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合理主義

こんばんは。 合理主義は「感覚を介した経験に由来する認識に信をおかず、生得的・明証的な原理から導き出された理性的認識だけを真の認識とする立場」とのことですが、生得的・明証的な原理とはどのような原理のことなのでしょうか? また、感覚を介した経験に信をおかないのであれば、理性的認識の根拠になる事物は何なのでしょうか? 宜しくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

ご質問は、デカルトの『省察』あるいは哲学史のを読んでいけばわかるかと思いますが、ここで簡単に書いてみます。 まず、デカルト自身は中世の末期に位置する人物であることを頭に入れておいてください。 中世の哲学の根本的な考え方というのは、哲学のすべての体系が真理であることは、神によって保証されている、というものでした。 けれどもその神が存在することを、どうやって証明したらよいのか。 この保証がなければ、哲学は意味を失う。 神の存在を証明すること。 これがデカルトの目標だったわけです。 デカルトはここで、正しく考えるためには、なによりもその方法が重要である、と考えた。 正しい方法を導き出せば、いかなる人も、かならず真理に到達できる。 その方法とはどのようなものか。 それが、数学的方法、ものを構成要素に分けて分析し、それを総合すること、という方法だったのです。ご質問の >感覚を介した経験に由来する認識に信をおかず、生得的・明証的な原理から導き出された理性的認識だけを真の認識とする立場 というのは、そうしたデカルトの立場をさします。 感覚はときとして人間を欺く。 日常的な経験も、夢と疑うこともできる。 一切のものに疑いを拡げていったとき、それでもただひとつ確実なもの、確実で揺るぎない、これ以上の懐疑をすすめるのが無効になるようなひとつの根拠を確立します。それが「わたしは考える。そうして、考えているわたしの存在だけはうたがうことができない」です。 >生得的・明証的な原理 とは、このことです。 そうしてこの思惟する存在の確実性、これを出発点として、そこから明晰で論理的な観念だけにもとづいた推論を積み重ねていけば、確実な真理にたどりつけると考えたのです。 デカルトは人間の観念を 「生得的な観念」 「修得的な(感官を通して外から受け取った)観念」 「構想的な(自分でつくりだした)観念」に分類します。 長くなるので結論だけを言ってしまいますが、デカルトはわたしたちが生得的に神の観念を持っているというのは、神がわたしたちに神の観念を生得的に与えたからにほかならない、それゆえに神は存在する、と証明していきます。 こうして人間の認識には確実な根拠が与えられた。 ところがデカルトの意に反して、デカルトのうち立てた哲学の中心は、神は物体の存在を証明するための媒介となっていき、神から「考えているわたし」に移っていってしまうのです。それが、「近代」という時代であり、そうした意味で、デカルトはまさに中世から近代への転換点に位置づけられるのです。 わかりにくいところがあれば、おっしゃってください。 以上、岩崎武雄『西洋哲学史』(有斐閣)をおもな典拠としています。

majissuka
質問者

お礼

わかりやすいご回答をありがとうございます。 合理主義における「生得的・明証的な原理」とは、「確実に存在する私を根拠にした原理」のことなのですね。

majissuka
質問者

補足

以下の質問にお答え頂けたら助かります。 ○合理主義では、「生得的な観念」として、神以外にどのようなものを挙げているのでしょうか? ○合理主義では、具体的にどのような観念を「構想的な(自分でつくりだした)観念」と定義しているのでしょうか?

その他の回答 (7)

回答No.8

肉を切らせて の間違いでした. 澄みません.  

