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「無宗教」の「慰霊施設」は矛盾していますか?

靖国問題に絡んで、無宗教の慰霊施設を作る話がありますね。ここでも頻繁に話題にのぼっています。それに反対する理由として、「慰霊というのはそもそも宗教的な行為だから、無宗教の慰霊施設なんておかしい」ということを聞きました。 でも、無宗教の慰霊施設ってありますよね? 広島の平和公園とか、特定の宗教に基づいたものじゃないですよね(違ったらすみません)。靖国問題は置いといて、「無宗教だと慰霊はできないか?」について、どのように考えたら良いか、アドバイスをください。お願いします。

noname#12478
noname#12478

みんなの回答

  • north073
  • ベストアンサー率51% (536/1045)
回答No.10

「施設」が「無宗教」であることには、何の矛盾もないと思います。 「慰霊」は宗教的行為になり得ますが、それはつまり、慰霊する側の行為によって宗教的意義を持つものです。公に慰霊するための施設自体が宗教性を有することは、却って慰霊する側の宗教性を制限し、否定することにもなりかねません。 慰霊するための場所において、各人が自分の信ずる宗教的行為としての慰霊を行うというのが、公の慰霊施設のあり方だと思います。 個人、家族としての慰霊は、慰霊する人が限定されているという前提で、その「家」の宗教にのっとって行われることが多いです。が、このような個人・家族単位での慰霊と、様々な宗教観を持つ人が慰霊し、慰霊される、公の慰霊施設の問題を混同しないことが大切です。

  • bazarakm
  • ベストアンサー率46% (65/141)
回答No.9

>> 無宗教の慰霊施設ってありますよね? 広島の平和公園とか、特定の宗教に基づいたものじゃないですよね 無宗教ではなくて無宗派になると思います 大勢の人の霊を同一箇所で慰霊する時、特定の宗教で纏めると当然宗派の違う人の家族から苦情が出て話が纏まらなくなります それで無宗派にしておいてそれぞれの家族が自身の信じる宗派で参拝したらよいことにしたわけです。 分譲霊園も広くおおぜいの購入者を募るには無宗派にしておく方が 営業上都合がいいですね 他の方が既に発言されてますが慰霊と言いながら無宗教というから話が わかり難くなるのですネ。 慰霊行為は宗教行為だからです。 無宗教を本当に実行するなら施設は造らず、遺灰や遺骨は海などに散骨するというのを聞いたことがあります 靖国の場合は新しい慰霊施設を造ってどれくらいの人が慰霊に行くのか疑問です。 靖国は嫌いだから行かない、他の施設なら行くという人はあまり無い様に思います。 何故なら靖国に合祀されている人の世代感覚は国のために戦い靖国に祀られることを名誉なこととして出征していった訳ですから家族も個人の希望どうりにしてあげたいと思うのが大半の遺族の感想のような気がしますが。 一つの例ですが大阪府の女性知事が相撲の大阪場所で表彰式に「土俵の上に上りたい」と発言すると必ず何人かの支持者が出て相撲協会に「女性を土俵に上げよ」と声高に叫びますがこれらの人は殆ど相撲には何の関心も無い人達で関心があるのは伝統や文化を破壊することのようです 靖国を参拝することに反対している人達も、同じように戦没者の慰霊に特に関心があるわけでは無いのではと思ったりします

回答No.8

無宗教というのは、「特定の宗派に依存しない」という意味だと思います。 職業的宗教者(神主や僧侶等)を関わらせずに結婚式や葬儀を行うことが 最近は多くあります。慰霊の施設もそういうことが求められて不思議は ありません。 亡くなった方を偲んだり、何かを祈ることは、人間として普通のことです。 宗教者に儀式の執行を依頼するのもひとつの方法だし、依頼しないで 儀式をするのもひとつの方法です。 江戸時代以来の檀家制度はすでに形骸化しています。 新しいスタイルの慰霊を確立する、過渡期が今の時代のような気がします。

