- ベストアンサー
なぜ親は子供に「なぜ」と問わないのか
親子の会話で「なぜ」がありません。 「なぜ」という言葉はとても大事だと思います。 相手を理解しようという姿勢がそこに見えます。 親がそうしないと、子供も「なぜ」親が機嫌が悪いのか苦しんでいるのかと 理解しようとはしないのではないでしょうか。それともそれは、ただやさしくない 親思いでないからでしょうか。 「なぜ」ふさぎこんでいるのか「なぜ」無愛想なのか「なぜ」お父さんが嫌いなのか、「なぜ」部活動に入らないのか「なぜ」外見に注意を払わないのか、そう問うてくれてもよかったはずです。「なぜ」を発することが皆無といってもいい親子関係でしたし、今もそうです。 たとえばだいぶ昔のことですが、高校時代に理系に行くのか文系に行くのか迷って時期があって、結局無理して理系にして、大学に入ったはいいが詮理系向きではないので挫折して中退したということがあったのですが、そのとき「なぜ理系にするの」というような「探り」が親からあれば、当時の屈折した心理を説明できたのだろうと思います。 それで、失敗を回避できたかもしれない。 そんな例はいろいろあると思います。なぜ親は「なぜ」を子供に問わないのでしょう。
- みんなの回答 (10)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
◇ >「なぜ」という言葉はとても大事だと思います。 相手を理解しようという姿勢がそこに見えます。 親がそうしないと、子供も「なぜ」親が機嫌が悪いのか苦しんでいるのかと 理解しようとはしないのではないでしょうか。 :まさしくその通りで、論理的帰結と言えるでしょう。 >なぜ親は「なぜ」を子供に問わないのでしょう。 :色々な意味で「怖い」からでしょう。 ◇ 子供の主体性を尊重しているというのは詭弁です。逃げている上に嘘をついているわけです。 親は子供に対して適切な環境を準備する義務があります。 無論一生に渡って、ということではありません。 子供に自力で生きていく肉体と精神が備わる段階までで十分であろうと思います。 この全くの「無抵抗な存在」としての時代に親から存分の愛や庇護を享受できなかった場合、子供としては「親といえどそういうものなのだ。」 つまり、心底から頼ることはできず、親といっても一人の人間である以上自分が一番なのだという記憶を無意識深く刷り込ませざるをえないわけです。 幼い時に得た親に対する信頼感は一生保持されるだろうと私は思います。 なぜなら、本当に必要な時に親は自分を助けてくれるし、自分が親にとって間違いなく大事なものなのだという実感を得ることができるからです。 本当の親である必要はありませんが、このような精神的な後ろだてがあって初めて人は自ら自立への道を踏み出せるように思います。 ◇ そういう意味で、bossambaさんは自立するのに人一倍苦労するかもしれません。 まして今は、自立している状態とはとても言えないことがご質問の内容から窺われます。 ただ、先に述べてきたようにそれは明らかに「親のせい」といって差し支えないと私は判断します。 仮に、あなたが確固とした自我の殻を築き始めてから親に優しくされたとしても、それはまやかしであって単なるおためごかしに過ぎないことをあなたはすぐに見抜いたことでしょう。 では、親はあなたを嫌いだったのかといえば、それもまた違うと思います。 ただ、冒頭述べたように「怖かった」ということではないかと思います。 別の言葉で言えば、あなたに対して自信がなかった、ということでしょう。 ◇ 本当に愛する者に対する正しい愛情表現の仕方を知らない。 これは不幸なことの一つに含まれるかもしれません。 しかし親も、その親から同様の育てられ方をしてきたのだと推測できます。 恐らくは、そのまた親も同様に・・・。 愛され方を知らないから正しく愛せない。 どうして良いかわからなかったのではないでしょうか。 ただ、出来る限りのことを精一杯やるしかなかった、ということでしょう、 そして、出来ることといえば、自信のない自らの考えを大事な子供の人生における決定的な局面でひたすら隠し続けることだったのではないでしょうか。 その替わり、得てしてこういう方はどうでもいいことに対しては、その埋め合わせをしようとでもするかのように過剰なほどの自己主張をするものです。 