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福音派で科学者は自己内部で分裂しないんでしょうか?

福音派でありながら科学者という方は 世にたくさん折られると思います。 例えば物理学などの学術論文を書いたりするとき、 質量保存則などを使った公式は 常識的に使われると思うのですが、 そうした一方で、五千人のパンと魚の記事などの 聖書中の記事も事実とする主張するとき、 自分の中で両者の自己矛盾をどのように処理しているのでしょうか? それとも何か矛盾をきたさない説明付けがあるのでしょうか? あるいは学位は学位、信仰は信仰、 それはそれでといった感じで使い分けているのでしょうか? (※なおこの質問は質問文のとおり、 福音派で科学者の方の自己のあり方を聞いているのであって、 聖書中の記事と科学の矛盾をあげつらう様な内容ではありません。 行き場のない問答にならないことをお願いします)

noname#17662
noname#17662

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  • nacam
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回答No.10

7番です。 多分、私とr_bocoさんは、それほど異なる事を言っているのではないと思います。 >福音派の地質学者はこの記事を一笑にふせるでしょうか? 一笑にふせるのではないでしょうか。 神の英知は、人間の及ぶところではない。 人間や、自然では起こりえない事ができるのが神であると考えれば。 >聖書は原子の結合から生命が生まれたことを否定しています。 ですから、進化論は否定されるのだと思います。 そこに神の意志の介在が有るとすれば、福音派の科学者も納得するのではないでしょうか。 それを物語っているのが、 >世界と生命は神の言葉とわざによって「突如」生まれた ではないかと思います。 >福音派の科学者が、「質量保存則」を知っていながら、「水がワインになった」と主張するのと同じ作用だと思うのですが。 この件について、神の意志の介在が有る場合と、介在が無い場合とに分けて考えていれば、彼らの頭の中では、全く矛盾しない事になりはしませんか? 私自身は、科学者でもなく、福音派でもありませんから、想像だけですが。 つまり、福音派の科学者が、質量保存の法則に関して、神の介在が有る場合と、無い場合を、分けて考えているとすれば、彼らの頭の中では、全く矛盾していないと思われます。 それに対し、進化論は、神の介在を否定しますから、かれらにとって、許す事ができない理論だと考えているのだと思います。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >多分、私とr_bocoさんは、それほど異なる事を言っているのではないと思います。 私がnacamさんの回答から教えてもらったのは、 >私福音派の科学者が、質量保存の法則に関して、 神の介在が有る場合と、無い場合を、分けて考えているとすれば、 彼らの頭の中では、全く矛盾していないと思われます。 ということです。私の場合この表現が、 福音派の科学者が、自分の知識に関して、 福音派に身をおく場合と、科学者に身をおく場合を使い分けているとすれば、 彼らの自己はまったくは分裂しない という表現になるのかもしれません。 >そこに神の意志の介在が有るとすれば、福音派の科学者も納得するのではないでしょうか。 私はむしろ、福音派の科学者が科学に身をおくとき、 大なり小なり進化論を納得していると思います。 それは、先の試験管の実験もそうですが、 しばしば科学によって聖書の記述事実であることを証明しようとする事件があるからです。 恐竜の化石の下の地層に、人工物をこっそり埋めて、 掘り出してみせるというのは、本当に涙ぐましいほどの信仰だと思うのですが、 その行為自体がすでに恐竜の存在を認めていることになります。 結局、彼が掘り出したのは、信仰という地層の下に埋まった科学知識だったのかもしれません。 福音派は何があっても進化論を認めないと思います。 それは、進化論が聖書の創世記と、お話にならないほどあまりに違いすぎているからです。 こうした場合、福音派の科学者(この場合は生物学者でしょうか)は、 結局、福音派に身をおくとき、科学に身をおくとき、 二つをうまく乗り分けていることになるのでしょうね。 もちろん私こそ想像だけになりますが。

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  • 2199
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回答No.6

