ニーチェ思想とヒトラー
- ニーチェが後の帝国主義やユダヤ人差別を予測し批判しているにもかかわらず、なぜヒトラーがニーチェ思想を利用したのか?
- ニーチェの著書を読むと、本人の意図と言葉の意味がしばしばかけ離れており、矛盾している部分がある。
- ヒトラーがニーチェを曲解したに過ぎず、ニーチェには負うところがないとする説が存在する。
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ニーチェ思想とヒトラー
最近ニーチェを読み出した者ですので質問内容が意味不明でしたらご指摘下さい。 ニーチェが後の帝国主義やユダヤ人差別を予測して強く批判しているのにもかかわらず、「ヒトラーがニーチェ思想を利用した」とはどういうことなのでしょうか? ニーチェの著書を読む限りでは、本人の意図することと言葉自体の意味はしばしばかけ離れていて、矛盾しているようにも思える部分がありますが、そういうことなのでしょうか? また、このことについて、「ヒトラーはニーチェを曲解したに過ぎず、ニーチェには負うところが無い」という説もききました。(名前は忘れました) 以上について、できれば関連する著書名とともにお教え下さい。
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こんにちは。 >本人の意図することと言葉自体の意味はしばしばかけ離れていて・・・ 私もこの感覚はあります。好きな哲学者の一人ですが、超人思想とか は結構「あれ?なんでこうなるかな?」と思うところがあります。 (まぁ何よりの理解不足は置いておきまして) ただ、ニーチェ自身の話はさておき、ヒトラーの曲解に関連しそう な話は別にあります。 以前TVで見た大まかな流れではヒトラーとニーチェを結ぶ 人としてワーグナー(音楽家)が出てきます。 ワーグナー自体は確かヒトラーが生まれるよりも早く亡くなって いたと記憶しますが、ヒトラーがワーグナーの選民思想に影響を 受けていて、ワーグナーの選民思想のモチーフとしてニーチェの 「超人」が出てきます。 (勿論ニーチェはこんな選民思想を説いているわけではないです) また、ヒトラーは良く言えば賢いので、理(力)のあるあらゆる 知識人や思想を取り込もうとしてましたよね。 特に哲学家は標的にされていて、ハイデガーやフッサールも ナチスに目掛けられていたような・・・ 著書はないです。すみません。
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