majissuka
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございます。 また、教えて下さい。

回答No.7

じつはデカルトの神の存在証明自体がけっこう危うい論理のような気がします。 自分より完全である存在についてわたしたちが考えることができるのは、神が存在している証拠だ、というのは、やっぱり相当に危うい。 理解できなくても大丈夫、デカルトが危ないんですから、と無意味な太鼓判を押してもいいんですが、せっかくですからもう少し書いてみましょう。 まず、デカルトは「明晰・判明に」精神にあらわれるもの以外は、判断のうちに取り入れない、と言います。疑えるものを全部取り除く、そうして最後に「明晰・判明に」精神にあらわれるものは「真」である、と言うんです。 ここでデカルトが言う「明晰・判明」な観念とは、計量可能で数量化できるものなんです。 駅へ行くまでの道に桜の木があるんですが、わたしがここで「桜」と書くときに頭にあるイメージと、これを読んだ質問者さんの「桜」のイメージは、おそらくちがうものです(同じだったら、ちょっとコワイね)。 実物の桜を見たとしても、わたしたちはほんとうに「桜そのもの」を見てるんでしょうか。 そうじゃなくて、わたしたちが「桜を見ている」と思っているのは、実は、わたしたちの意識の内面に浮かび上がる「桜のイメージ」を見てるってことなんですね。 だいたい哲学では、こんなふうに「経験によって意識に浮かび上がる像」のことを「観念」と呼びます。 今日はいい天気で、帰りがけにみたら、朝見たときにくらべてずいぶん花が開いて、木全体がパッとピンクになってました。 だったら朝見たときの桜と、帰りに見た桜は違うもの? 同じもの? 当然、同じものですね。 でも、ちがうふうに見えた。つまり、これがわたしたちの観念が「曖昧」っていうことです。 曖昧さを取り除き「明晰・判明に知られたもの」だけで桜を記述するためには、どうしたらいいか。 どのような空間的構造を持ち、どの程度の質量を有し、さらにどのような物理的化学的性質を持った対象が、どの方向と距離とにあるかといった情報を得、それをさらに座標軸によって表す。 デカルトがイメージした「物体」というのは、こうしたものだったんです。 ここでデカルトが数学者でもあったことを思い出してください。 わたしたちは、いま、たとえば石を投げたら、放物線を描いて飛んでいくその軌跡を数式で表すことができることを知ってますよね(わたしはそんな数式を表すことはできませんが、できるということは知っています)。 ところがデカルトの時代は、ガリレオが物体を投げると放物線を描くことまでは発見したけれど、それを数式で記述することはまだできなかった、そんな時代だったんです。 そういう時代に、物体とは、感覚を通して経験される、たんに主観的で経験的な「観念」ではなくて、明晰判明な仕方で数学的幾何学的に構成できる純粋な「観念」であるということを証明することは、ものすごく新しい、革命的ともいえる考え方だったわけです。 ここまでで、デカルトの言う「物体」が整理できましたね? でもデカルトは、デカルトにとって何よりも信頼できる数学さえ、いったんは疑ってみます。 たとえば三角形の内角の和が二直角に等しい、という命題は、明晰かつ否定できないものです。けれども、もしかしたら誤っているかもしれない。 疑いようのない数学さえなんで疑うの? それは、「私を誤らせるのは神にとってたやすい」ことだからです。 けれど、神がそんなことをするのはおかしい。 やはり、三角形の内角の和が二直角に等しいという命題は真なのだ。 >「誠実な神が私のことを騙す訳が無い」 というのは、こういうものとして理解できるのではないかと思います。 >「明晰かつ判明な存在は、私が間違いなく存在するのと同様に間違いなく存在する」 「明晰・判明な観念」は私たちの自由にはならない(勝手に否定しようと思っても絶対に否定できない)、それは神が私たちのうちに与えたからです。 ここらへんはいまのわたしたちには納得しにくいですよね。 こんなところでどうでしょう。 けっこう危うい部分もあると思うので、なるべくちゃんとした本を読んでくださいね。

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「神が騙す説」は「我思う、故に我あり」で乗り越えた訳ではなく、「誠実な神がそんなことをする筈がない」として乗り越えたのですね。「神が騙す説」と「我思う、故に我あり」との直接的な関連性が見えてこなかった為、訳が分らない状況でした。 私にとって一番の疑問である夢説を乗り越えた手法については、(当質問とは質問の趣旨がかけ離れてきている為)新しく質問を立てさせて頂きます。また、ご回答を頂けたら幸いです。 これからもご指導の方、宜しくお願い致します。