2199です。 私は端くれとはいえ科学者です。「本当に」水がぶどう酒に変わったのならばそれを認めます。「法則」を知るものならば真に法則が破られて「奇跡」が起こった場合はそれを認めることが出来ると思います。

noname#17662
質問者

お礼

2199さんは、キリスト教徒の科学者なのですね。 回答をお寄せいただいてありがとうございます。 >「本当に」水がぶどう酒に変わったのならばそれを認めます。 目の前で変わったなら私も認めます。 もちろん不信心にも、夢や幻覚かもしれない、トリックかもしれないと疑い、 ありとあらゆる実験を試みるかもしれませんが、 少なくともぶどう酒であるという可能性をなしにはしません。 それが科学者としてはとるべき態度だと思います。 そして、2199さんが(もし福音派の)キリスト教徒なら、たとえその現場に立ち会わなくとも、 水がぶどう酒に変わることを今、この時点ですでに認めていなければなりません。 なぜなら、聖書は『「本当に」水がぶどう酒に変わっった』と言っているからです。 のみならずイエスは「見ずに信じる者になりなさい」と教えているからです。 その一方で、2199さんが現代の科学に身をおいている方なら、 「水がぶどう酒に変わることはない」と言わなければならないと思います。 なぜなら、現代科学は質量保存則を大前提にしている営みだからです。 私はそうした両面性の統一はとても器用だと思います。 たとえば、2199さんはご自身の学術論文の中で、 質量保存則を用いた式(シュレディンガーでも何でもいいです)を頻繁に用いると思います。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.5

「福音派」は、特定の宗派を指す物ではありませんから、その人その人が、どのように信じるかが重要です。 (福音派の中心となっているバプテストも、南部バプテストは、福音派的傾向がつよいのですが、北部バプテストは、南部ほど強くありません) 「質量保存の法則」あたりであれば、「神の意志とか、神の奇跡」などの介在で片付けられるレベルの話ですから、「進化論」ほど悩む必要は無いと思います。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >「福音派」は、特定の宗派を指す物ではありませんから、 はい、「福音派」という言葉は、いかにも範疇が広すぎました。 nacamさんもご存知のとおり、この場合の福音派は、 #1さんが言われるような、 聖書の記事を一字一句、歴史的事実として扱う教派のことです。 >「質量保存の法則」あたりであれば、 「神の意志とか、神の奇跡」などの介在で片付けられるレベルの話ですから そこは理解できますし、そうした矛盾を批判する質問ではありません。 むしろそうした信仰には頭が下がります。 しかし一方で、たとえば論文などで 化学式には「神の意志とか、神の奇跡などの介在」がありうるが、 という信仰と同じ前提に立つものも見ません。 まっとうな学界では科学者は口が裂けてもそれが言えないと思います。 それを認めたら、まず真っ先に白紙にしなければいけないのは、 質量保存則を前提とした自分自身の論文だからです。 そこで、福音派で科学者は一種のTPOのように、 器用に使い分けができるものなのでしょうか。

回答No.4

   聖書中の記述(奇跡)が現在の科学と相容れないように見えるとき、「聖書は非科学的である」ととらえるか、「現時点での人間のもつ科学的知識では説明できない」ととらえるか・・・    実際「生命の起源」「宇宙の起源」等を科学的手法 (実際に起きている事柄を観察する;その観察に基づいて,真理とみなされる理論を立てる;その理論をいっそうの観察と実験によって試験する;その理論に基づく予告がそのとおりになるかどうかを見守る) で証明することができない以上、必ずしも信仰と科学を切り離す必要は生じないように思われます。    「生命」も「宇宙」も天文学的数字にも上る偶然の所産とされている訳ですから、それはいわば多くの科学者の述べる「奇跡」ということになります。        こうした壮大な奇跡は起きたが、聖書の奇跡は起きるはずがないというのはいかにも矛盾しているかに思えます。    信仰を持つ多くの科学者は謙遜に自分たちの知識のなさを認めているのではないでしょうか?

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >聖書は非科学的である」ととらえるか、 「現時点での人間のもつ科学的知識では説明できない」ととらえるか・・・ はい。その可能性はあります。 つまり現代の科学知識がまだまだ浅はかだという可能性ですね。 この世にはもしかしたらパンの元素が爆発的に増殖する 未発見の化学式があるのかもしれません。 私はそれを否定しません。 ですが、ここでひとつ確かなことは、 大半の科学者が科学を業(なりわい)とするとき、 「パンは増殖しない」ということを前提にしていることです。 たとえば何度も言いますが、 質量保存則などは現代科学の根幹をなす部分で、 世の多くの科学者はそれを前提として、 さまざまな新学説を世に送り出しているのがほとんどだと思います。 >実際「生命の起源」「宇宙の起源」等を科学的手法 で証明することができない以上、 必ずしも信仰と科学を切り離す必要は生じないように思われます。 古典的に言えば、科学は何一つ証明できないと思います。 百万回の実験を試みて百万回同じ結果が得られたとしても、 百万と1回目の実験でまったく違う結果が出ることもあるからです。 (誤差ということではありません) ですが、少なくとも科学者が何某かの化学式を持ち出すとき、 それがたとえどんな些細な化学式であったとしても、 質量保存則を前提とした式なら、 百万と1回目の実験も同じになるということを、 いわば暗黙の了解としていると思います。 でないと公式どころか、科学そのものが成り立たないからです。 こうしたことはやはり信仰者と科学者という、 相容れないスタンスを持たなければできないように思われるのですが。 >「生命」も「宇宙」も天文学的数字にも上る偶然の所産とされている訳ですから、 それはいわば多くの科学者の述べる「奇跡」ということになります。 起こる可能性はあるが、めったに起こらない事が起こったとき、 それは奇跡的なことではありますが、 聖書の奇跡とは根本的に違うと思います。 少なくとも現代の理論でにおける宇宙の生成は、 天文学的数のサーフェイスを持つサイコロを振ったら、 なんとまあ1が出たとしているのに対して、 聖書は神様がそうしようとして1を出したとするからです。 福音派で科学者という方は、 この二つをどちらも主張する立場だと思うのです。