ですから、そういう親は優しくなかったといって責められるべきではないでしょう。 責めうるとすれば「なぜ、そんなに臆病なのか」ということになるでしょうが、それとても子供のためとひたすら思い込んでいた結果だとすればどこまで責めることが可能か定かではないような気もします。 この構図から脱却しなければ、多分bossambaさんも同じことを身内や他者に繰り返すことになるでしょう。 そこに「連鎖」はあってもbossambaさん自身の「自立した個」の影響は殆んど痕跡を残さないはずです。 前項で、今の時点では自立していることにはならないと申し上げたのはこのような意味からです。 この連鎖を断ち切ってbossambaさん自身の個をスタートさせるためには、親も一人の人間であるという単純な事実を認める必要があります。 生んだ以上育てるのは義務でもありますから、育ててもらったなどとありきたりな恩を感じたりする必要はありません。 人一人が世の中で生きていくのは大変なことです。 その上、自分という子供まで背負って良くやってきたものだなあ、というぐらいの「対等の人間としての評価」を与えるべきだということです。 これは事実を事実として認めるという単純な作業です。 そこから先、親に対してどのような感覚を持つのか。 それでもなお殺したいほど憎む人もいるでしょうし、そうでないかもしれない。 それはまさに人それぞれと言うしかないことであろうと思われます。
その他の回答 (9)
心理学カテで一番知能が低い(IQ80)という自負があるNO6ですが、 回答者さんはどなたもしっかりした方ばかりです(微笑)。 それにbossambaさんもとてもしっかりしておられます(微笑)。 完ぺき主義なんじゃないでしょうか? 社会性も結婚も子育ても適当が上手くいくものですよ。 アホになれるほうが生きるのが楽です。 いっそポカーンとしていて気がついたら、 チビが乳にぶら下がっておるではないか(笑) ぐらいでいいです?。 私は人生も折り返し地点にある年齢なのですが、 今から大学受験するのもありよねっていう人間です。 好きなことには忠実になりたいから。 親が子供に「なぜ」と問わないのかは、 親が処世訓に長けた人物であっても、 哲学的センスがないからでしょうね。 心理学的には、 親子であっても共有感は破綻している。 遠慮がちに気を使った結果である。 親は子供より世間様に対して恥ずかしくないでいる、 むしろ立派と言われたいのが優先しているから。 つまりみんな不器用なだけで、 悪意からではない。 だと思います。
お礼
「なぜ」と問わないなんていう言い方がまどろっこしいと思いました。要するに「気遣い」をするかしないかということなんで、そのための準備としてという意味かなと考えています。 考えてもうまくいくもんじゃないですよね。私も落ち着いたらカルチャーしたいと思います。 哲学的センスというものが文学的センスと置き換わってもいいかと思います。情緒でしょうかね。そういうバランスが大事なんでしょうが。世間様の方ばかり向いていると、身近にいる人間の心持に無頓着になっていくのでしょうかね。世間は事務、身近には文学(哀れみ)を持っていきたいものですが、親になる日が来る確率は低いようです。
- goosuka003
- ベストアンサー率20% (23/110)
>今回もいつも心に張り付いている私にとっては根本的な、人生を左右した疑問なのです。だから、すっきりしたいさせてもらいたいという思い まあ、そんなふうに思い詰めていらっしゃるかということで再度です。 でもね、ここまで来たら、すっきりさせるのは結局、御自分の力でなければならず、しかも永久に無理かもしれません。 >「なぜ」と経済的な焦りと関係あるでしょうか。 それはあると思いますよ。社会の出来事を見て御覧なさいな。親子でも金銭の問題が絡むと殺し合いです。その前には、さんざん「なぜ」「どうして、お前は」そういった怒号が飛び交ったことでしょうよ。 「金持ちケンカせず」というのは本当だと思います。取り敢えず金銭が潤沢であれば他のことには甘くなったりするものです。 