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なぜ、こと神のこととなると人は饒舌になるのか?

たとえば、このカテゴリーでもしばしば、 神についての問題が質問にあがりますが、 それに対する回答数はぬきん出ています。 対して、哲学や神学のちょっと専門的な質問になると、 閑古鳥が鳴いています。 街を歩けば月二、三度は、宗教勧誘に出くわします。 日本には、解脱者、救済者、生き菩薩、ブッダ、キリスト、 牧者、超人、神、鬼、化け物、魑魅魍魎、細木和子らが、 右にも左にもわんさといて、 絶えず「我唯独真理なれば汝此れへ来たらん」と説きまわります。 狭き門?それはうそ。どうしてどうして、 あの人もこの人もが真理を知ってる。 けっこうな大通りじゃないですか。 学校での成績も振るわなかったある女性が、 何でもある日突然、神に選ばれたそうで、 キリスト教の説教者になって、 真理なるものを語り始めました。 ただし、故郷ではなく別の街で。 「神」でググると、でるわでるわ。 検索になりゃしません。 いったい、神とか真理のことになると、 どうして人は饒舌になるのでしょうか? 最後に、どうかこの質問に、 閑古鳥が鳴きませんように。

noname#17662
noname#17662

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noname#18088
noname#18088
回答No.8

ひとつには人間は原因を求める動物だからかもしれませんね。例えば何か不幸が起こった場合帰納法的にその前兆みたいなものを想像いたしますね。ある人が亡くなった。そういえば朝からすが鳴いてうるさかった。などのような、なんらかの因果関係を見出そうとします。自然の因果は偶然であるか、それとも因果律が存在するか、後者である場合は究極の原因は何であるか。それについての学問が形而上学ですが、もともとそれは人間の経験を超えた世界を対象としていますので理論理性で認識することは出来ません。いわゆる神の存在、不滅の霊魂、自由意志の問題は全て現象としての対象であり、実在するかどうかは人間の理性では把握できません。だからこそ自由な非科学的な発言も赦されるわけで似非宗教も万延する理由ともなるわけです。いずれにしろ人間は形而上的なものに意味を与えようとする動物だともいえます。 一般人としての発言でした。

noname#17662
質問者

お礼

そういえば、仏教にも因果応報、 キリスト教やイスラム教にも原罪という考え方がありますね。 夜空を見上げては、 本来意味のない星屑の散らばりに、 図形や生き物を描いては、 さまざまな物語をつむぎだす人間は、 路傍の石ころにでも意味を見出さずに入られない、 生き物なのかもしれませんね。 崇高ともいえますし、 病的ともいえますし。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (7)

noname#72832
noname#72832
回答No.7

神、というのはとても抽象的で、実際に存在を確認する術は(今のところ私には)見つかりません。 だからこそ、神に対する考え方も人それぞれです。 「いる」という人も「いない」という人もいますし、「いる」というならどういうものか、「いない」というならその理由とか、とにかく人によって想像しているものは違うと思います。 「神」に関してはみんなが専門家なんだともいえるでしょう。 ですが、質問者さまの仰る「哲学や神学のちょっと専門的な質問」はそうはいきません。 確立されている宗教(キリスト・イスラムなど)にはその宗教の真実があります。 その質問に答えるには、その宗教に関する専門的知識が必要となります。 確立されている宗教への質問には、自分の考えを答えとして投稿するわけにはいきません。 >でもそれだったら、神の存在不在こそ、ろくな知識やベースのないまま語るのは、饒舌に過ぎると思います。 「神」はいます。私がそう思っている限り、「私の世界」(つまり私から見た世界)にはいるんです。 ただ、「他の人の世界」にはいないかもしれません。そういうことです。 神に関することなど、確認できないことは人によって真理は違います。(相対的、っていうんですかね?) 饒舌になる理由、は、みんな「自分の神観」(神に対する考え方ですね)を認めてもらいたい・知ってもらいたいからだと思います。 自分の感じたことを他人に知ってもらいたいというのは、大体の人間の常だと思います。 自分の中だけのものだと思ってたものを共感してもらえれば嬉しいですよね。 反発されたらされたで、「こういう考えもあるんだ」と吸収するもよし、「いや、私はこれでいいんだ」と貫くもよし。 話し合って他人の考えを知りたい、という風に思う人が多いのも無理からぬことじゃないでしょうか?

