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内に目を向ける、外に目を開く。

chihokoの回答

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.15

●ウサギの献身を いのちの昇華として肯定することに  誤りを感じます。いのちの昇華という意味でいうなら死因が猟師であれ  狼であれ つまづいてころんだであれ 同じですよ。自然に回帰するわけですから。  大切なのは [ 自分と他者は違うんだということを 真にわかることです。]  自分で死ぬことも殺されることも悪です。  殺すことも同じくらい悪です。わたしたちは その悪を日々食べるという  行為で行っている・・・。ここをちゃんと認識して生きることが  まちがわない秘訣だとおもいます。  ただひとつ わたしが許せる献身があります。 ●それは こんな実験を披露してからお話しましょう。  サルの親子と人間の親子を同じ釜で炒めるのです。  サルの親は子の上に乗って生き延びようとします。  人間の親は自分の上に子を乗せて 自分が死んでも子を生かそうとします。  人間の愛による献身 これだけは許そうと思います。  ※戦争は人間の愛をミームで巧みに利用したレトリックです。(注意:これは許さない) ●宇宙の始まりについて すこし話ましょう。  最近の宇宙物理学では ビッグバンの初期設定数値が6つあって  その代入数値をすこしでもずらすと 人間が存在できない宇宙になる  というものが あります。あたりまえ と言えばあたりまえですよね。  このことから わたしが 感じることは。  ビッグバンに数値を代入できるということは 複数の宇宙いや無限の宇宙の  存在を否定できないということです。  人間のような命のある べつの宇宙もあるだろうし 神様だけが住む宇宙も  あるかもしれません。実にわくわくする話(事実)です・・・。

caballero
質問者

お礼

ありがとうございます。 >大切なのは [ 自分と他者は違うんだということを 真にわかることです。]  そのとおりです。だからこそ、あのうさぎの行為に意味があるのです。意味というと、chihokoさんにはミームなどのマイナスイメージからよくない印象をうけられるかもしれませんが、そうではないです。 >自然に回帰するわけですから。 自然に回帰する。これは普段生きているのと同じ事で、これは昇華ではないのです。昇華すると死ぬ事がなくなります。とらわれる事がないのです。 >わたしたちは その悪を日々食べるという行為で行っている・・・。ここをちゃんと認識して生きることがまちがわない秘訣だとおもいます。  こういうセリフがあります。 「口から出るものが人をけがす。口からでる言葉(ミーム)が人をけがすのだ。口から入るものは人を汚さずかわやに出る。」  真理は間違うことのない言葉です。 >ただひとつ わたしが許せる献身があります。  僕の知っている話はこうです。 その町は燃えていた。B29のじゅうたん爆撃により、母子は熱風の吹く公園に追いやられたのです。ぬらしてもぬらしても小さな子どもは渇いていきます。乳もつき、ついにぬらすものがなくなった。しかし、母親はすることを見失わなかった。 自身の血管を食い破り、その大量の水分で鳴く子どもをぬらして静めたのです。 数日がたち、火は消える。熱い空気の下の町に、外側から風が吹き込み、母子は落ちた葉のように、それに乗って消えました。母は枯れ果て凧になり、子は枯れて、小さい凧になりました。  人間の愛による献身です。 もう一つ話があります。 彼の父は猟師であった。たくさんの獣を殺したので、彼は獣に食われて死ぬ事になっていた。名をアッサジという彼は預言者であったので、幼くしてそれを知っていた。しかも、決まった日の決まった夜の一時に死ぬ事を知っていた。彼は「僕はこの日に飢えた獣に食われて死ぬんだ、シッダルタ。君はおなかが弱いので、それが原因で死ぬよ。それがいつか知りたいのかい?」「い、いや、やめとくよ、、。そんなことよりも、その日、僕は君を木の上にやり、一晩中の間そばで見張っていよう。絶対死なせるものか!!」 しかし、シッタルダはうとうとしてしまいました。その隙にねずみが、アッサジにかけられていた縄を食いちぎり、アッサジは木下の茂みの奥に入っていきました。 目が覚めたシッダルタは、大声を上げてアッサジを探したのです。彼を見つけたときが、まさにそのときだったのです。わたを食いちぎられ、生きたままアッサジ少年は、飢えた狼の子に与えていたのです。 シッタルダはその後悟りを開き仏陀になるのですが、その時、小さき友、アッサジが、いかに偉大かを知ることができたのです。そして、アッサジの言ったとうり、彼はおなかを壊してその生を終えたのです。 大事な事はことはこれです。 小さい者、大きい者、数多い者も、命の尊さは等しい。だからこそ、命の罪を償うのは命にしか出来ないのです。親の命もこの命も等しく重い。その証拠をchihokoさんなら見ることが出来ます。生物達を見てください。彼らは獣であるはずです。 >人間のような命のある べつの宇宙もあるだろうし 神様だけが住む宇宙も  あるかもしれません。実にわくわくする話(事実)です・・・。 そうですね。面白い話をありがとうございます。僕もそう思います。宇宙物理学は素人にも解説されてあることが多いので、そういうものは読んでいて面白いですよね。

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