逆に経済状態が苦しければ親だって一日も早く子に独立してもらいたい、あわよくばラクもさせてもらいたいから、それにあたっての失敗は避けたい、ということで自然、口やかましくもなりましょう。 >子供時代は親への不信感が大きくなってしまったという歴史があるわけです。つまり私の「心」など親にとっては問題ではないのだ、私の考えること思うことは所詮ガキの遠吠えに過ぎないのだ それは私にしたって同じ事。 詰まりは貴方、親御さんに一個の自立した人間として扱ってもらえなかった、そしてそれは今に至っても、そうなのであるということが御不満の理由なのではないですか? ガキがガキ扱いされても致しかたないこと。敢えて、そうしない見識の人だっていますけれど。 過ぎた事をほじくり返して 「だから、こうなるの!」 と叫び続けて一生終わるつもりでしょうか? 問題は今、現在じゃないのですか? 貴方が過ぎにし過去を、くちゃくちゃ思い返し続けるというのは取りも直さず、今現在も同じ状況下にあるからなのでしょう? なるほど過去は現在と切り離せない。 事態はちっとも変わっていない。 なぜなんだ! それは昔、あの頃…この繰り返し。繰り返しになってるとしたら、「ほじくり返す」のが解決策ではないということの証拠です。違いますか? >親の干渉が少なかったから迷っている状態が続いている やれやれ、このサイトで 「親に干渉され私の主体性を踏みにじったから人生大失敗した!」 と嘆いている人もいましたっけ。 求職中とのこと。とにかく頑張ってください。 「主体性尊重」などではなく「まともに取り合ってはくれなかった」ということなのでしたら まず、「今の」貴方をマトモな大人として扱ってもらうように持っていかなければなりません。 ガキのままで大人扱いを要求したって無理、自分という一個の人間と真正面から向き合ってもらいたいなら、そうさせるだけの力、実績が必要です。 それが貴方がた親子の現実でしょ?違いますか? そして方向性を少しでも変化させたいと御望みでしたら、それは相手方に期待し続けるのではなく、自分の力にかかっている、そういう親子関係なのであり、そういう時期に、とっくになってしまっている、ということなのだと感じられるんですが。 ボヤキ癖がついてるようだと実際、仕事を始めても厳しいと思いますよ。
お礼
へんな恩着せがましいような口調でコメントするのはやめてもらえませんか。説教されようと別にかまいませんが、人間的な優しさを感じませんよ。私が気に食わないのはかまいませんが、いやいやコメントしたものを読まされる気にもなってください。 だいたい金銭が絡んだ問題ではありません。 履き違えてますよ。 心が荒れている面がありましょう。私よりよっぽど余裕のないでも何とかやってきたという自負もありましょう。しかしそれはここでは関係ないのではないでしょうか。ガキの遠吠えを問題視しないとおっしゃっていることでよくわかりますよ。辛かったでしょうに。 今現在も問題でしょうが、過去も問題であるという考えを否定するのはまたいたずらな前向き主義です。わたしはこの後ろ向きな質問で帰ってきたコメントに救われてるんですから。 とにかく気持ちを落ち着かせてください。頼みます。 議論にもなりません。 今の状態で一人前と扱われているか否かなんていうことは問題にしていないのです。 荒れた文章にはお互い得るところはありませんよ。
ほかの方々の回答とそのお礼を読んで感じたことを書かせていただきます。 >「なぜ」という言葉はとても大事だと思います。 >相手を理解しようという姿勢がそこに見えます。 しかし質問者さまのご両親は質問者さまに対して「なぜ」と問いかけてくれたことが無い。 質問者さまの心を受け止めてはくれなかったし、今でもそうだと思っていらっしゃるのですね。 ご両親が自分に対してもっと理解ある態度を示してくれていたら今とは違う人生であったかもしれないとも思っていらっしゃる。 親子であっても心から理解し合うのは至難の業です。 私自身、親とは価値観があまりに違っていたので、高校卒業後は進学、就職、結婚、すべて自分の意思で決定しました。 親には事後承諾の形です。 自分の子どもに対しては相談にはのりますが、どちらかというとうるさがられています。 関心を持ちつつ、干渉しすぎず、子どもとちょうど良い距離を保つことは本当に難しいことです。 