noname#17662
質問者

お礼

実際に存在を確認する術がないからこそ、 さまざまな方が、さまざまな立場から回答をなさるのですね。 luneiさんにとっては、真理は相対的なものであって、 人それぞれ違うということなのですね。 だとすると、50名近くの回答が寄せられる理由がなんとなくつきます。 >饒舌になる理由、は、みんな「自分の神観」(神に対する考え方ですね)を認めてもらいたい・知ってもらいたいからだと思います。 実は私もそう思いました。 それがとても人間らしい心の働きとも思っています。 一方で、今日の世界にはluneiさんのおっしゃたような、 >『反発されたらされたで、「こういう考えもあるんだ」と吸収する』のとは別に、 違う考え方、違う立場を、排他するケースがあるのもちょっと考えてしまいますが。 ご回答ありがとうございました。

noname#17702
noname#17702
回答No.6

もし神さんなんてものが存在するとしたら、それは超々スーバースターな訳ですよ。 なので、信じる信じないの如何を問わず世界中の人の関心事な訳ですね。 だから回答が多い。 神学的哲学的質問について回答するはそれなりのベース知識と体系の理解も必要になり限られてきます。 いずれにせよ、神を語る人には気を付けましょう。(笑)

noname#17662
質問者

お礼

神の存在ってそんなに世界中の多くの人の関心事なのですね。 ちょっと驚きです。 なんだかあんまり気にしていないと思ってました。 だからこそ宗教勧誘者は無視されるのではと。 確かに専門的な質問に答えるには、 ベース知識と体系の理解が必要となるのは、 仕方のないことですね。 だから私の表現は、「ほとんど誰も答えない」ではなく、 「ほとんど誰も答えられない」というのが正解でした。 でもそれだったら、神の存在不在こそ、 ろくな知識やベースのないまま語るのは、 饒舌に過ぎると思います。 ご回答ありがとうございました。

  • 8942
  • ベストアンサー率13% (188/1414)
回答No.5

いるか?いないか?などの話題には専門知識が無くても参加できるし、 なぜか誰でも考えた事のあるテーマですからね。

noname#17662
質問者

お礼

いるか?いないか?の問題になると、 多くの人が参加するのでしょうかね。 そういえば、ネッシーやツチノコもそうなのかしら? ご回答ありがとうございました。

noname#18088
noname#18088
回答No.4

参考になるかどうか分かりませんが、ここのカテゴリーで語られる神というのは有神論的な神つまり人格的な神であり宗教的な立場ですよね。 現在ではそうした超越者たる神は哲学の対象にはならないのです。 ですから専門家の回答が寄せられることはありません。

noname#17662
質問者

お礼

(今日の)哲学では、人格神は範疇外なのですね。 また、多くの専門家の場合、仕事に忙しくて、 掲示板サイトなんぞをのぞく時間はないと思うので、 確かに専門家から回答が寄せられることはないでしょうね。 あっと、失礼しました。 parsadigmさん、専門家でいらっしゃいましたね(笑 ご回答ありがとうございました。

  • riehana
  • ベストアンサー率28% (14/50)
回答No.3

それは私たち人間にとって信仰・愛が最も大切なもので、求めているもので、そして何よりそれに飢えているからだと思います^^ それにも関わらず、友達や、家族と神様について語るのが難しいと感じる人が多いからこそ、ネット上でディスカッションしたい!または証したい!と思う人が多いのではないのでしょうか?? 神様の話=宗教ではなく、もっと自由に自分の心に素直になって、お互いに信仰を証できるそんな世の中が早く来ますように・・・。

noname#17662
質問者

お礼

たしかに多くの人が愛に飢えて、求めていますよね。 ただ、信仰に飢えて求めているかどうか。 少なくともこの国(日本)では。 少し思うのですが、riehanaのような方をのぞく多くの人の場合、 ネット上でディスカッションしたい!または証したい!というのは、 自己顕示の姿勢の裏返しではないかと、 ふと思うことがあるのです。 ご回答ありがとうございました。

