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いつも心が躍動(感動、テンションアップなど)すると人を想像してしまうのはなぜでしょうか?

こんにちは! 説明すると、音楽を聴いていたりしてテンションが上がってきたり、自分的にいい曲を見つけたりして感動すると、いつもその直後頭の中に、友人であったり、知り合いであったり、その人達にそれを聴かせている時をいつも想像してしまうんです。 私は人一倍、人の目が気になったり、時には挙動不審になったり、人は人、自分は自分と言い聞かせているのにも関わらず、いつも人の話をしたり気になったり、自然に思考が人と比べたりするんです。 私が辛いときにも、私の思考が追い討ちをかけるように 『他の人はそんなことで辛くならないぞ』や、私ががんばっているなぁと思うような時にでも『お前よりがんばっているやつはいっぱいいるんだぞ』など、なんだかとてもしんどくなります。 人には自分を持っているとなぜかよく言われるのですが、本当は人に影響されやすく、流されやすいのです。 人を気にせず、自分がこうしたいと思うことを素直にできる人間になるように、理性をきかせて行動しているのですが、いつもそういう時にでも頭の中は人がそれをどう思うのか?など、とにかく人のことばかり考えてしまう、それも自動的にです。 父親が常識人で、いつも人の話を引き合いにだしてくる人なので(例えば私が苦しんでいる時にでも、お前の年のやつで、もっとがんばってるやつだっているんだぞなど)、それを受け継いでしまったのでしょうか? 私は、なんというか心の基本が常識人にも関わらず、理性といえばいいのか、それがその反対な生き方をしようとしている気がします。 実際自分は反対の生き方をしたいのです(自分自身の人生を生きることと言えばいいのか、そういう生き方のことです) 題名の通りの質問と、一体こういう風に人の目を気にしてしまう人間になったのはなぜなのでしょうか? 直すことはできなくても改善するアドバイスやその他いろいろ教えて頂きたいです。

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  • vesalius
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回答No.3

>父親が常識人で、いつも人の話を引き合いにだしてくる人なので(例えば私が苦しんでいる時にでも、お前の年のやつで、もっとがんばってるやつだっているんだぞなど)、それを受け継いでしまったのでしょうか? 自分も父親がその「世間様」を比較に出すタイプだったので、お気持ちはよく分かります。 特に思春期などは、親の言葉の絶対性と反抗期の性分が相反するため、すなおに受け入れ ることができず、かといって無知のために反論することもできず、もやもやとした鬱憤が たまって話すことも嫌になったものです。 しかし現実には、その言葉は真半分、嘘半分です。あなたと同年代で頑張っている人もい れば、頑張っていない人も勿論います。少しずつ世間を知るたびに、父親の言葉がどんな に薄っぺらなものであったかを知ることになるでしょう。 子供は親の庇護で育つため、小さいころから親の意見を無条件に受け入れてしまいます。 植えつけられた価値観はそうたやすく変わるものではありません。しかし成長するたびに、 少しずつ疑問符が浮かんでくるはずです。今のあなたのように。 それをそのままにしておくのではなく、疑問に思ったことを解決しようと努力してみるこ とが大事です。まずは見識を広め、いろんな経験をしてみてください。本を読むことでも 新たに発見することもあるでしょう。今度同じような言葉を言われたとき、反論できれば 立派な収穫があったと誇ってください。 >人を気にせず、自分がこうしたいと思うことを素直にできる人間になるように、理性をきかせて行動しているのですが、いつもそういう時にでも頭の中は人がそれをどう思うのか?など、とにかく人のことばかり考えてしまう、それも自動的にです。 多かれ少なかれ、みんなそう考えて行動しています。あなたが特別なのではありません。 逆に気にしすぎるとどんどん深みにはまります。 「開き直り」が肝心です。

その他の回答 (2)