ご自身の大学進学で選択肢を誤ったとのことですが、そのことでお母さまを責めるのはちょっと違うように感じます。 この年代の方だと大学を出ていない方が多いでしょう。 私のときも(30年ほど前です)大学出の女は嫁にいけないなどと反対されました。 私よりおそらく年配のお母さまに「理系より文系のほうが云々」という言葉を期待するほうが酷なように思います。 >母親は(略)、そして何より私の状態のことで悩み続けつつという日々でした。 ということは少なくともお母さまは質問者さまのことを常に気遣っていたのではないですか? お父さまは…そうですね、ご自分の仕事で精一杯だったのかもしれませんね。 苦労してご自分の人生を切り開いてきた方なので、自分の息子が「なぜ」と聞いて欲しがっていることに理解がおよばなかった可能性もあります。 あるいはそれを聞いてしまうと自分のこれまでの生き方が否定されてしまうようで「怖かった」のでしょう。 子どもの気持ちに寄り添い、理解し、子どもが悩んでいるとき常に最良のアドヴァイスを授けることの出来る親であれば最高ですが、それはなかなかできることではありません。 そうできる程の度量のない親だと子どもに責められるのも辛いものです。 質問者さまはいま再びご自身の人生の岐路に立たれて何か悩みをお持ちなのでしょう。 「あの時親が『なぜ』と聞いていてくれさえいたらいま自分はこんなことで悩む必要はないのに」 そんな思いがどこかにあるように感じます。 自分に共感してくれる人が欲しい。 自分に共感してくれる人がいたら今の悩みから抜け出せる。 今はきっとそんな状態なのでしょう。 でも親だけにそれを期待するのもどんなものでしょう。 また共感さえ得られればすべては解決するものなのでしょうか。 親に理解されることだけを望むのではなく、親を理解することも学ぶべき時期に来ていると思うのです。 そしてまた親とだけ向き合うだけの人間関係ではなく、ほかの人間関係も作っていくべきではないでしょうか。 質問の答えになっていなくて申し訳ありません。
お礼
親御さんとの関係で苦労なされたんですね。 子供さんの相談にのって上げているということ、それがうるさがられても、結局は感謝の念を沸かせることになるのではないでしょうか。 理系文系というのはたとえです。そういう例もあったと。良心はそれなりに(というか日々そればかりだったでしょう)私の心配で生きてきたといってもいいでしょう。問題は交わり方というか、方法論でしょうかと思います。気持ちの持ちようかと。 なかなか一筋縄ではいかないもので、お互いが不覚にも傷つけあっているわけです。 果たして人生やり直せるんだろうかと、いっそあきらめたほうがまともなんじゃないだろうかと、迷いつつ暮らしています。 親への理解と他の人間関係の模索、おっしゃるとおりそれが解決策でしょう。
- goosuka003
- ベストアンサー率20% (23/110)
>なぜ親は「なぜ」を子供に問わないのでしょう。 なぜと言われましても、それを問わない親のほうが一般的には珍しいんじゃないかと思うんですが。。。 >話に聞く限り育った家庭環境には不遇な人たちです。親の愛情にも不遇な人たちです。母親は成績優秀~ うちの場合も両親共に過酷な生い立ちを背負った人たちでしたが(そして私も)御質問者が仰るような程度では驚きもしません。人に言えないような、もっと凄まじい過去をくぐって来て、そして、それに比例するかのように自己主張の激しい、もちろん私に対しても「なぜ」「どうして、お前は」を連発し自分たちの主張に有言無言を問わず従わせようとしました。(口では二言目には「お前の気持ちが大事」なんて言ってましたがね) 貴方の親御さんは、そうであったのでしょう。うちの場合は、こうでした。 他のかたがたの御回答や御質問者の御返事を拝見して、どうやら「無関心」なのかな、という感じも最初は受けましたが >「怖かった」との言葉尻を父から聞いたことがあります。本心から出た言葉なのでしょう。 これもまた聞き捨てならない感じがします。 そして貴方御自身、親御さんのその意味深な一言に対し「なぜ」、と背景を探ろうとはなさらなかったのでしょうか。 親がそんなふうだから自分も影響されて同じようなことになってしまった、というのでは親だけを責めることはできませんよ。