  • galluda
  • ベストアンサー率35% (440/1242)
回答No.2

がると申します。 ちと「哲学や神学のちょっと専門的な質問」がふと頭に思い浮かばなかったのですが。 或いは、そういう質問は、普段考えてもいない内容である、という可能性はないでしょうか? 対して、神とか真理とかは、多分深く考えるとどこまでも深いと思うのですが、とりあえず多くの人が一度は考えさせられている事象なのではなかろうか、と思っています。

noname#17662
質問者

お礼

「髭剃りクリームからでも哲学は生まれる」 と言った人がいたかもしれません。 きっとそうなのでしょうが、 ただ、私は哲学家でも神学家でもないのですが、 質問が今日の哲学のテーマにかかわるものか、 そうでないものかはなんとなくわかるような気がします。 たとえば「神は私たちに何を求めていますか?」という質問は、 今日の(学問的な意味での)哲学的なテーマでは、 あまり扱わないように思います。 しかしながら、このカテゴリーでは、 上のような質問にはのべ2桁台の回答者が殺到します。 そのような意味でした。 結局、多くの人が一度は考えさせられている事だから ということになるのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

noname#17662
質問者

補足

すみません。 「神は私たちに何を求めていますか?」という質問ではなく、 「神様はいますか?」という少し前の質問でした。 現在じつにおどろきの、のべで44名の回答者です。

  • stihl260
  • ベストアンサー率11% (22/193)
回答No.1

「神」であったり「死」であったり 「死後の世界」であったり、居るのか、あるのか 確定できないものだから。 どうにでも 語れるのです。

noname#17662
質問者

お礼

居るのか、あるのか確定できないものだからこそ、 慎重に語るべきだと思うのですが・・・。 語らずにはいられないのでしょうかね。 ご回答ありがとうございました。

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  • 第三章 特異な内容のオシエ(宗教) 

     ○  神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第三章 特異な内容のオシエ――イエス・キリストという補助線説明について――  1. 神とは何であるかについて説明するのが 補助線としてのオシエです。(ちなみに 《神》というコトバも 補助線です。《かみ》というコトバ・文字・発音は 神そのものではありません)。  2. 聖書の神は 新約に到って――もとからのあり方がいっそう明らかになったごとくではありつつ―― 一般的に見て 特殊である。《ふつうの人間イエスは 同時に 神の子でありみづからも神なるキリストである》と想定している。  3. 神は 《真理》として これを人間が信じるものである。人間イエスは存在としての《事実》であり そしてそのオシエは 《キリスト・イエスの主観真実が表わされたコトバとしての命題(考え・判断)》である。つまり 考えるものである。  4. ここでは この特殊な神学について 聖母と呼ばれるマリアをめぐって 説明し得たらと願う。  5. すなわち マリアは 一方で神の貌(かお・かたち)としての議論においては 神なる聖霊によってみごもった。また一方で人間の貌としては 許婚のヨセフとのコイトスをつうじて受胎した。  6. 聖霊によるものと人間の精子によるものとふたつの受胎が同時に起きたという物語である。明らかにおとぎ話である。  7. このほうが しかしながら 人びとには 元気をあたえる。人びとがそれぞれ元気が出ることをささえる。のではないか?  8. もしゴータマ・ブッダのように 法身としてのブッダ――すなわち《真理》――と そして必ずしも百分の百においてではないと考えるが応身としての――ひとという事実存在としての――ブッダとに分かれているならば 人びとにとっての元気は――つまりブッダター(仏性)の発現は―― その場その現在においてただちには のぞみがたい。ということになるのではあるまいか?  9. マリアなる女性における聖霊によるイエス・キリストの身ごもり この奇妙奇天烈な物語のほうが 人間にとっては よりいっそう現実的である。のではあるまいか。  10. なお ゴータマ・ブッダによるオシエは 考えてみるに必ずしも補助線ではないと思われる。それは 向こう岸へ渡す筏であり 渡ったあとは捨ててしまってよいというように補助線のごとくではあるが どうもそうでもないようだ。  11. それは けっきょく足場でしかないように思われる。足場がいかに立派に組まれていたとしても 本体の家が 立派に建てられる保証はまだない。のぞむ家とはまるで違ったものが建つかもしれないし または何にも建たなかったということもあるかも知れない。  12. つまり 《家》としての法身なるブッダ(真理)が そのオシエなる補助線によって指し示されたとは なおまだ言い難い。単に家の出来上がると想定されたところに ただ足場をこしらえただけであったと成らないとも限らない。  13. つまりは ブッダターの発現としてのさとりなる状態が――つまり肝心の家本体が―― まるでさだかでも明らかでもない。二千年を超えて永遠に 分からない状態でありつづけている。と言わざるを得ない。(むろんこれは ブッダ批判です)。  ☆ 以上の趣旨説明について 当否・是非を問います。思いっきり自由なご見解をどうぞ。