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内に目を向ける、外に目を開く。

chihokoの回答

  • chihoko
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回答No.19

●叙情とは情景にこころが意図せずに寄り添うことですから  物もDNAもミームでもなんでもありです。いまの地球はオゾンの破壊  酸性雨 環境ホルモンなどで ミームにかかわってないものを探す  方が難しいでしょう・・・。 ●さて自我についての考えのくいちがいについてですが  あなたの自我についての考えが はっきりと読解できませんので  なんとも言えませんが おおきくは離れていないんじゃないでしょうか。 ●けれども自我の喪失についてですが わたしが自我の喪失と言ったのは  われを忘れる というような意味なのです。夢中になるとそうでしょ。  死んでも自我が残るというのは 間違いだと思いますよ。  そのひとから派生したミームは残るでしょうが。  そのひとの本質である自我は無くなると考えるのが普通であり合理的です。  そして 自我とその人から派生したミームは全くの別物です。  そのミームをその人に関連づけることが無意味なくらい別物です。  平たくいえば ミームはうそつき うそのかたまりだと思っていれば  まちがいないです。ことばをもたないミームで永くつづいているものは  もしかしたら うそから本物になりかけているものもあるかもしれません。  しかし 稲作にしても経済というミームの化け物によって 破壊されつつあります。  結局うそは うそのまま 終わるのかもしれません・・・。 ●さてわたしたちは なぜミームに悩まされるのでしょうか?  わたしはこう考えるのです。  自然は淘汰というコントロールによって宇宙の本質に同化しているかのように  否のうちどころがありません。自然の否を訴えるひとなど聞いたことがありません。  災害などを否とするのは愚の骨頂です。災害など環境の揺らぎはそのまま  生命の多様性の根源のひとつの要因であると推察できるからです。  自然淘汰とは 光・場所・食べ物・生き方 の奪い合い競争です。  あなたの言っていた共生とは この生き方のなかのひとつの形です。  ここで気が付くでしょう DNAはもののありかたがそのまま情報と  なったものであることが。  ここがミームとのおおきなちがいです。ミームはミームそのもの自体が  編集されたり増幅されたりして たちの悪いことにものに成り代わります。  だからミームがあり方として成り立つかどうかを証明するには時間が  かかるのです。そして成り立たないときには 地球は少なからず破壊されています。  なんだ じゃあ DNAとおなじでミームも淘汰されるじゃん。と思うでしょう。  ミームを淘汰するのが自然なら どれだけ時間を必要とするかわかりません。  ミームを淘汰するのはたぶんミームになるでしょう。  そしてながい時間をかけて自然が淘汰してくれるでしょう。このように  未来を推察するわけです。  ミームに悩まされるのは 自分がいきれるスパンとその淘汰される時間のスパンが  あまりにも ちがいすぎるため いまのミームのあり方に袋小路のような  限界を感じ 結局ミームに振り回されるしかない ことに由来しています。 ●わたしも あなたと同様にいまの文明にどっぷりと浸かって生きている  ひとりです。でも 貪欲に楽しみや快楽を追求している反面。  モーツアルトが 小鳥のさえずりや風のささやきに かなわないことも  はっきりとわかるのです。 ●若いころ わたしの生き方に影響をあたえてくれた 言葉を紹介しましょう。  道元の風鈴の歌です。 現在は影響される言葉を見つけれません。             いまは叙情にこころ やすらぐ時間が一番おおいです。  「東西南北 その真ん中に身を置き ただ風鈴のごとく チリン チリン」                                    道元  

caballero
質問者

お礼

>われを忘れる というような意味なのです。夢中になるとそうでしょ。 はい、わかります。 >そのひとの本質である自我は無くなると考えるのが普通であり合理的です。 まさに、自我はこの世のものでなくなるという意味です。そして、その人はこの世の者です。 >自我とその人から派生したミームは全くの別物です。 そうですね。 >稲作にしても経済というミームの化け物によって 破壊されつつあります。  結局うそは うそのまま 終わるのかもしれません・・・。 そうですね、今の経済というミームはまさに作り物で、ハッタリコンボ君?です。本来は、もっと喜ばれるミームだったのですが。何らかの理由で今の様になっているのです。どのような理由なのでしょうか、説明してもらわないと僕は納得できませんって思います。今の経済のミームはその虚構性より、自滅すると思います。しかし、経済というミームはまだ生き残ると考えています。 > モーツアルトが 小鳥のさえずりや風のささやきに かなわないことも  はっきりとわかるのです。 僕もそう思います。今までのどんな偉大な建築も、自然の造形にはかなわないし、自然の力無くして存在できません。人のいかな残酷さも、自然のそれにはかないません。どんな勇者も自然の勇気には劣るのです。しかし、人もまた歌えるのです。それは、小鳥のさえずりに劣りません。ひとも、DNAの現象である限り、素晴らしくあれると思います。僕は、素晴らしい人を復活させたい。ひとは、自然に見劣りすることなく、ミームを育てれる。なぜなら、人のDNA(生き方)が教師となるからです。人間は、DNAで現象し、ミームで現象するのです。ミームなくして人間はありえません。 > 平たくいえば ミームはうそつき うそのかたまりだと思っていれば  まちがいないです。 ミームはそんな酷いヤツなんでしょうか?ミーム自体にはそういうことはないと思います。たしかに、ミームにはリアリティといったようなものを感じにくいですし、今のミームはひどい者がありますが、僕は、ミーム自体の存在の将来を悲観的にはとらえたくない。 >ことばをもたないミームで永くつづいているものは もしかしたら うそから本物になりかけているものもあるかもしれません。 これは例えばどのようなミームですか? >DNAはもののありかたがそのまま情報と  なったものであることが。 なるほどって感じです。 >現在は影響される言葉を見つけれません。 そりゃそうです。必要としない人に与えられる事はありません。いらないものを物乞いするような事はないのです。存在にそれを見出したのですから。しかし、言葉にも実在する者があります。まさに、あなたの言ったように、言葉という必要のないものですが、言葉という事で、何か違う印象をまた得れるかもしれません。 道元の詩ですが、なんかわかったようなわからんような、結局わかってないんですが、感ずるところはあります。しかし、最初の二節はよくわかります。僕のいる所が世界の果てです。こうとらえました。 人間の芸術についてですが、時々、奇跡とよべる、宝石のようなものが出現します。モーツァルトにはっきりいえなくても、バッハにはあるのです。僕はそう思います。ミームの存在の仕方がかわるとき、虚構はなくなり、奇跡はよく起こるようになると思います。

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