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内に目を向ける、外に目を開く。

chihokoの回答

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  • chihoko
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回答No.13

●あるということ(存在)とトートロジーを 対峙させて  どちらが より確かか? と問われて 存在の方がより確かだと言う人もいれば  いや トートロジーの方がより確かだという人もおります。  わたしは はっきりと言うんですそういう方達に  どちらも同じくらい不確かです。と・・・。  このスタンスは大切です。存在とトトロジーを問うスタンスよりも確かです。  前回言いましたが いままで存在そのものを証明した人はおりませんし  トートロジーが真理であることを証明したひともおりません。  なぜか? そんなことわたしにわかる訳がありません。  人類の歴史をあまく見てはいけません。  途方もない時間をかけてわかる事かもしれません。突然のひらめきが解決するのかもしれません。 ●しかし ここが重要です。その不確かな世界のなかに身を置いて わたしたちの  ご先祖様は 生き そして死んでいった。その解を見出しても過去の事実の中の  変わらないものに目を向けたい。天動説の時代でもかわらないもの。  トートロジーの内が見えたとしてもかわらないもの それこそが大切なんです。  トートロジーの内を見ることなんて つぎの瞬間新たな疑問で打ち消されちゃうよ。  脳の処理で一応の解が見出されても それが脳の処理無しで真理だろうか?  ↑みたいな新たな疑問だよね。  内に目を向けることで「トートロジーの内が見たい」という願いが  究極の問いでないことが分る。  さて ここで脳のキャッシュが ものを言う。  究極の問いを探して そこから 逆に「トートロジーの内が見たい」まで  さかのぼればいいじゃないか!  んで たとえば脳の処理無しで真理だろうか?を考えてみる。  ここで言う脳の処理とは論理と限定しましょう。  すると論理のなかにトートロジーも含まれている訳です。  この論理を無くするわけですから。ひらたく言うと考えないということになります。  考えない世界にはたしてトートロジーは存在するか?という事になります。 ●どうですか?まわりをみて見当たりますか?  ありのままの自然・宇宙にはそんなのも無いでしょう。  アリの行動にドモルガンの方程式は みつかりますか?  石の存在に二重否定は みつかりますか?  ミームはミームにすぎないんですよね。  ミームの根本の内を見るなんてできないんですよ。  見ようとするだけ無駄です。 ●わっかるかなあ?・・・不安。わかってくれよーモー!   

caballero
質問者

お礼

うおー!って感じです。chihokoさんはイケてますね。ほんとにそう思います。 >このスタンスは大切です。存在とトートロジーを問うスタンスよりも確かです。 お話を聞けて、なんか、かなりうれしいです。 今このように考えます。一つの歯車だけを見ても時計は見えてきません。chihokoさんのおっしゃることで出てくるトートロジーや、存在でさえも、ひとつの歯車に過ぎません。ですから、chihokoさんの取るスタンス、そのセンス、すばらしいと思います。 >いままで存在そのものを証明した人はおりません。  存在ということがあるということなら、世界のはじめについて言ってみます。それは「あってないようである。」世界はそこになく、時間どころかカオスもまだない。あってないようであるものは、あれと言って、はじめてあるがあった。書いてみたものの、なんかすごく分かりにくいですね、、、。申し訳ないです・・。言葉というものが、およそ根源的、原初的なものであることを言いたかったのです。それは、今の話題のトートロジーよりも、ミームよりも、世界よりも、根源的です。そして、それらすべてに繋がります。はじめにそれはあったのです。だから、今、言葉にかかわらない者はないのです。ない者はないのです。あぁ、、また分かりにくい・・・。 >トートロジーが真理であることを証明したひともおりません。  なぜならトートロジーは真理ではないからです。 >しかし ここが重要です。その不確かな世界のなかに身を置いて わたしたちのご先祖様は 生き そして死んでいった。 その解を見出しても過去の事実の中の変わらないものに目を向けたい。天動説の時代でもかわらないもの。  トートロジーの内が見えたとしてもかわらないもの それこそが大切なんです。  ああっ、今正しい事が分かる。あなたの言ってる事が正しいと分かります。 「それこそが大切なんです」そうです。それこそが大切なんです。 >脳の処理で一応の解が見出されても それが脳の処理無しで真理だろうか? 脳の処理ナシになると、真理しかなくなります。もちろん自我もなくなります。 しかし、少し引っかかります。まだまだ僕は完全にわかっていません。脳の処理がなくなっても、何らかの言葉が残るかもしれないと考えています。 >んで たとえば脳の処理無しで真理だろうか?を考えてみる。  ここで言う脳の処理とは論理と限定しましょう。  すると論理のなかにトートロジーも含まれている訳です。 そうです。トートロジーなくして論理はありえません。 >この論理を無くするわけですから。ひらたく言うと考えないということになります。  考えない世界にはたしてトートロジーは存在するか?という事になります。 うぅ、、。難しくなってきましたね。真理の奥は深く細かいですね。 考えない世界には真理があります。世界はどうでしょう、。世界はトートロジーや、ミーム、諸々の言葉によって、それらが回転するような感じであります。 結論としては、ああっ!考えないと世界は広くなります。ですから、トートロジーやミームも、存在します。ただ違うのは、それらにとらわれないということです。広くなったのですから。ああー、内を見ると広がるのです。なんてことか! chihokoさんの言う事は間違ってなかった。sokuraさんも間違ってなかった。jumeさんも間違ってなかった。しかし、僕も間違ってなかったのです。そして、僕は正しいのです。以前の僕がいたところからは内に見えていた。しかしだからどうだというのです。内という者が外より低く、狭い者ではないのです。 >究極の問いを探して そこから 逆に「トートロジーの内が見たい」まで  さかのぼればいいじゃないか! いや、chihokoさんはイケてますね。まいります。究極を探すとトートロジーは行き過ぎてしまいます。そして、説明的な意味としてさかのぼれます。素晴らしいことを言われますね。ああっっ!いまさらまた僕は賢くなかったです。ありの行動にも、ドモルガンの法則や二重否定は知りませんが、その法則にも、トートロジーにも、内側はあるのです。およそのものにその内側はあるのです。その内側は広く深く細かいので、およその者(石の存在やありの動き、ドモルガンの法則、諸々)に繋がっているのです。内側を見るということは、糸を手繰り寄せ、自分を内側を通して外側に連れ出す行為だったのです。その外側から見ると、今まで見ていた内側は、真に内側となり、かつての外側に続いているのです。解った。chihokoさんが叙情に行き着いたのは正しい。僕がトートロジー、言語ゲームにめぐり合い、たどり着いたのと同じように。僕は、ドモルガンの法則から、トートロジーから外側に抜け出し、あなたは、ありの行動、石や水の存在から、叙情から外側へ抜け出すのです。今、イエスの言った事が証明された。「神の国はそこにあるあそこにあるというものではない。じつにそれは、あなた方のなかにあるのだ。」 >わっかるかなあ?・・・不安。わかってくれよーモー!  今日は特にがんばりました。ように感じる。今までもがんばっていたのだろう。chihokoさん、あなたはよく僕の手を引いてくれました。今 僕の行った海を思い出します。それはこうです。    海がなんて深いんだろう。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。   これが叙情です。間違いないと思います。詩的にはゼンゼンですが、今の気持ちに偽りはありません。 人との会話は素晴らしいですね。