というか疑問を持つことすらないはずです。 うちの場合「なぜ」と発するときは殆んどの場合、自分の意向に反するゆえ、自分の都合に合うように「矯正」するべし、との意志とセットでした。 或いは何も問わずに、ただ黙って見詰めるだけだったりもしましたが必ずしも理解してくれているわけでもなくて勝手に解釈して 「やれやれ、ほんにコイツは」 と思っていることが多かったようです。 親なんて、別に子のことを必ずしも分かるわけじゃないです。一心同体じゃないんですから。 「なぜ」と問いかけてもらいたいのに、という渇望と呼ぶべきほどの思いを子が抱え込んでいるということを親だから分かるはずだ、という期待も的外れかもしれません。親子と言えども所詮、誤解に誤解を重ねている「人間関係」じゃないでしょうか。 むしろ母しか、まともに頼る相手がいなかった私のほうが母の気持ちを懸命に理解しようと務めていましたし、そしていま振り返っても母が私の心情を理解するよりも私のほうが、その度合いが上だったと思えます。 「子の心、親知らず」それだけ、弱い立場の子である私は必死でしたから。 また、母に対して「なぜ」と問うことも、あまりなかったです。 父と一緒になった経緯や、わざわざ自分から火中の栗を拾うような生きかたをしてきたことに関しては質問攻めにした事もありますが(私も、とばっちりが大きかったので)でも母の辛い気持ち、悔しさ、そういう内面の動きに関しては「なぜ」を問う事もなく、ひたすら寄り添っていました。 貴方は確か、以前に「一生働かなくても困らない身の上である」と仰っていたかたじゃないかと記憶にあるのですが、もし当方の記憶違いでなければ、そうしたことも親御さんが、うちの親みたいにガツガツと干渉がましいことを言わずに済んだことの要因かもしれません。 普通、親が「なぜ」「どうして」を連発する場合、焦りの気持ちがこもっていることが多いと思うのですが、貴方の親御さんの場合は、いろんな意味で、とくに経済的な面で、のんびり構えていられる状況でもあったのかもしれません。どう転んでも、どうにかなるだろうみたいな。違いますか?違ってたら失礼。 それで貴方は、もう結構な年齢のかたではないかと推察しますが、なぜ、いまにして、ここでこうした多分に特殊なと思われるような御質問を投げかけられたのでしょうか? 私には単純に考えれば要するに子に対して関心が薄いタイプの親なのかな、或いは他のかたが仰るように本人の「主体性」尊重主義、悪く言えば「放任主義」なのだろうか、くらいにしか思えませんでしたが、結局のところ >「怖かった」との言葉尻を父から聞いたことが これを御自身で追究なさるしか詮無いことではありませんか? >「なぜ私の気持ちをもっと斟酌してくれないのか」 いかにも日本人的な考えかたでもありましょうし >「何で元気がないんだ」 「家の中にいるのがつらいから」 なぜ、つらいのか尋ねられるまで黙っているべきなのでしょうか? >人生の大事な局面で自分の判断を隠す。 貴方自身は、どうだったのですか? >親を個と認める。なかなか理屈ではわかりそうにありませんね。 そうです。体得するものですよ。 まだそこまで達しておられないということでしょう。 どんな親を持つか、その用意する環境は確かに子の人生を大きく左右する、親というものは、そういう権力を持っております。 しかし、その親を持って生まれてきたことも自分の実力、分際のうちなのかもしれないです。
お礼
「それを問う親のほうが珍しい」ですよね。 「怖かった」という言葉に関して私が想像したのは父親が身を削って生きてきた見返りが子供を(心理的に)苦しめることになったという認識をすることに関してなんだと思います。それを許容する器量が私にはなかったということです。 お母様に「なぜ」を聞いたのですが、答えがなかったということなのでしょう。質問者が子供でなかったら説明したかもしれません。でもこの「寄り添い」という回答者様の姿勢が結局は言葉を発するベースになっているのでしょう。 ご記憶していただいて多少驚いています。 まさにおっしゃるとおりで、親の干渉が少なかったから迷っている状態が続いているという面もあります。あのときの質問も、私なりに必死だったのです。後ろめたいしみっともない、でもこのGOOからなにか引き出せるかもしれないという、一種の藁です。