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旗本
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●家臣の数・構成(慶安2年(1649)の軍役規定) 1000石 21人(侍5、槍持等16) 3000石 56人(騎士2、侍8、槍持等46) 5000石 103人(騎士5、侍9、槍持等89) ●旗本の人数(元和9年(1623年)) 1000石 24人 3000石 45人 5000石 75人 ●拝領屋敷地(元和6年(1620年)) 1000石~1900石 700坪 3000石~4000石 1500坪 5000石~7000石 1800坪
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生駒氏は讃岐十七万二千石を治める大大名でしたが、生駒騒動で羽州矢島一万石の小大名になってしまいました。 (1)生駒高清は2千石を弟に分知した為、8千石の旗本(後に交代寄合)になってしまい、大名の地位から転落しています。 生駒家以外にも、他にも大名が分知によって1万石を割ってしまい旗本に転落する例があったようです。 弟に分知してやりたいという気持ちは分からなくはないですが、それによって一万石を割り、大名の地位自体を失ってしまう道を選択したのでしょうか?ご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。 (2)弟へ分知によって8千石の旗本となった生駒家では、仁左衛門騒動(延宝騒動)が起こっています。 藩主が江戸定府なのを良いことに、国許の家臣が藩主の命を無視して過酷な年貢を課していたようです。 他の家でも、このように大名の命令や意向を堂々と無視して、家臣が専横を極めたケースがありましたら教えて下さい。
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お礼
御回答ありがとうございます。 実際は軍役よりも少なかったと聞きますが、用人・給人・中小姓などの人数はどれくらいだったのかな、と思い質問させて頂きました。 拝領屋敷は五千石以上でも二千坪程度だったのですね。