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なぜ日本ではキリスト教の普及率が悪いのか?

lightgridの回答

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  • lightgrid
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回答No.8

 むしろ、何故、韓国や台湾でキリスト教が人気があるかを考えるべきです。  各国に昔からある宗教というのは、支配者によって人々を支配するために利用され、そのように歪められた歴史を持っています。韓国や台湾では、歴史的に中国本土の支配者の圧政を受け、社会構造的に、国民は、伝統的な仏教は自分たちに何もしてくれなかった、自分たちを支配してきた、という思いが強いのではないでしょうか。従って、自分たちを、より自由にし平等に扱ってくれそうな、外来のキリスト教を理想化して期待しているのだと思います。  しかし、西洋では、キリスト教は、実際には、当初(ローマ帝国時代)から支配者によって人々を支配するために創作され、歪められ、利用され、戦争の原因でもありました(現在も)。「三位一体」、聖母マリアの処女懐胎、最後の審判、も創作されたものですよね。  日本は、国際法に反してキリスト教国のアメリカから原爆を落とされ、アメリカはそれをいまだに正当化しています。欧米のキリスト教では、非キリスト教徒の日本人を対等な人間と見ていないでしょう。・・・日本人にはキリスト教に対する不信感があります。そのような尊敬すべからざるキリスト教徒に自らなろうとは思わないのではないでしょうか。日本人は、キリスト教国の経済的な豊かさにあこがれているだけです。  キリスト教は昔から福音活動に熱心ですから、日本人はその内容を皆おおかた知っていると思います。しかし、上述のように、キリスト教も、支配者によって人々を支配するために利用され、そのように歪められいますから、イエスキリストの教えが、どの程度、聖書にもとのまま残っているかは、分かりません。日本人はそのことを知っているのです。欧米のキリスト教の多くの研究者でさえ、聖書の大部分が事実でないと考えます。  キリスト教の神を信じれば悪人でも天国に行くことができ、信じないものは善人でも地獄に落ちる・・・そのような、日本人の長い歴史にわたって体験してきた因果応報の法則に反し非常識で不道徳な教えは、日本人には通じないのだと思います。  また、日本人は、元々、自然を崇拝し、多神教でしたから、人間のように嫉妬する尊敬できない絶対的唯一神に強い違和感を持つのだと思います。  今や、ニューエイジの時代です。質問者様、キリスト教にこだわることなく、「プレアデス+ かく語りき」バ-バラ・マーシハニック(太陽出版)、「テオドールから地球へ」ジーナ・レイク(たま出版)、「シルバーバーチの霊訓」アンドゥーリー(潮文社)、「神との対話」ニール・ドナルドウォルシュ(サンマーク出版)をお読み下さい。日本において、なぜキリスト教が浸透しないのかを、より深くご理解いただけると思います。

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