、「異郷感」とか「夢のなかにいるようだ」と感じます。      >また、この疑問は「生きていく」という目的に対してはネガティブなもので、考える必要性のないものかとも考えます。つまり精神的には不健全な思慮であり「病気」の元になるものかとも思うのですがいかがでしょうか?      そういう疑問というか、実存的直観・気分や世界把握を持つ場合、それが、自我の整序の(規模は色々でも)混乱に起因する場合は、広い意味で、自我が(この世の尺度で)「病気」であるので、そういう疑問になるので、話が逆です。単に「思考上の疑問」に留まり、実存の衝撃とかに繋がらないのであれば、別に問題はないでしょう。「思考上の疑問」として、距離を置いて、眺めることができるなら、「世界の異郷感覚」の呪縛の外にあると云えます。(貴方の場合は、現在は、「思考上の疑問」となっているようです。「精神的に不健全な思慮ではないか」という意識があるということは、世界の「よそよしさ」の感覚ではないからです。「違和感」というのは気分・直観で、思慮ではないのです)。   

naitie
質問者

お礼

非常に詳細な解説をありがとうございます。 回答の属性が「一般の方」となっていますが、驚きです。哲学者の方ではないのでしょうか・・ 最初に回答を読ませていただいたときは、私の理解を超えた内容に、熟読することができませんでしたが、改めて読ませていただくことで、少々理解が深まったように思います。 私の疑問のような課題は、哲学では「基礎」なのでしょう・・ 私のほうは逆に、自分の疑問が「奇病」ではなく、分類済みの「よくある病気」であることに、(予想していたとはいえ)安心させられました。 歴代の哲学者/心理学者の方々は、自分の疑問だけでなく他の持つ問題もこのように体系付けられたということは凄いことですよね・・。 ありがとうございました。

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