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善について 2

odd-artの回答

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.13

 再再度、回答させて戴きます。  なかなか答えを出せないようですね。  以前、回答して、重複するので避けていたのですが、最高最善の生き方は、人生の目的、人は何故生きるのかという回答にも通ずるのですが、”正法を行じる”ことであります。  正しい信仰を通して自分を磨き、さらに世の中の人々を教化して、正法の功徳を社会の一切の人々に及ぼし、ともどもに仏道を成就することです。  人間に生まれた目的は、御題目を唱えることにあるのですが、これを知らない、或は信じられないために、「御題目を唱えるだけでは駄目だ」などと不敬極まりないことを云うわけです。  しかし、これは仕方のないことで、どんな些細なことでも人は教えられなければ、絶対と云っていいほど、分からないのです。  教えられなくても解るお方は仏様だけであります。  ですから”仏”のことを「無師独悟」と尊称するわけです。  実際、御題目を唱えるのを見て、これこそ真実の仏道修行であり、人生の目的だなどと思えません。  仏教学者でさえ「蛙鳴蝉聲」(蛙や蝉がうるさく鳴くのと変わらない)だと、馬鹿にするぐらいですから、当然であります。  しかし、これは、「難信難解」でありますから、日蓮大聖人の仰せを信ずるほかはありません。  以下、どうせ難解で信じられないでしょうから、省略しますが、”命が本有”だから唱えるのであります。  どうですか?

chihoko
質問者

お礼

●ご回答ありがとうございます。  グールモンの詩を紹介させてください。  [落ち葉]  シモーン  木の葉の散った森へ向かう  枯葉は苔と石と小道を覆っている  シモーン  お前は好きか 落ち葉ふむ音を  落ち葉の色はやさしく 姿はさびしい  落ち葉は儚く捨てられて 土の上にいる  シモーン  お前は好きか 落ち葉ふむ音を  寄り添え 我らもいつかは 哀れな落ち葉であろう  寄り添え もう夜が来た そうして風が身にしみる  シモーン  お前は好きか 落ち葉ふむ音を ●たとえば この落ち葉の在りようが わたしにとっては 善かなあ。  正法を信じる 行ずる が最高最善ですか。  その道を信じるほど 素直じゃないし 勉強するほど時間はないです。  勉強するとその間の時間自然や主人を感じることができなくなりますから。  いまのままで じゅうぶん歩めていると 感じています。  

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