回答No.6

>ここで言う「神」とは、どのような事物を指しているのでしょうか?  キリスト教の神です。 デカルトがいた17世紀というのがどういう時代か、考えてみることが必要だと思います。 まず、16世紀から17世紀にかけて、ルネサンスが起こり、ガリレイが登場します。 ガリレイは「自然という書物は数学的記号で書かれている」と言ったように、世界を数学的に把握しようとした。この自然科学を数式によって解読しようとする試みは、デカルトにも受け継がれていきます。 同時に、未だキリスト教の影響力が強い時期でもあるのです。 デカルトは修道院で数学とスコラ学を学びます。 スコラ学というのは、キリスト教の教義を知識によって基礎づけようとする学問です。 このスコラ学にあっては、信仰と知識は一致するものでなければならなかった。 神が実在することを論理的に証明することは、大変重要なことだったんです。 中世の哲学の大きな特色は、キリスト教の教義によってあらかじめ結論が与えられているということです。 その知識もキリスト教の教義に沿うものでなければ、正しいとは認められない。 ところが中世も時代がくだり、ルネサンスなどを経て、しだいに知識と信仰は分離されていきます。 このような中世の哲学を媒介にして、近世哲学が生まれる。その重要な環となるのがデカルトなんです。 >物の存在証明 わたしたちは物体がそこに存在するということを、あたりまえだと思っていますが、ほんとうにあたりまえなのか。実は、このことはギリシャ時代から、非常に大きなもんだいとしてあったんです。 「ある」ということはどういうことなのか。 一例をあげると、「あるもの」が「生じた」とします。 「生じた」ということは、「あるもの」から「あるもの」が生じたのか、なんにもないところから「あるもの」が生じたのか? なんにもないところから「あるもの」が生じるのはヘンですね。 なら、「あるもの」から生じたのか。とすると、「あるもの」の前に「あるもの」がある、ということになる。すでに「あるもの」があるわけだから、それを「生じた」とするのは、おかしいことになる(わかります? このパルメニデスの思想はモノに置き換えない方がいい)。 となると、「あるもの」というのは、ずーっと「ある」し、「ない」ものはずーっと「ない」ということになる。そうなると「ない」ものについては考えることもできない、ということになる(この部分、わからなくてもいいです。ただ、西洋ではそういうことをずーっとみんなで考えていたんだ、ということと、「ある」ということはそんなに「あたりまえ」のことじゃないんだってことが理解できればそれでいい)。 これはほんの一例ですが、この「ある」ということはどういうことなのか、というもんだいは形而上学として中世にいたるまで哲学の中心としてあったんです。 そこでデカルトが現れた。 すべてのものを疑って、疑って、それでも「考えている私」の存在だけは確かに存在している。このことをたとえ疑うとしても、疑っている私が現にいるからこそ疑えるわけだから、私の存在を証明するものでしかない。 だから、「考えている私」は確かに存在するのだ。 これを第一原理として、神が確かに存在する、ということをデカルトは明らかにします。 つぎに「物体」が存在するかどうかに移っていきます。 「物体」が存在する、とわたしたちは思っている(目や手でさわってみることを通じて)。 これはわたしたちの内部から生じてくるものではない(たとえば夢のようなものとはちがう)。 となると、わたしたちの外部にあるものだ。 もし、ほんとうには存在していないのに、存在する、と思ってしまっているのだろうか? そんなことができるのは、神しかいないはずだ。 けれども、神がそんな「不誠実」なことをするだろうか? とすると、わたしたちが「ものが存在する」と思っているのは、ものが実際に存在するからだ。 「なんでこんなややこしいことをいちいち考えるんだ?」と思った? そうですよね。 やっぱりデカルトは中世人だし、しかもキリスト教というのが、わたしたちにはやっぱりすごく理解しづらいものです。 いまのわたしたちが、そのまますんなり理解できるものではありません。 時間をかけながら、行ったり戻ったりしながら、すこしずつ読んでいけば、なんとなく全体の見取り図がつかめてくる。そうしたら、個々もすこしずつ、はっきりとしていくと思います。 それでも、どこまでいってもむずかしいです。わからないことはいっぱいでてきます(この部分だけ、自信アリ、です)。そのかわり、好きなところも出てくる。わかんないけど、ここが好きだ、っていうところが出てくる。 だから、そういうひとや考え方や文章が見つかるまで、焦らずにいろいろ読んでみてください。 デカルトだったら『方法序説』が比較的とっつきやすいかと思います。薄いし、森のなかで道に迷ったら、どうしたらいいか、なんてことも書いてある(ただこの部分はデカルトのすすめに従っていいものかどうなのか迷うところなんですが)。 まだわからないところがあれば、わたしに答えられる限り答えますので、気にしないで補足出してください。

majissuka
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 適切なご回答のお蔭で、物凄く良く分りました。 まず「誠実な神の存在」が結論としてあり、それに適合させる形で理由付けを進めて行ったのですね。

majissuka
質問者

補足

お言葉に甘えて、もう一つ質問をさせて頂きたく存じます。 当初、デカルトは「間違い等に気が付かせないようにする悪意の魔神の存在」や、「全ては夢である可能性」等を危惧して、方法的懐疑により「我思う、故に我あり」に至った、までは理解できるのですが、我の存在の証明から「誠実な神が私のことを騙す訳が無い」又は「明晰かつ判明な存在は、私が間違いなく存在するのと同様に間違いなく存在する」等の結論に至った過程が理解できません。当初、問題にしていた夢説や魔神説はどこへ行ってしまったのでしょうか? 我の存在の証明により、どのようにしてこれらの問題を乗り越えたのでしょうか? デカルトの「我思う、故に我あり」は、私にとって目からウロコなのですが、この部分については疑問に思っておりました。 宜しくお願い致します。

