• ベストアンサー

全ては意識の中の存在

 こんばんは。  哲学を学ばれた方に質問です。  私は素人なので、優しく教えて頂けたら助かります。  「全ての存在は自我と別個に存在するものではなく、自我の意識の中の存在でしかない可能性もある」と言うのは本当ですか?  宜しくお願いします。

noname#10222
noname#10222

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • toyasan
  • ベストアンサー率39% (9/23)
回答No.3

よく教科書に載っているような説明であれば、デカルトの有名な句『ゴギト・エルゴ・スム(我、思う故に我あり)』によって発展した認識論の流れにたつ議論でよく出てきます。 つまり、デカルトは「考える自分(=自我)」という存在は疑えない、という第一原理から出発して自分の思索を展開します。 ちょっと考えてみてください。つまり、自分以外の存在者はもしかしたら幻想かもしれない、って疑うことはできませんか?デカルトはそう疑ったんです。でも疑えないものが、自分、というものだったんですね。 その意味で、これを突き詰めていくと、(永井均さんの言うような)『認識論的独我論』(つまり、世界を認識するのは自分だけで、自分がいなくなれば、世界を認識する者はいなくなる、自分がいなければ世界の物が存在するということもなくなる、という論)になります。 自分に置き換えて考えてみてください。 自分が居なくなったら・・・と、死後にも世界を確かめれるような不死の魂とかを考慮に入れず、まったく存在しなくなったら、それでも「ここにリンゴがある」と言えるでしょうか?もしかしたら、地球の裏側で起こっている出来事は全部存在していないかもしれない。・・・そういう風に考えていったら、なんとなく「全ての存在は自我と別個に存在するものではなく、自我の意識の中の存在でしかない可能性もある」という主張がなぜなされるのか、理解していただけるのではないかな、と思います。 極端なところでは、ヒュームやバークリといった哲学者の著作を読むと、考えさせられますよ(^-^) 哲学科の博士課程修了者の一言でした。

noname#10222
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  うーむ 考えさせられますね。  

noname#10222
質問者

補足

 質問の補足 (ご回答をして頂ける皆様へ)  この説を否定する説はあるのでしょうか? あるとしたら、それはどのような論理を用いて否定しているのでしょうか?  宜しくお願い致します。

その他の回答 (12)

  • TREX555
  • ベストアンサー率16% (61/367)
回答No.2

これは哲学だけの問題ではなく、物理学でも問題にされています。 「人間原理」を勉強してみてください。 簡単に言えば、「この宇宙は、人間がその存在を認識しているからこそ、存在しているのだ。」というものです。 ホーキング博士も、この理論の提唱者です。 私には、まだ信じられないのですが、量子力学の世界では、このことは常識のことなので、宇宙にも当てはまるのかも知れないと思い始めているところです。

noname#10222
質問者

お礼

 アドバイスありがとうございます。  物理学の問題でもあるのですね。

  • junsato
  • ベストアンサー率12% (84/657)
回答No.1

ご指摘のように、可能性がある。ということです。 哲学に100パーセントの正解はありません。

noname#10222
質問者

お礼

 アドバイスありがとうございます。

関連するQ&A

  • 全ては意識の中の存在 2

     こんばんは。  私は素人なので、易しく教えて頂けたら助かります。  前回「全ての存在は自我と別個に存在するものではなく、自我の意識の中の存在でしかない可能性もあると言うのは本当ですか?」と言う質問をさせて頂きました。    今回も前回と同様の質問ですが、もう少し的を絞った質問とさせて頂きます。  ★今回の質問★  ご回答を頂いている皆様方、頂いたご回答、当サイト、インターネット、パソコン・・・友人、親戚、兄弟、親、自分の肉体(感覚器官含む)・・・等の存在も含め、全ての事物は私の意識の中の存在である可能性の有無について教えて下さい。  宜しくお願いします。

  • 他者の意識の存在を確かめることはできないのでは?

    心の哲学の議論を見ていると、他者には意識があることが前提として語られています。 自分の意識が存在すること、これは確実です。しかし、他人に意識があることを確かめることはそもそも不可能です。そんな不確実な「他人の意識」というものを前提として議論が進められる「心の哲学」に、私は疑問を持っています。皆さんはどうお考えでしょうか。よろしくお願いします。

  • 意識の中に「自分」は存在するのか?