回答No.2

誰にとっても非常に重要なことを的確に述べておられると思います。私もそうですが多くの人は、この問題をあやふやにして毎日を暮らしているのだと思います。これは特に不真面目というようなことではなく、問題が難しすぎるからだと思っています。したがって当然ながら私も明確なことをいえる自信はありません。貴方が問題としているのは自分とは何かだと思います。自分というのは認識の主体である自我意識のことですが、養老孟司さんの言う自己言及の矛盾といわれているもので、主体である自分というのは、それが存在することはわかっても、それが何かについては自分でも理解することはできません。そこですべての人(と思いますが)は、仮に自分の体とか名前とか能力とかのいわゆる自分の所有物を自分ということにしてお互いの間に了解をつけているのだと思います。ところがこの意味での自分というのは主体から認識の対象とされているものですから自我意識(認識主体)としての自分ではないわけです。ここからは私は何も分かりません。貴方が他の人と比べてしまうというのは自分のことではなく、自分の所有物のことだとすれば、もっと良いものを所有しようとするか、今のままで足るを知るとするか、いろいろなことが考えられます。また貴方の言われる自分がないというもんだいについては認識主体たる自我意識が存在することで自分はすでにあるわけですが、貴方が、自分(認識主体)が何であるかを知らないことを誰かから非難されているとすれば、その人は自我意識(主体としての自分)と自分の所有物とを混同するという、いわゆる常識人にとっては当然の約束を錯覚的に理解しているだと思います。別に悪意があるわけではなく、その人は自分とは何かをそれほど根本的に考えているわけではないのだと思います。むしろ人間は誰でも自我意識とは何かという質問には答えが出せないという認識をしたほうが良いのではないかと私は考えています。つまり誰も自分のことだけはわからないというのが俗な言い方になると思いますが、案外この辺に人間は平等であるという根拠があるのではないでしょうか。ソクラテスでもアインシュタインでも自分とは何かだけはわからなかったと考えると少し気が楽になる(?)ようにも思えます。

回答No.1

こんにちは。 えっと、こちらは科学的な学問としての心理学によって、質問者さん達の疑問を解決してみようというカテゴリですので、個人的な心理状態の分析・解釈や、性格改善のアドバイスというのはやっていないんですよ。カテゴリ違いってやつですね。  そんなあなたの、より適切な相談先は、     →→→ 「恋の悩み・人間関係」「メンタルヘルス」   (後者は病気に関係する質問が多いので、ここも微妙といえば微妙なのですが) で、それだけではなんなので質問に答えてみようかな、と思ったのですが……文章全体が何を言いたいのかよくわかりません。ご自分で自己分析なさっていると思うのですが、全然整理されていないので、自己分析の結果どういう仮説が出てきているのかさえも…。 【質問文要約】 何の行動をするにしても、そしてどんな気持ちになるにしても、人と比べたり相手がどうなのか、その感情が他人と同じものなのか考えてしまう。原因として考えられることは、父親から同様の言動を受けて育ってきたからではないか、と仮説を立てている。でも私は、他人の目や言動を気にすることなく自由に生きてみたい。どうすればいいでしょうか? ということですかね?  いつも心が躍動すると人を想像してしまうのはなぜでしょうか?  = 自分の感情が正しいのかどうか他人の評価を気にしてしまうのはなぜでしょうか?     → 科学的にはわかりません       他の回答者さんなら「質問者さんは自分に自信が無いのでは」と言うかも 一体こういう風に人の目を気にしてしまう人間になったのはなぜなのでしょうか?  → ご自分で「父親など育った環境の影響」と仮説を立てているのでは    あなた自身がそれを違うというなら、あなたを知らない私達にわかるはずがありません 直すことはできなくても改善するアドバイスやその他いろいろ教えて頂きたいです。  → 直す・改善は科学ではやっていません。「気の持ちようです」と一言。 ……ただ、他人に全く左右されない、自分に絶対の自信をもっている人っていうのは、いろいろ問題もありますからねえ。両極端というのはやはり、他人と接する上で自分と他人お互いに問題が出てくるのですよ。 適度に「自分」をもって、適度に他人を気にする、そんな内部バランスが集団生活には大事ではないかと。全然科学的じゃないですが、そんなアドバイスを残しておきます。

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