  • 2199
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回答No.3

2199です。 回答を拝見しましたので補足します。 「法則」を無視しえるとしたらそれは神のみだと思います。 「法則」を無視できることが「奇跡」だと思います。 「信仰」のありかたの一つして「奇跡」を信じることがあると思います。 学問によって到達できるのは「法則」の発見までであり、法則の向こう側を推し量ることは出来ても知ることは出来ないと思います。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >「法則」を無視しえるとしたらそれは神のみだと思います。 そうですね。神様が法則を創造されたのなら、 法則を無視することも、ちゃらにすることもできると思います。 私が聞きたかったのは、神様がではなく、 科学者が、科学者として法則を無視するとき、 たとえば学会で、現代の化学の常識を前提に 持論を公的な形で世に発表するその一方で、 水がぶどう酒に変わるということを、 そういう現象が実際起こりましたということを認めるその両面性を、 自己の中でどのように説明付けているのかを知りたかったのです。

  • 2199
  • ベストアンサー率14% (74/525)
回答No.2

私はキリスト教徒ではありますが信仰と科学は基本的に切り離して考えてます。そして、以下のような解釈も成り立ちえるとも考えます。  神はこの世界の決まりを「法則」という形で提示していますが、神のみは法則の枠外にあるのでどのような奇跡も起こしえるのです。  神がいつどのように奇跡を起こすのかは神のみぞ知るということになります。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >私は(略)信仰と科学は基本的に切り離して考えてます。 これは私が質問文で例に出した、 「学問は学問、信仰は信仰」と分けていると考えていいのでしょうか。 >神のみは法則の枠外にあるのでどのような奇跡も起こしえるのです。 「神のみは法則の枠外にある」というのは、一つの立派な法則だと思うのですが、 法則は法則で、神のみは神として別の考えると理解していいですね。

  • popesyu
  • ベストアンサー率36% (1782/4883)
回答No.1

福音派の中でも特に極端な右派の原理主義的な思想を持つ人たちの間では、聖書を文字通り一字一句その通りに受け取ります。まず最初に結論があるので、理屈は後からでもいかようにつけることができます。科学者であれば尚更です。 例えにあげられている「質量保存則」については空気中の分子や原子を取り込んで創造されたとか、別の場所からテレポートさせたと考えれば別段法則に矛盾をしている訳でもありませんし。 科学的な公式や構造などの根本部分はシンプルでそして物事を端的に表現できるものが多く、それ故にそこに神の存在を感じてしまう科学者も大勢います。代表的な例ではかのアインシュタインとかもそうです。実はミクロの世界ではマクロの世界と異なり、事象は確率論的であるという量子力学の概念は、「神様はサイコロ遊びをしない」と最後まで受け入れられることありませんでした。 ちなみに福音派原理主義的科学の最大の科学的関心毎は「質量保存の法則」などではなく「進化論」です。実際にアメリカの南部の学校では、歴史教科書から「進化論」の部分が削られたり、生物の教科書からは進化論と創造論と並立して教えることになっている所もあります。結論が先にある人たちにとってはどう科学的にみても進化論は間違いだらけということです。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >まず最初に結論があるので、 理屈は後からでもいかようにつけることができます。 科学を聖書に「おっつける」形で、 解決していると理解していいでしょうか。 >アインシュタイン アインシュタインに「神様はサイコロ遊びをしない」と言わせたものに興味があります。 その言説もまた、科学を聖書におっつけようとしたものでしょうか。 >音派原理主義的科学の最大の科学的関心毎は(略)「進化論」です。 「質量保存則」はあくまで例の一つとして出しましたが、 仰るとおり「進化論」の例を出したほうがよかったですね。 ただ、論(学説)よりも法則を例に出したほうが明確化と思ったので。