今回もいつも心に張り付いている私にとっては根本的な、人生を左右した疑問なのです。だから、すっきりしたいさせてもらいたいという思いです。ご回答者に頭をひっていただいて、感謝いたします。 「なぜ」と経済的な焦りと関係あるでしょうか。もっと子供のときからの問題なので、うちの場合はそういう意味合いは薄いようです。経済的な絡みではない。良心の心情に常に経済が最重要課題であったことはいえるでしょうが。そこで、「なぜ心がこうなっている」という質問心情から遠ざかっていたのでしょう。 無論、不満はぶつけたし、怒鳴ったりもしたし、いろいろやってきました。それでも私のその「心」に真っ向から受け止めるということはほとんどなかった、ないことが多すぎた、子供時代は親への不信感が大きくなってしまったという歴史があるわけです。つまり、私の「心」など親にとっては問題ではないのだ、私の考えること思うことは所詮ガキの遠吠えに過ぎないのだという認識を持ったわけです。 でもそれは違うのではないか。もっと心を大事にされてもよかったのではないかと今になっても思います。思うんだからしょうがないですよね、求職中ですけど。 私自身は親の岐路でやはり「親の主体性」に任せました。私が口出しできる分際ではないと、どうしても意識のそこにある、それはやはり同じことを繰り返しているともいえます。
他の回答文と共に、お礼も読ませていただきました。 それで私の直感ですが、 >人生の大事な局面で自分の判断を隠す。 臆病とは何者なのでしょう。 これがまだ実感できないところです。 これはまだ幼く非力で無抵抗だった頃の自分の声があるからと思います。 家の外で 両親が見つけて迎えに来てくれるのを、 怒られたけれど心配して慰めてくれるのを 大切な人に同じぐらいに大切にしてもらいたいのを ずっと信じて待って待って、悲しみを堪えて待っている 小さな女の子の心理が見えるのです。 私は霊感はないのですが、幼い頃の自分がまだ支配しているのです。 それがあるのかもしれませんね。 出来るだけ自分の子供には 「どうしたらいいだろう?」 「泣いてもいいよ、悲しいんだから」 「それでも○○は頑張ったんだから好きだ」 と言葉を掛けてあげるようにしています。
お礼
親になってみないと、親の気持ちはわからないということなのかもしれないですね。子供を持ってみて自分の「子供性」とどうむきあうのか。何分にも社会性とある程度の哲学を確立しないと、怖くて親にもなれそうにありません。
- cian
- ベストアンサー率10% (32/315)
1、自分の考えがすべて正しいと思っているから 2、自分と子供が同じ考えだと思っているから 3、(あなたの年齢では)もう自分でなんでもでる年齢であると思っているから だと思います。
お礼
それが昔からなんです。 12の子供がふさぎこんでも「なぜ」かを問わないわけです。 1,2はそういう面もありそうです。 要するに、子供の土俵で物事を見ようとしなかったと、その柔軟性にも努力にもかけていたといえそうです。そういうことにかまけている(ほんとは大事なんですが)余裕がなかったと、逃げ口上でなく言えているのでしょう。
- mojitto
- ベストアンサー率21% (945/4353)
『なぜ雲は浮かんでるの?』 『なぜイヌはワンって鳴くの?』 『子どもってどうやって作るの?』 子どもの探究心は飽くなく、大人がタジタジの質問も連発します。 しかしこの『なぜ』『どうして』という言葉を問いかけで使う場合は『興味は満たしたいものの、自力探索をあきらめたとき』に使う言葉です。 大人になれば答えを自力探索をする手段も増えてきますし、経験で対処法も心得てきます。大人が『なぜ?なぜ?』を連呼することはほとんどないですよね?『なぜ』を使わない場合は、自分で答えを出すor興味自体を無視する場合です。 ですからあなたの言うように親が無関心である可能性もあるのかもしれません。 しかし、親や先生の『なぜ?』には特別な意味があります。 『なぜ宿題をしないの?』 『なぜウソをついたの?』 これらは本人の興味ではなく、子どもに対し自分のしたことを反芻させ理解させるためです。ですから、根本的に興味云々ではないのです。 