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卑弥呼の死と日蝕

 卑弥呼の死と日蝕は関係があるのですか。九州、畿内どちらも皆既日食にはならないようです。どの程度の日蝕が卑弥呼の死んだ年に起こったかはわからないけれど、それでも、やっぱり関係あるんですか?

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回答No.5

 「関係があるか、ないか」という断定的な判断は、不可能です。実際、その場面を見た現代人はいないのですから・・・。(^^;  mamunaさんがお読みになった本(?)にもきっと「日蝕の日に卑弥呼は殺された!?」なんて感じで、?マークがついているのでは・・・。  ただ、そういう見方、考え方もできる。そんなふうに考えたら楽しい、興味深い。その程度の判断でよいと思います。文字活字になっているものすべてが正しい、本当のことが書かれている、と思ってはいけません。あくまでも、書いた人、著者の意見です。  卑弥呼の死亡年は、247年説と248年説の2通りある。その両方に、人が一生のうち一度経験するかしないかの皆既日食があった。現代のように情報が豊富な時代ではありません。それこそオカルト的な考えが科学の王道でした。  太陽が隠れたのは「日の巫女」の行いが悪いからだ!  太陽が隠れてしまった。「日の巫女」様にお祈りを頼もう!  邪馬台国の時代の人々がどのように考えたか、想像することが楽しいのでは。  個人的には、卑弥呼は処刑され、同じく100人もの日の巫女たちも殺された(殉死)。だったらおもしろいな、と思います。

mamuna
質問者

お礼

 たしかに、?がついています。  説得力があるような、うまくかわされたような・・・。  ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • gajumaru
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回答No.4

再々登場です。 こういう話は尽きないですねぇ。 おっしゃる通り、太陽信仰は何も邪馬台国だけではありません。邪馬台国の候補地ではない東北にも太陽信仰はあり、「お供えを忘れた人間に怒った龍が太陽を食べてしまう」という伝承が秋田(だったと思います)に残っています。これは恐らく日蝕の事を語ったんだと思います。当然日蝕のときには生け贄みたいな事はあったでしょう。 また雨の岩戸の神話も「247、8年の日蝕と卑弥呼が殺される場面」を神話化したものであるとする人もいます。(賛成できない部分も多々ありますが) 何にせよ、日蝕を見た邪馬台国の人々は大混乱になったという説に異論はありません。ただ、それによって何が起こったか、(ナンバー2に暗殺されたか、他国が混乱に乗じて攻めてきたか、責任をとって自害したか、ただ退位しただけか)という部分については分かりませんし、邪馬台国の位置を示す一つの素材とはなっても、決定的証拠とは言えないでしょう。 それと、最初の回答の補足に邪馬台国が九州なら、陸行一月が矛盾するとおっしゃってましたが、「水行十日の後、陸行一月」なら矛盾しますが、「海路を行けば10日、陸路を行けば1月」と読めば矛盾しないと九州説の人は言いますね。確かに一度寄港してから陸路を行くなら、その港のある都市名(国名)は出てきても良いと思います。それ以外のところは実際に書かれていますし。 難しいですね。私は少し邪馬台国九州説よりです。一番無理がないと思います。

回答No.3

邪馬台国の所在地については皆さん其々の持論があって百花繚乱と言ったところでしょう。質問については斎藤国治著「古代天文学の道-歴史の中の天文現象」1990年原書房により検証結果があります。この本の結論から言えば、邪馬台国が大和であれば248年の日食が、九州であれば247年の日食が影響を与えたことになり、北部九州では皆既のまま日没した、とあります。ただ卑弥呼の死を248年としてあることから、この時点でも疑問は残るところでしょう。天照の神話については影響があったかもしれませんね。これを結び付ける訳ではありませんが。247年の日食が太陽信仰により死をもたらされ、喪がりの期間を経、248年に径百歩の塚をつくり、それが正始9年だったのかも。やはり何年経ってもロマンです。