caballero
質問者

補足

ここのお礼で僕がいっている「考えない」とは、無為の事です。無為とは、すべてを認めると言う事です。無為とは、作為のないことです。 今日は成人の日ですね。まぁたまたまなんですが今日ここを締めます。 12/2に、へろへろと人が立ち上がりました(笑。その人の上に、その人は立つのです。これが自立と言う事であり、その人は、すべてにおいて立っています。自分を見失う事がないのは、無為に見ているからです。すべてを見て自分を見ない。そのことで、自分という場所に立っているのです。ドコにも立たない事で、自分に立つのです。この人が成人(解脱)するような事はありません。その理由は以下に示します。 以下は、NO。1の回答に対する補足分の最後です。 >自我の所在は、内的宇宙と外的宇宙の境界のようなところだと言いたいです。外的宇宙がウィトゲンの言う内省の世界でも、内的宇宙はなくなりません。内省の世界の言語(今の思考)も、外宇宙と呼ばれる世界の言語(諸現象)も同族と考えています。 いつも乱文で本当にすみません。どうか今回も許容していただけるとありがたいです。最後の3行は大きく誤っているかもしれないので、すが、ご助言いただけるとありがたいです。再どの登場お待ちしています。この質問は締め切るのは当分しないつもりです。宜しくお願いします。 この三行、間違っていません。注意すべき所は、「今の思考」と書かれている所です。ここでいう、「今」とは、一瞬の事で、今とか、さっきとか、ついこないだ、とか、「数えれるもの」です。これらは、数えれば数えるだけ、無数にあります。歴史とは、今の積み重ねである。と言うところの「今」に、囚われてはいけません。そういう意味で「今」を使っています。 しかし、ホントに言う「今」とは、「永遠」の事であるのです。 すべてが今にあり、いつ?などと、とうことはありません。 あなたは、今を使う時、このように解釈してください。 「僕らは同じ世界に住んでいるか」と言う問いに対しての応えは、 「僕らは、世界の果てで逢える。」     僕は、世界の果てに、皆に逢いたい。逢う人と逢いたい。だから、僕が成人(解脱)することはありません。解っているけども、脱する事はしません。 僕は、世界の果てに来たのです。世界の果てに行ったのです。行くと来るは同時であり、行って来るのです。すでにきており、すでに行っており、行く場所も来る場所もありません。その場所、世界の果てとは、僕という場所です。あなたは、あなたという世界の果てがあります。そこで初めて、「出逢う」のです。僕は、世界の外から来た事(あなたもそうです)を知っています。今、世界の果てにいながら、世界にいます。当然です。世界のドコにいようが、何時いようが、僕は僕の場所にいるからです。しかし、世界に出たのは、皆に逢いたいからです。皆を置いて、先に行くようなことはしません。皆を先で待たせて、後で僕が行きます(笑) 待たせてごめんなさいって感じですか?(笑 ですから、はやく先に行ってください(笑 あなた方が、先で待つべきです。 しかし、最後まで世界に残った者が、最初に行きます。最初に世界の果てに入ります。何故なら、世界の果てに来た皆が、最後の一人を置いて、先に行ってしまうようなことはないからです。僕のようなものは、たくさん出てくるし、すでに出ています。皆がしんがりになります。                       僕の戸を涙が叩く                                  雨音で眼を覚ます                         君の涙 果てで                       僕の眼を覚ます                         涙は僕の戸から                               果てで目を覚ます                    世界の果てに                         僕と逢う君                      

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