そして子どもが大きくなってくると『いちいち干渉するな』『私の勝手だ』とこの質問に嫌悪を覚えていきます。 あなたにも反抗期はあったと思います。それを越えたら、誰かに反芻を促されるのではなく、自分でしなくてはいけません。 ふさぎこんでいる場合は親さんは聞いてもよかったと思いますが、部活動も外見も、進路も自分で目標を定めて、自分で決めるべきです。 特に『(文系を勧める意味で)なぜ理系にするの?』なんて、親が探りを入れたらケンカ確定じゃないですか。 屈折した心理に悩み迷うのが高校生の時期であって、これを放棄して親の責任に転嫁してしまうのは幼いと思いますよ。自分の選んだ道は自分で選び、親のお墨付きなど必要ありません。 質問者さんがおいくつかわかりませんが、他者への依存や同情を求めているような感じがします。 人間は一人では生きていけないとはいえ、もう少し大人にならないと自立できないような気がします。
お礼
私が自立できるかできないかは余計なお世話として、論旨の前半は的を得ていると思います。子供の気持ちに対して興味を失っている、あるいはそれと向き合いたくないということの表れ以外考えられません。 「反抗期」というものが私にあったのか定かでなく、もし回答者様がおっしゃるようなものでしたら違います。この質問の延長であり、「なぜ私の気持ちをもっと斟酌してくれないのか」という精神的飢餓状態がそれであったといっていいでしょう。ですので、理系文系の例も「なぜ文系にしないのか」でなく「私らはあんたがこっちにむいてると思うんだけど、あんた自身はどうなの」という意味の質問をなぜ投げかけられなかった(実際投げかけたのでしょうが、私の意識では気遣ってもらったことがなかった)のかということです。 そういう状態が強い性質を持つ子供であれば苦にしないでしょうが、生来精神的に繊細であるとか神経質であるとかいう素質を持った子供に対しては、よりどころのない不安寂寥感、人生のまえにたじろぐ恐れを作り上げることになるのではないでしょうか。 つまり、論旨の後半は私には無理(であった)ことを説いています。
- boke-chan
- ベストアンサー率22% (137/604)
なぜ あなたの親はあなたに「なぜ」と問わなかったのでしょうか? それはあなたの親に聞きましょう。 「なぜ」と聞かなくても、子供の心理を確認する方法はあるでしょ。
お礼
「最近時々わき腹が痛むことがあります。すぐ収まるんですがどういうことが考えられますか?」→ 「医者へ行きましょう」 なぜと聞かない以外どういう確認方法があるのです?以心伝心ですか?
- dhish
- ベストアンサー率36% (48/131)
親御さんはあなたの事を一人の人間としてみられているのでは? あなたの意思を尊重しているからでは?って思います。 反面、「自身の力で選択して人生を歩んで行け!」って感じで、その言葉をとらえる年代によっては「厳しい親」ともいえますよね。 その場合、突き放された方としては「無責任すぎる」って感じる事もあるでしょうね。 そう思うと、親なんだから少しは一緒に考えて欲しい!って気持ちもわかるようなきはしますけど… 「何故?」って自分と事なる考えを持った人に対して使いませんか? あなた自身が迷ったあげく、やっと見出した答えに、「何故?」を問いかける親の方が私は嫌だなぁ~。 親という立場を使い「親が考えている事が一番正しい」「あなたは間違っているわ」を問いただす為に、 「何故親の考えたような行動をしないの?」と言う言われ方をする方が良いと感じますか? 子をおもわない親はいませんよ。(いないと信じたい…) 子供を立派に一人立ちさせる為にあえて試練を課してるとしたら…? とらえ方によったら有難い親でもあるでしょう? 人生、山もあれば谷もあります。 谷の時に、あの時あのようにしておけば良かった…って誰もが思う事です。 探りを入れてもらったからって、それを素直に聞き入れるだけの余裕があなたになければ、結果同じでしょ? 又素直に聞いて、結果失敗してしまう事も起こりえるでしょ? どのルートをたどっても結果、誰かのせいにしてしまうのは寂しくありませんか? あなたの人生はあなたのもの。親の人生ではないのですよ。 迷いも失敗も必要。その経験が今後ポジティブに生き抜く為の糧となるのよ。 