  • gajumaru
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回答No.2

またまた、こんにちは! まず最初にお詫びです。前回の回答で、卑弥呼が死んだのは248年と書いてますが、247年ですね。すいません。これを間違ってたら後の文の訳分からないですよね。 247年の日蝕は午後4時頃から徐々にかけ始め、そのまま日没となったとなってますので、内陸部でも欠けていく太陽はきれいに見えたと思います。(晴れていたならの話ですが)実際、内陸部での見えたかどうかのシミュレーションをやった方もおられます。 その夜はすごい騒ぎだったと思います。太陽が無くなったと皆が思った事でしょう。そこで何か政権の交代のようなもの、もしかしたらクーデターが企てられたのかもしれません。私は卑弥呼はこの時点で殺されたと考えることに異論はありません。十分あり得る事だと思います。 それと、中国では日蝕の事を知られてはいましたが、やはり不吉なこととして認識されており、それがもし事前に卑弥呼に伝わっていたとしても、やはり国の非常事態だったと思います。この国は呪われた!っていう風に。 248年の方は、太陽は出きっているにも関わらずまだ欠けていたという事なので、まだ前年の日蝕の記憶も新しいところへ、また(一部)黒い太陽が出てきたという事になります。 しかし、前回と違うのは、段々明けてきたという事です。これは、見た人にとっては恐怖ではなかったのではないでしょうか。「ああ良かった~」っていう人が多かったと思います。台与を即位させて正解だったって事になったのではないでしょうか?祭りだ!となったと思います。 どちらにせよ、2年連続の日蝕が邪馬台国で見られたなら、当時の人々は大騒ぎしたと思います。霊的なものを感じるには、十分な要素だったと思います。 でも邪馬台国が九州になければ、この話は成り立ちませんけど。 mamuna様は邪馬台国はどこにあったと思います?

mamuna
質問者

補足

 なるほど・・・。  前回いただいた回答に >卑弥呼が太陽神のつかい(日神子、日巫女)として崇められていて  とありました。  日神子、日巫女は、卑弥呼以外にも全国にたくさんいたことでしょう。その人たちも処刑された可能性はありますよね。  何かの伝承に残っているのでしょうか。  私は、邪馬台国の場所はどこでもかまいません。

  • gajumaru
  • ベストアンサー率57% (38/66)
回答No.1

初めまして! 皆既日食の年は逆算できるらしく、247年、248年に日本で皆既日食があったそうです。248年は丁度卑弥呼が死んだとされる年です。 しかも、この皆既日食は北九州でのみ見られたものだそうで、この事実をもとに邪馬台国北九州説を唱えている方もおられます。 もし、卑弥呼が太陽神のつかい(日神子、日巫女)として崇められていて、邪馬台国が北九州にあったとすれば、2年も続けていきなり昼間に太陽がなくなり真っ暗になれば、卑弥呼のせいにされたと思って間違いないでしょう。 日食が原因で「暗殺された」「自殺した」と考えても、私は無理はないように思います。

mamuna
質問者

補足

 素朴な疑問なんですが・・・。 >昼間に太陽がなくなり  247年 日没時、北九州の西方海上  248年 日出時  明るかったのが暗くなったのではないようです。卑弥呼の邪馬台国が北九州の海沿いにあったのなら、なるほど・・・とも思えるのですが、倭人伝の記述でいうと、最後に陸を何日も行っています。海沿いを歩くなら、船で行くほうがよっぽど楽だし。おそらく、内陸に入っていったと思われます。これは、日蝕の見える場所=邪馬台国にはならない。という程度です。推論です。  魏と親交し、鬼道に優れていた卑弥呼が日蝕を知らなかったとも思えないし。  邪馬台国連合が卑弥呼を必要としなくなった。ナンバー2が卑弥呼を葬る良い理由が欲しかった。ということなのでしょうか。

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