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哲学にレトリック
サラリーマンの知人と話していて、哲学書の難しさが話題になりました。 哲学の始まりの方に位置するプラトンは、レトリックや詩を好きではなかったと思いますが、アリストテレスは弁論術や詩学を書いているように、レトリックは思考や意見を伝える際の有効かつ重要な要素でしょう。ヨーロッパにはレトリック教育の伝統もあります。 しかし、カントやフィヒテの主著においては、レトリック的要素が極めて少ないと思われます。彼らが、もう少し比喩を使ったりしてくれれば(逆に、こんな比喩使わないで、というような変な例えもどこかにありましたが)、一般に難解だと言われる哲学書もわかりやすかったのに・・・ 哲学にレトリックは必要じゃありませんか? みなさまはどう思いますか。
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- 歴史
お礼
>ところがおもしろいことに、このブラック自身が自説の説明に隠喩を利用している >……とここから先は、どうぞ尼崎の本をお読みください。 >実際、この哲学と隠喩のもんだいというのは、一筋縄ではいかないところがあります。 本当に、ちょっと面倒な問題のようです・・・ GBさんが引用されている初めの「序」の部分だけで、 すでにこの質問にあるすべてが含まれているような気がします。 そして、一の「たとえ」の構造の冒頭では 三角形の定義を子どもに伝える際の困難が例として挙げられますが、 そこに 「このように私たちは、自分のよく知っているはずのことを語ろうとする時でさえ、 言葉の論理的使用だけでは追いつかず、何かに喩えたり、実例をあげたりする。 いうまでもなくこれはレトリックの使用である」 という説明も見られますね。 これは読んでおかないといけない本でした(汗 ありがとうございました。 この著者の本では『日本のレトリック』というのを 5年くらい前に100円で買ったまま、 日本文学コーナーに寝かせて置いていたのがありました。 つまり、言い訳しますと、私の頭の中では、 ヨーロッパには関係ないカテゴリーに入れていたので、 まったくのノーマークでした。 今回の質問の契機は知人との会話にありますが、 その基となっているのは以前読んだブルーメンベルクです。 残念ながらデリダ-サール論争のような華々しい現象からではなく。 最近、ブルーメンベルクがよく読まれている理由の一つは、 2000年前後からブルーメンベルクの著作がいくつかまとまって 出版されていることにあると思いますが、 彼の詩学・メタファー・レトリックに関する論文も一冊にまとめられています。 その中の、 「レトリックの現代性への人間学的なアプローチ」(1971年)という論文と、 この論集の編者の「レトリックの技術―ブルーメンベルクのプロジェクト」 というあとがきの影響がこの質問の基です。 そして、その他も考えてみれば、レトリック関係では、 有名なニーチェを筆頭に、 私はヨーロッパ人の書いた著作にしか触れていなかったようです。 勉強になりました! そして再度のご回答、ありがとうございました。
補足
そうでした、本を読みながら思ったのですが、 ミルクって何? という質問を受けて、 「白い液体」 と答える人って、 そもそも説明する気がない人ですよね。 辞書のような定義ならばそれでいいかもしれませんが、 対話にならない冷たい答え方だと思いました。 つまり、これは初めから説明を放棄した答え方で、 「どう説明してもわからない」 の〈見事な例〉にはなっていないように思います。