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アナクシマンドロス 伝承断片について

ミレトス学派のアナクシマンドロスについてですが、彼が残したと確実にわかっている伝承断片で、 「存在するも諸事物の元のもの(アルケー)は、無限なるもの(ト・アペイロン)である。・・・存在する諸事物にとってそれから生成がなされる源、その当のもとへと、消滅もまた必然に従ってなされる。なぜなら、それらの緒事物は、交互に時の定めに従って、不正に対する罰を受け、償いをするからである。」という文章があります。  これは、どのような意味であると思いますか?私は諸事物はあるプラスの面があるとすれば、マイナスの面が交互にやってきて、つまりはイーブンになるとかそういう意味であると思います。彼は、アルケーは無限なるもので、その中に対立して存在する熱い物と冷たいもの、乾いたものと湿ったものが緒事物の源であると言っていました。  また、この考えかたは宗教的な意味合いを含んでいると皆さんは思いますか?私はアナクシマンドロスが緒事物の生成原因を神の手を介在するとは言っていないので宗教的ではないと思います。しかし、「不正に対する罰を受け、償いをするからである」という言葉は見方によれば宗教的であるとも思われます。みなさんの見解を教えてください。もちろん哲学には答えは無いと思うのですが、どのような考え方があるか知りたいです。

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回答No.2

 そのアルケーにおいては、熱冷、乾湿の違いは無いのだけれど、アルケーから生まれた物的世界からみれば、相反するもの同士が、混ざってあるように見える。ということであると思います。  罪も贖いも、アルケーにおいては同じことだけれど、物的世界から見れば、罪、贖いを繰り返しているように見える。 アルケーは量であり、物的世界は質である。 そのように私は解釈いたしました。

noname#234150
質問者

お礼

deremominaさん回答ありがとうございました。回答遅れてすいません。自分でも考えてきました。アルケーはが無限というのは量で、質的には有限という考え方ですね。このような考え方もあると関心しました。  また、私は「交互の時の定めによって不正に対する罰を受け、償いをする」というのは、例えば人間などはその存在自体が罪(自然破壊活動を行ったり、他の生物を糧に生きているため)であり、そのために死んだり、生まれたりするものではないかと新たに解釈しました。つまり、無限のものが有限になって形をなしている事態で他のものに対して罪であり、不安定でありそれ自体が存在できる寿命が決まっているのでこのような表現をしたのではないかと思いました。この表現は神が介在しているような表現であるけれど、実際は介在していなく、詩的に表現したかっただけかと自分は思いました。  また、アルケーは例えば水とか空気と言っても、それは、それ自体は変化するものでその過程の物質(例えば水)と決め付けることはできないので無限なるものト・アペイロンと言ったのではないかと思います。宇宙の始めは何だったかなどはまだわかっておらず、今の科学でもわからないことがあります。そう考えればあながち昔の考えも間違っていないかもしれませんね。

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回答No.4

もし、真に有限性なるものが認められるならば、それは、無点から、何らかのベクトルが生じた時、そのベクトルは有限と、、いや、それでも難しい。しかしながら、「生じたこと」と言うのは、有限とも言えなくもないかもしれない。たぶん言えないと思うけど。  あるベクトルが無点から生じたと言う事は、図的に言うと、そのアンチ方向は無点です。それで、もしかしたら真に有限と言えるかもと思ったのですが、、やはり、無理だと思いなおしたのは、無点と言う事は、ベクトル自身がそれを含有?している、ストローのような概念構造と言うことです。それは、生きた絵画のようなものです。 小さくもない、大きくもない、人は、幸せでしかるべしです。

noname#234150
質問者

お礼

回答ありがとうございました。でも、途中から何を言っているか全くわかりませんでした。もしかしたらあなたは大学の教授か、なにか専門的に研究している人なのではないのでしょうか?わたしは学生で授業でこのことについて調べてこいと言われたような素人でありますので、わざわざ回答いただいたのに理解できずにすいません。  哲学は考える学問で答えは無いと思うのですが、そこから何か得られるものがあると思います。これからも哲学について考えてみたいと思いますので、今回はありがとうございました。

回答No.3

有限と言うことを理解するのは難しいかもしれません。 私の言った質的な差異とは、赤と黄色、と言ったようなニュアンスの差異でもあり、赤や黄色自体が有限かどうかとは、又別の問題でもあります。 おそらくに、おっしゃられんとする有限とは、人と言う形を成していることは有限である、つまり人は死ぬ、色においては褪せる、と言うことであると思います。しかしながら、人と言う形自体が有限であるのかどうかは、全く概念的な、知的な有限性を問うたものであります。  知的な有限性とは、「赤が赤であることに有限性を認めるのは難しいと思う、と言うような有限性」を言うのであり、これによればむしろ、赤が赤である分には全く普遍的でもあるとも言えます。  赤であったものが赤でなくなる。人であったものが人でなくなるのは、アナクシマンドロスの言うとおりの、世の常ですが、これはつまり、知的な有限性というフィルターを通して、諸々の映り行く様を事柄として見るが故に、世の万物は流転すると映るのであって、実には、流転とか、不変であるとか、そういうことを問うことがない世界、相対論で言う所の、光と同じ速さになる、といったようなニュアンスでものを見るなら、諸事物の根源はト・アペロイン、となるのではないでしょうか。 私には、有限性を知るのが難しい。私の理解する、貴方のおっしゃらんとした有限性とは、このようなものです。知的な有限性によって、無量を見る事で、発生するもの。  哲学者の尾ひれは、裏返って海に浮かぶヨットのフィンのようです。

  • kigurumi
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回答No.1

調べてきました。 http://homepage2.nifty.com/jomako/industrialism/works/tetugaku1/tetugaku1.html 【「永遠の法則に従って不定の無制限なものから常に新しい世界が出て行き・・・時の秩序に従って次々に不正に対して罪と贖罪を課しながらまた同じものの中に帰っていく」と。 「不正に対して罪と贖罪」とは生物の環境への適応に失敗したら滅びるという適応のサンクション(制裁)のことである。】

noname#234150
質問者

お礼

kigurumiさん回答ありがとうございました。このページはけっこう参考になりました。  また、私の考えを他の回答のお礼のところで書いておいたので、よろしかったら参考にしてください。

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