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アナクシマンドロス 伝承断片について

daremominaの回答

回答No.3

有限と言うことを理解するのは難しいかもしれません。 私の言った質的な差異とは、赤と黄色、と言ったようなニュアンスの差異でもあり、赤や黄色自体が有限かどうかとは、又別の問題でもあります。 おそらくに、おっしゃられんとする有限とは、人と言う形を成していることは有限である、つまり人は死ぬ、色においては褪せる、と言うことであると思います。しかしながら、人と言う形自体が有限であるのかどうかは、全く概念的な、知的な有限性を問うたものであります。  知的な有限性とは、「赤が赤であることに有限性を認めるのは難しいと思う、と言うような有限性」を言うのであり、これによればむしろ、赤が赤である分には全く普遍的でもあるとも言えます。  赤であったものが赤でなくなる。人であったものが人でなくなるのは、アナクシマンドロスの言うとおりの、世の常ですが、これはつまり、知的な有限性というフィルターを通して、諸々の映り行く様を事柄として見るが故に、世の万物は流転すると映るのであって、実には、流転とか、不変であるとか、そういうことを問うことがない世界、相対論で言う所の、光と同じ速さになる、といったようなニュアンスでものを見るなら、諸事物の根源はト・アペロイン、となるのではないでしょうか。 私には、有限性を知るのが難しい。私の理解する、貴方のおっしゃらんとした有限性とは、このようなものです。知的な有限性によって、無量を見る事で、発生するもの。  哲学者の尾ひれは、裏返って海に浮かぶヨットのフィンのようです。

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