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内に目を向ける、外に目を開く。

chihokoの回答

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.6

●それでは共鳴に関して すこしお話いたしましょう。  自我と言う物が感情を傍観できるということで 仮に自我の下のステージに  感情系があるとします。このような考え方で全てを表現すると。  いちばん下のステージには知覚系(五感)  次の第二ステージには感情系(悲しいとか・・・)            感覚系(すがすがしいとか・・・。)            六感系(なんか悪い予感とか・・・。)  そして一番上のステージが自我  この三つのステージを合わせたものが個人のパーソネリティ(個性)と考えます。  さて ここでは自我の共鳴についてお話します。  自我の部分には何があるでしょう はっきり分るのは言葉を使った論理処理  部分(必ず1つ 二つあると二重人格です。)そしてご注目!  真・善・美 です。この三つは傍観できません。  そして実はもう1つ傍観できないもの 恋があります。  この真善美恋は DNAが存続するために意識のなかで最も優先させるべき  価値基準です。(経験とともに変化もする。)そして本質は同じものと考えます。  在りように照らせば真となり行いに照らせば善となりイメージに照らせば美となり  異性に照らせば恋となります。  このDNA価値基準を進化させるものが芸術であると考えております。  共鳴とはこの価値基準と同質のものを対象に見出すことと考えます。

caballero
質問者

お礼

お考えのことを聞くことができありがたいです。かなり、新鮮な印象をうけます。僕の考えとは大きく違うものの、もっと知りたいと思います。もう少しお付き合いお願いしてよろしいでしょうか? 真、善、美、注目しましたよ~。ギリギリ分かる気がします。文系的な感じがします。傍観できないとは無知であることととりました。僕は先に美という実在、物質と同じ実在だと、もしくは美という形相、諸々の物質もまた諸々の形相だといいました。形相というとあたかも実感が感じにくいかのように思うので、両方実在(言語)としました。chihokoさんのお考えでは、美はなにか特別の位置におかれていますね。美は、諸々の諸言語(諸物質、諸法則、その交流に派生する事物)とはちがうのか?美に個性(その他の諸物のような)はないのかという疑問が出ました。なぜなら、傍観できない、無知であるからです。いよいよぼくの言っていることはぐちゃぐちゃで、このような文を読んでいただき申し訳なく思っておりますが、今はなにせお話を聞きたいと思います。お許しください。  恋、これは異質にかんじます。何故、真、善、美とDNAが関わるのか?レズ、ホモの恋愛はDNAか?友愛は何処にいくのか?この一言で様々に疑問が浮上してきました。恋は傍観できない。確かにそうかもしれません。恋愛映画で恋はできません。しかし、快楽殺人犯はどうでしょう。突然ですが、間違いなく傍観できていないと思います。死体写真で、こういうものがありました。人間の首が、顔面を上に向けて木の大皿に置かれている。それを(10)型に切断していく連続写真ですが、出来上がるパーツは何故か5つです。額の部分、右目右耳の部分、左目左耳、そして口びるで繋がってはいるが、上あごと鼻、そして下あごと首に分かれます。  皿にフルーツのように盛られている、もちろん何か一目では解らない、それもコレも西瓜切りのせいです。この切実な状態、どう受け取ればいいものか。出会いたくないものです。こんなことまで起こるってことです。これは、快楽殺人でなく、マフィア等の裏社会のことだとは思いますが、驚異を感じるいう意味では、夕焼けなどと同等と感じます。  快楽主義に埋もれ、蒙昧になること(傍観できない、無知であること)と、恋愛は分けられているのでしょうか?chihokoさんのいう恋は快楽志向的なものでないと察しています。 今回お尋ねしたいのは、DNAの関わりと、真、善、美、恋は経験と共に変化するが、本質的には同じもの、これは本質的には変わらないということでしょうか? ここら辺について、また、その他この質問や僕のお礼に関してでも、お時間、お気の向く時にでもお話しいただけるとありがたいです。宜しくお願いします。

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