    . 意識の中に「自分」は存在するのか? 肉体で、考えると、目は「自分」の目を見ることが出来ない。 他人、他の物体、を見るのが主である。 鏡に映った「自分?」を見ることが出来るが、それは、直接でなく、間接的に見ている。 しかも、鏡に映った像は「自分」と左右が反対の歪んだ像だ。 自分の腕や、足も見えるが、それらは「自分」の本質への関与度の低い部位だ。 「自分」への関与度の高い「顔」は直接見えないのである。 ※繰り返すが、基本的に「自分」で「自分」を見ることは出来ない。 これを、意識に当てはめて考えてみよう。 (ここでの意識は、心、精神、魂、等と区別していないので、意識という言葉で統一している。) 体が、色々な部位で出来きあがっていて、「自分」への関与度が違い、頭部が「自分」への関与度が大きい。 同様、意識の中も色々な部位で出来上がっていて「自分」への関与度が、大きい、小さいがあると考えられる。 ここで、「自分」部位と認められるのは、を制御できる部位と定義して見る。 例えば、自分の手、足を、自分の意識で思い通りに動かすことが出来る。 これを、自分の部位とすると言うことである。 (他人の手、足は、自分の意識で動かすことが出来ない。) ここで、対象を意識に移して考えてみる。 その中で、自分の意識で制御できない部分があれば、自分の部位と言うことは難しくなるという考えである。 ・例えば、痛みである。  これは、制御できない。だから、意識の中での「自分」の部位から外せると思える。 ・次に考えるのが、喜怒哀楽である。  喜びも、悲しみ、等も制御できない、どこからかやってきて、どこかに消えていく。  同様な理由で、喜怒哀楽も、意識の中での「自分」の部位から外せる。 ・・・・・  こんな事を考えると、「自分」が意識で自由に制御できるのは、思考するという事ぐらいではないか?  しかし、よく考えると、集中して考えている時、その自分を意識していないのである。  あとから、思い起こして、「あの時は、集中して考えていたな。」と認識できるぐらいである。  まるで、手足をわずかに自分の物と、感じる様に・・・  そう考えると、意識の中に「自分」の存在を認めることに、困難を感じる。  物質的に、自分を見ることが出来ない様に、意識の中に「自分」を確認できないのではないか?  との、疑問が生じる。  本当に、意識の中に、「自分」は存在しているのか?  現状では、雑な、思考だが、皆さんの意見を聞かせて下さい。 .

  • 死後の意識

    こんにちは。前にも同じような質問をしていますが、長文だったせいか中々納得のできる答えは得られませんでした。もちろん感謝はしていますが...。 簡潔に書くと 死ぬと自分の意識または自我というものはないのでしょうか? 意識は脳から作り出されているはずです。 脳が死ぬと意識も消えてしまうんですか? でも、自分の存在が完全に無くなるとしたら幽霊の存在は、どうなるのでしょうか? 無になるのは恐ろしくて堪りません。なので眠ることも今では怖いです。 本当に、いつか木村藤子さんのところへ行こうか迷っています。 あ、やっぱり長文になってしまいましたね。すいません。

  • 自我、意識について

    自我・意識とは一体どのような状態なのでしょう?そしてどのようにして生じるのでしょうか?昔からの疑問です。 昔読んだ本では、自己を意識することが自我なんてかいてありました。 自分の考えでは、時間の経過の中で、連続的に自己に意識が向いている状態、みたいに考えています。 つまりもし仮に外界から入ってくる全ての情報が記憶されず自己を自己たらしめる情報が瞬時に消えてしまえば、自我、意識はない。 寝ても自我が連続するのは今までの情報が記憶されているからである。見たいな感じです。 そこで質問です。 1.以上の私の考えは現時点でおそらく正しいと思われているものなのでしょうか? 2.仮に生まれた直後の新生児を、全く刺激のない空間(栄養摂取等生存に最低限の刺激は除く)に隔離した場合、そのままで果たして自我、意識は生まれるのでしょうか?どう思いますか? 稚拙な文章ですみません。 よろしければどなたかご回答よろしくお願いします!

  • 言葉が先か?意識が先か?

    哲学素人です。 ギリシャから現在に至る、哲学の歴史の変遷に興味があり、あくまで趣味です。 現在、構造主義をかじってますが、泥沼に陥いってます。 正しく理解しているかわかりませんが、構造主義の立場では、私たちが思考したり感じたりするときに、まず頭の中で「言葉」を使用し作文を作ることにより「意識」が生まれるとの立場のようです。 意識とは?をネットではなく、哲学辞書を引いて調べてみましたが、 「人は何かを意識する時、自分がそれを意識していることを意識しながら意識するということになる。意識の明確な定義はない。すべての定義は意識によって成立するものだからである。」 とあり、ますます混乱! どなたかすっきりした回答をいただければ幸いです。

  • 存在(者)とは何か?存在論を打ち上げてください。

    哲学の世界は様々な哲学があって それぞれで存在(者)の定義も違うのではないでしょうか? あなたは存在とは何だと思いますか? 無のような内容のないものでしょうか。それとも存在が全てであって存在しないものはない? あなたは存在(者)とは一体何だと思いますか。簡潔に教えて頂けませんか? よろしくお願いします?

  • 《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。

     (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。    ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~  § 広義の無意識と潜在意識  フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、  20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。  意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。  なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。  これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。  すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。  すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。  (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか?   二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。  無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。  (4)  《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。  欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。  (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。  自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。  (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか?  《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。  《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

  • 【無意識】とは?

    あるフロイトの解説書には、『無意識とは、個の内部に留まるものではなく、際限なく、果てしない広がりを持つもので、宇宙の「存在」そのものと同等である』という内容でした。 漠然とこれまで「無意識」とは、「個人内部、自我以外の意識できない部分」と思っていて、ブランクスレート(石版)理論とも符合する概念だと思っていました。 無意識とは何ですか?

  • 自我は存在するのでしょうか?

    思考、思想を周囲から植え付けられたものであるとすれば自我など存在しないのではないでしょうか? 人は傀儡の如きものであり、自我だとするものの全てはインプリンティングの成せる業でしょうか?