若いうちに経験出来るなんて素晴らしいじゃないですか。 親の言うがままのレールに乗って、いい大人になってから倍の挫折感を味わうより全然良いと思いますよ。 親は、あなたより早くこの世から消えます。 その時あなたは「探り」を入れてくれるはずの親がいない為に、今後どのように選択していったらいいか迷うでしょう。 それとも「親」の代わりを他に見つけますか? 親も一応人間です。間違った事もします。 親だから完璧とはいえません。 でも親も一生懸命生きてます。 親だってあなたと同じ不安を抱えながら良かれと思う事をポジティブに生きてるんですよ。 家族を守る為にね。 今の世は厳しいから、むか~しのように家族の会話を楽しむ時間さえもない…忘れてる方が多いですよね。 仕事=家族の生活を安定させる事だけを優先して、語らいを忘れて生きてる方も多くみられますよね。 でも、それはそれで厳しい世の中での愛の形だと思います。 なので親は、子供を一人立ちさせる為、厳しい社会を生き抜いていってもらう為に、常に課題と立ち向かわせているという事かしら。 あとは自分自身で壁にぶつかって、強くならないとね。 「何故?」を他人に期待するような甘えは、自分から切り捨てなきゃね。 親は、判断の聞かない人(幼児~義務教育ぐらいまでの人)に対しては「何故なら…」と必ず答えてきているはずよ。 親が「何故?」を問わないのはあなたを一人の人として認めている…って思えないかな?
お礼
問題なのは、親が私に興味をある意味興味を示さなかったと(当人にとって)とらえられるような扱いをしたということでしょう。先を読みすぎた回答のような気がします。私のはるか頭上を回答の風が通り過ぎるようです。それに親がなぜならと諭すのはまったく趣旨が違います。
補足
人生の課題選択などの問題より以前の、原始的な問題です。心の苦しみを悲しみを一緒に共感する親なんだろうか(実際にはそうでしょうが)?という子供の渇望感が問題だったといってもいいでしょう。
お礼
「怖かった」との言葉尻を父から聞いたことがあります。 本心から出た言葉なのでしょう。 「何で元気がないんだ」 「家の中にいるのがつらいから」 こういう私の心を直視する勇気はなかったのかもしれませんし、直視しようという意思もどっかに行ってしまったのでしょうか。 私の主体性をという言い方もします。 それが嘘とまでは思いませんが、子供の心を落ち着かせられないような主体性の尊重にどんな意味があるのかと常に問わずにいられませんでした。 人生にとっての心の核になるような「後ろ盾」の存在感が本当は大事なのでしょう。私はそれが甘えではないかと思ったのですが、そういう考え方もあるのだと思うと、そういうものを満たされている人いない人が入り混じって生きているこの世の中、不公平の一端がまた見える気がします。 愛情表現に不器用なのです、両親とも。 あるいは私にそれを受ける感受性がない、反応がよくない。突き詰めれば、話に聞く限り育った家庭環境には不遇な人たちです。親の愛情にも不遇な人たちです。母親は成績優秀進学校で一人だけ経済的な事情から就職しました。父親はまた経済的に大学が卒業できず、大企業で高卒の惨めさを味わい続けました。しかし、後に独立して経済的に成功しました。母親は父親の酒の付き合いや(配属が営業なので不運が続きましたね)それに派生する酒癖の悪さ、親戚との不和、そして何より私の状態のことで悩み続けつつという日々でした。 人生の大事な局面で自分の判断を隠す。臆病とは何者なのでしょう。 これがまだ実感できないところです。 私が理系の地方の大学(結局家がいやだったのでという理由が大きいのですが)に行ったのですが、そのときに一泊旅行でもついでにしようかというので入学式の前後に家族旅行したのですが、私は「果たしてこの選択肢でよかったのか」とふさぎこんでいた。が、母親は生活のこまごましたことを並べ立てる。 「あんた、これでいいの。引き返してもいいんだよ」 「家がいやならなんとか考えよう、地方のほんとに関心ない学部なんていって何になる」 とまでいってほしいとは思いませんが、暗い顔から何かを読み取ってもらえないのかと、洗濯のしかたでなく買い物のしかたでなく、感じたものです。 親を個と認める。なかなか理屈ではわかりそうにありませんね。