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    聖書って経典としてどうなんでしょうか? 私は宗教に関しては無関心というか、知的好奇心の対象ではあっても信仰の対象ではない、そういう人間です。 学生時代、仏教系学校に通っていたので、仏教の考えや般若心経の和訳などを学びました。その内容は非常にロジカルで、無宗教の自分もなるほど、と思う内容でした。人間の認識機能や思考法など、現代の脳科学にもつながってくるのではないか、と思ったほどでした。 般若心経など、まるで学術書のようです。 ただ、そんなに優れた思考法を伝える仏教が変な儀式(オカルティックな思想とかひたすらお教をつぶやくとか、煌びやかなご本尊を崇めるとか死者の何回忌をやってお金を取るとか)ばかりなのは理不尽に思いましたが、まあこれは釈尊の教えではなく、現世組織としての仏教が存続するための営利行為として必要悪であると認識しています。 そこでほかの宗教の経典(に当たる書物)もそういう優れた思想で出来ているのだろうと思い、世界的な宗教であるキリスト教の聖書を読んでみました。 しかしながら、聖書は小説としては非常に面白い読み物であるとは思いましたが、教えと言いますか、ロジカルさが欠片も感じられませんでした。 ただのファンタジー小説、あるいは神話をより歴史的な形式にした読み物、といった感じです。 しかも神は全知全能と銘打ってる割にいきなりサタンにアダムとイブを騙されたりとか、増えすぎた人類を自分で手綱を取れず、大洪水で滅ぼしてしまうとか、全知全能ならサタンを改心させるとか、人類を調節するとか片手間でできるだろ、というか、悪魔にそそのかされて信者を散々苦しめるとか、客観的に見て、単なるわがままな権力者の寓意にしか思えないわけで、なんでこれが世界的に信仰されてるのかさっぱり理解できません。 確かに読み物としてはそこそこ面白い。それに良くも悪くも、寓話的な話も多いので、内容をそのまま鵜呑みにするのではなく、そこからなんらかの知恵というか思考法を読み取るものなのかもしれません。 しかし、そういうのってただのイソップとかそういう寓話と同レベルな気もしますし。 般若心経のほうが経典としてはずっと理路整然としてて分かりやすくてシンプルに思うのですが…… なんというか、般若心経は学術書、聖書は俗っぽい小説、という感じで、これが宗教における経典として同じものなのか、と驚きました。 でも聖書を読んで感動した、という人も実際にいるようですし。 こんな、ただの読み物が聖典でいいのか? というか、こんなDQN権力者の我がまま物語のどこに感動する要素があるのか? 僕の理解力が悪いのかそういうふうにしか感じられないわけですが、キリスト教に詳しい方、解説をお願いできないでしょうか?

  • エホバの証人は 神を信じているか?

     表題のとおり 特定の宗派のことがらについて問うものです。  その問いを ヨハネ福音の解釈をとおしておこなおうとします。  次のくだりの解釈を示してください。特に《人間の意志によってでもなく》と《神によって生まれた》とに焦点を当てています。  ▼ (ヨハネによる福音書 1:1~18  新共同訳) ~~~~~   http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  11: 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。  12: しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。  13: この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。  △(新世界訳=エホバの証人の聖書) ~~~~  http://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E8%81%96%E6%9B%B8/nwt/%E5%90%84%E6%9B%B8/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D/1/  11: 彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。  12: しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。  13: 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち:  ▼ (ヨハネ福音 1:13) ~~~~~~~~~~~  ▽ (1:13)  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=1&t=KJV#s=t_conc_998013   οἳ  οὐκ  ἐξ  αἱμάτων  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  σαρκὸς  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  ἀνδρὸς  ἀλλ᾽ ἐκ  θεοῦ  ἐγεννήθησαν  ▽(KJV 1:13) Which were born, not of blood, nor of the will of the flesh, nor of the will of man, but of God.  △(新世界訳) 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが この《人間の意志からではなく 神によって生まれた》というくだりは 《感性や理性ではなく・つまりは感じたり考えたりすることによるのではなく 信じること・すなわちその名を受け容れること》を言っており つまりは信仰のことだと考えられます。《思考に非ず》なのだと捉えられます。  しかるに エホバの証人の側では 《信じる》をたとえば次のように用いています。  △ (エホバの証人はイエスを信じていますか) ~~~~   http://www.jw.org/ja/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA/%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%92%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B/    はい,信じています。  イエスは,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と述べました。(ヨハネ 14:6)  わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)  イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。(ヨハネ 3:16)  わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)  とはいえ,イエスが述べた「父はわたしより偉大な方」という言葉もそのとおりに受け止めています。(ヨハネ 14:28)  イエスが全能の神であるとは信じていないため,イエスを崇拝することはしません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 端的に言って 問題とすべきは 次です。:  (あ)  △ わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)  ☆ これは あくまでもオシエです。信仰ではありません。そして 《天から地上に来た》というのは 経験事象になります。すなわち これはその名を受け容れる信仰ではなく オシエの内容を考えることです。この思考としてのオシエを理解し知ったという《人の意志から エホバの証人が生まれた》ことになります。そういうことにしかなりません。ヨハネ福音1:13とは 矛盾です。  (い)   △ イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。   ☆ すなわち《信仰を働かせる》のは 《人の意志》です。聖書の言っていることと矛盾しています。  (う)  △ わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)  ☆ こんなことは 経験世界を超えたこととしては 想像であり 経験世界のこととしてなら思考の対象として考えるべきことです。《信じる》とは何の関係もありません。  想像や思考をほどこすということは 《人の意志 または 肉的な意志》であり 決して《神から生まれた》と言えるようなことではありません。聖書とは 矛盾します。  さしづめ以上を問います。どうでしょう。