  • lequeos
  • ベストアンサー率54% (308/566)
回答No.7

漢字ですと「霊」という文字に引っ張られてしまいますが、慰霊は本来memorial、つまり亡くなった人を忘れないでいること、というのが原義です。「忘れないでいること」に宗教は関係ないと言うべきでしょう。 日本の場合にはしばしば、死後災いをなす霊を鎮めるために神としてまつったり、塚をたてて永く供養したりと言うことが行われていますけれども(これはおそらく宗教行為)、戦没者の方々についてはちょっと事情が違うでしょう。 また、その場で死者の冥福を祈るのは宗教的な行為でも、その祈り方が各人の自由にゆだねられているならば、そこはやはり無宗教の慰霊施設という形容がもっともそぐう気がします。

noname#11564
noname#11564
回答No.6

死後の世界のことをいいだしたら、宗教的な「もの」が絡み合って当然です。 霊を慰めるって表記するのですから、「霊」の存在を認める=宗教的なものととらえるのが間違っているとは思っていません。 そうすると献花するのも宗教的ではないか?とまでなってきます。 慰霊施設という言葉以外でどう表現するのかは難しいでしょうが、何もない公園等を作り「各自でどうぞ」のような感じでよいのではないでしょうか? 私個人としては、また税金の無駄遣いとおもってますけれどね。 故人を偲ぶのは宗教とまでいえないと思います。 ただ、無宗教でやるとのちのち廃れそうなのが問題でしょうね。 慰霊施設を作るってことはまた戦争でもする気?って文句を言わないお隣さんたちの方が不思議です。

  • utaufune
  • ベストアンサー率37% (132/351)
回答No.5

「霊」というものの捉え方自体、宗教的意味がどうしても絡みますから、宗教と全く関係ないとは言えません。 しかし、「霊」を否定するような宗教では無理としても・・ 特定の宗教とは関係なく、多くの人の共通の概念としてとらえての施設とすることは可能だし、その意義もあると思います。

  • mii-japan
  • ベストアンサー率30% (874/2820)
回答No.4

日本人は、「宗教」に対して鈍感すぎます 完全に政教分離の国がありますか USAの大統領就任式には聖書が大きな役割を果たしますし、「宣誓」は「神」対する誓いです 英国も国教会の影響があります 日本以外では、無宗教と宣言することは「人間ではない」と宣言することと同一な意味を持つことがあります 余談はさておいて、「慰霊」と「無宗教」は並立しない概念です 特定の宗教にとらわれない、慰霊施設として 千鳥が渕の戦没者墓苑があることをご存じない方が多いようです それから、平和公園とかは 慰霊施設ではないと思います 亡くなった人を偲ぶ心が宗教的なことですから 無宗教の慰霊なんてありえません

  • shagaraku
  • ベストアンサー率33% (96/287)
回答No.3

こんにちは 「無宗教」と言う字句をそのまま読みますと、宗教的色彩がないとか、非宗教的という意味になります。 無神論と言う言葉もあるので、もっと強い否定的な感じを受ける人もあろうかと思います。。 少し違った観点では、 ・特定の宗教にとらわれない ・特定の宗教を超えて といった解釈も不可能ではないと考えています。 なぜかというと、「慰霊」という考えは、人を霊的な存在として考えるという、漠とはしながらも動かしがたい観念があるように思うからです。 特定の宗教を信じる人だけが、人を霊的な存在と考えているわけではなく、特定の宗教に属さなくてもそのように考える人は少なくはないだろうと思います。スタンスは宗教的であったり、哲学的であったり多様だろうと感じます。 もちろん、霊的存在として考えない人でも、現在生きている人に対する戒め、亡くなった方々への哀悼の気持ちを表すという意味で大きな価値はあるというように考えます。 したがって、無宗教という形でも、慰霊施設を設ける意義はあると考えます。

  • NAIROBI
  • ベストアンサー率20% (236/1168)
回答No.2

私は無神論者で、そもそも「霊」の存在を完全に否定する者です。が、死者 (我々に繋がる先人の生命)や、その方法に間違いがあったにせよ、国や国 民を守るために死んだ人たち)に感謝する、敬意を払うことは我々(生者) に取って、非常に大切なことだと思います。そんな意味で「アリ」ではない でしょうか。 蛇足1・神・霊は否定する私ですが宗教(新興宗教を除く)は否定しません。 蛇足2・靖国の分祀には大反対です。

  • karrin
  • ベストアンサー率19% (159/833)
回答No.1

 むずかしい問題は おいといて 神を信じようが 仏様を 信じようが 何も 宗教を信じようが 信じまいが  亡くなった お祖父さんや 亡くなった 家族のことを 思い 慰霊する というのは 誰でも することだと 思います  だから 無宗教の慰霊施設って おかしくないと 個人的には 思いますけれど それを 政治的に 使われるのは 嫌ですね  よく 無宗派の 霊園 墓地 とかいうのが ありますけれど これは キリスト教だろうが 神道だろうが 仏教だろうが 一緒に 墓石 建立できますよって ことで ちょっと 意味が 違いますけれど ここでも 宗教に こだわらず 何かの 墓標を 建てることだって 可能だと 思います

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