回答No.5

最初の回答がご質問とずれていたことにいまごろになって気がつきました。ごめんね。 まず、補足のまえに最初の質問に戻ります。 >生得的・明証的な原理 というのは、同じ合理主義者に属する人でもそれぞれに異なることを言っています。 デカルトがその「第一原理」においたのは、あくまでも「私は考える、それゆえに私は存在する」ということでした。ラテン語で言う、かの有名なCogito ergo sum.ですね。 「われ思う、ゆえにわれあり」というとあまりにも有名になりすぎて、みんな好きなように解釈して、ここのカテでもこのことばを使って適当なことを書いてる人が多いんだけど、このことばは「(いろんなことをあれやこれや)思う」という意味じゃないんです。これは思惟ということです。 確実に存在するのは「考えている私」、人間は「考える私」としてしか認識できないけれど「考える私」というのはどういうことかというと、その根っこのところに「精神」がある。 何よりも確実に存在するのは「精神」であり、その現れとして「考える私」がある。 ここで >確実に存在する私を根拠にした原理 これは「私」といってしまうとちょっとまずいんです。 というのも、「私」と言っちゃうと、肉体も含んでしまうから。 やはりデカルトの「生得的・明証的な原理」というと、第一原理、あるいはもっと簡単に「私考える」、あるいは「コギト」ということになると思います。 同じ合理論でもスピノザは「神」とするし、ライプニッツはもっとごちゃごちゃと複雑なことを言っているし、さらにヴォルフは「矛盾の原理」ということを言っています。 とにかくその中味とすることはさまざまだけれど、とにかく人間はだれしも生得的で明証的(つまり、直観的に真理であることが疑い得ないこと)な原理を理性のうちに備えている。その原理をもとにわたしたちは「正しい判断」が行えるのだ、としたのが合理論者ということなんです。 すこし整理がつきましたか? さて、補足にいきましょう。 デカルトが三つの観念を分類してみせた部分はあくまでも「神の存在証明」が主眼ですから、さまざまな観念を具体的にとりあげて、これは「習得観念」「構想観念」と分類しているわけではありません。 まず「私は考える」、これが第一原理として直観として与えられていますから、その根っこにある「精神」、これは生得観念です。 つぎにデカルトは神の存在は、第一原理をもとに、神が生得観念であると証明します。 そのつぎにデカルトがやったことは、わたしたちが物体の存在をどうして認めているのだろうか、ということなんです。 わたしたちは感覚を通じて、物体の存在を認めている。 この感覚は、わたしたちの自由になるものではないために、構想観念ではない。 神がわたしたちに間違って思いこませている、というのも、「神の誠実さ」から考えると、おかしい。 ということは、物体は存在しているのだ。 つまり、「神・精神・物体」に関するわたしたちの観念は、生得的である、としたわけです。 「構想観念」に関しては、先にもすこし言ったように、わたしたちが作りだした観念としてあるだけで、具体的にどういうものが「構想観念」であるとは規定していません。 感官を通じてわたしたちが習得した「習得観念」という規定に較べて、この「構想観念」というのははっきりしないような気がします。「わたしたちが作り上げた観念」といっても、経験の要素を一切含まないような観念がありうるのか、と考えていくと、またちがう問題が浮上してくるように思うんです。 ですからここで答えられるのは、デカルトは具体的に「構想観念」とはどういうものかとは言っていない、ということまでです。 こんなところでどうでしょうか。

majissuka
質問者

お礼

度々のご回答、ありがとうございます。 適切なご回答のお蔭で、初心者の私ですが、少しずつ理解できてきました。

majissuka
質問者

補足

ここで言う「神」とは、どのような事物を指しているのでしょうか? その辺りが理解できない為、「物体の存在を認める」の部分も理解できない状況です。 本来であれば、教えて頂いた書籍を読むべきなのかも知れませんが、今の私のレベルで難解な書物の読破は困難な為、教えて頂けたら助かります。

回答No.4

西洋における神の概念 全体的視野を欠く 近代西洋哲学の行き着く先. それを超えるものとして 西田幾太郎は 東洋哲学的な絶対無をうちだし 現代がその過渡現象期といえる. 東洋哲学的な見方をすれば 窮し極った先には変化が起こる. その変化こそが西田のめざした 絶対無による人類の全体的存在への視野の拡大である.   先人の血を吐くような哲学. 皮を切らせて骨を絶つ哲学であった.  

majissuka
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.3

神とはどんなものかを知らないものが 何故神を語れるのだろう. 思考によって 理性で 言葉で神は語れない. たとえ血の吐くような思考であっても. 神は観ずるものだ.  

majissuka
質問者

お礼

こんにちは。 ご回答ありがとうございました。

  • satorya
  • ベストアンサー率5% (1/17)
回答No.1

簡単に言うと、感覚派、理論派で分けたときの理論派の原理と言えます。 生得的:その場その場で流動する感覚に対して本来具有するさま。 明証的:明らかな証拠に基づいて論証可能なさま。 ただ、質問者様の仰る通り、人間は感覚を介した経験からしか、論証することもできないのではないかという疑問は私も感じます。 理性的認識の根拠になる事物をあげるとしても、万有引力だとか、数学だとかいうものになりますので、実践哲学としては意味の薄いものになりがちですものね。

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 参考にさせて頂きます。

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