  • 自己の分裂とは

    最近、哲学を学び始めたものです。 ある哲学書の文章で、次のようにありました。 「たしかに、日常生活において、(自己)という言葉は、それだけで用いられることは少ない。一見すると、その固い言葉は日常生活に根ざしていないかのように見える。しかし、(自己)という言葉が単独で使用されることは少ないにしても、他の名詞や動詞と結びつけて用いられることは多い。 たとえば、自己批判、自己分析、自己暗示、自己満足、自己卑下などといった多様な表現がしばしば用いられている側面を見れば、すでになんらかの仕方で自己が了解されている。そうした漠然とした了解の仕方を反省して、その背後に隠されているものを明らかにする作業は、安易に否定されるべきではない。自己批判、自己分析といった表現において、自己は、批判の対象、分析の対象、満足、卑下の対象、めざされるべき対象として把握されている。こうした言い方が可能になる背景には、自己が、自己との間で分裂するという現実がある。」 最後の 【自己が、自己との間で分裂するという現実がある。】の部分が分かりにくいです。自己の分裂とはどいううことですか?

  • イエスの指し示した経験行為とは 脱ナラワシ?

     聖書のイエスの話ですが ここでは そのイエスが指し示したおこないをめぐって その経験行為のみを問題とします。  たとえば 《愛》と言っても 必ずしも自明ではありません。  ▼ (マルコ福音 12:30)  『・・・心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6:4)』。  ☆ そして   ▼(同上 12:31) 『隣人を自分のように愛しなさい(レヰ記9:18)』。  ☆ ここから どんな具体的な経験行為を思い浮かべるでしょう?  《神》は おのれの主観の内にしか見い出しがたいのなら その神をどのように愛するのか?  《自分を愛するように隣人を愛する》とは それが《神を愛する》ことと同じことだとすれば いくぶん具体的になってくるかとは思われる。けれども 自分の考えるところによって 自分を愛するように隣り人をも愛する――このようにしてすすめばよいのか?  世に《ケノーシス(自己無化)》という言葉があります。それは 聖書の文章としては 次のくだりから出ているのだそうです。  ▼ (ピリピ書 2:6-8) ~~~~~~~~~~~~~  6: キリストは、神の身分でありながら、    神と等しい者であることに固執しようとは思わず、  7: かえって自分を無にして、僕の身分になり、    人間と同じ者になられました。    人間の姿で現れ、  8: へりくだって、死に至るまで、    それも十字架の死に至るまで従順でした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここからふと思ったのですが このイエスの存在のあり方が指し示すことは どうも《自己無化》というよりも・そして先ほどの《愛》の主題を考え合わせても  《脱自・自己脱出》というようなことではないか?   これは 何の脈絡もなくひらめいたものです。そしてこの脱自のさらに具体的な内容はと言うと それは どうも既存の社会にあって そこからは抜け出ることなく しかもその既成の慣習から自由になること。これではないか。  おのれを 従来のナラワシから自由な姿として――その姿の想像だけとしてでも――えがくことが出来るか?    ナラワシを否定するというよりもそこからまづ自由な場に身を置くこと。この想像上の世界から 話は始まるのではないか?    要領を得ないのを承知で ひとまづ このように問うてみます。