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江戸決済
jinchandaの回答
- jinchanda
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一分銀は、関西方面の丁銀や豆板銀が、重量を以て貨幣価値の決まる秤量貨幣だったのに対し、額面が記載された表記貨幣ですので、貨幣価値としては、金貨である一分金と等価だったようです。 感覚としては少し違うかもしれませんが、昭和30年代に100円銀貨が流通貨幣として普通に使用されていました。 昭和32~33年の鳳凰100円銀貨と昭和34~36・38~41年の稲100円銀貨というものがありました。 http://www.boj.or.jp/money/basic/now/hyakugk.htm 昭和42年から現在の100円白銅貨になりましたが、私が小学生の頃、普通に銀貨・白銅貨関係なく使っていましたよ。(当時100円は私にとって大金でしたけど、そんなことを知らずに使っていましたよ、お使いなどで(笑)) たぶん、江戸時代も対して変わらない感覚で使っていたかもしれません。金銀かかわりなく、一分は一分として。
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